作:日秋千夜
やがて日も高く上り,うらうらとした日差しが気持ちよく感じられだした頃に,
西遠寺に本日二人目の訪問者が現れた。
その人物は慣れたしぐさで扉を開け,家の中に呼びかけた。
「……おじさーん?いますかーーー??ただいま到着しましたーーーー。」
奥からひょいと顔を出した宝晶は,その人物の姿を認めるとすぐに
顔をほころばせて出迎えた。
「いらっしゃい,未夢さん。随分早かったのぉ」
「だってママもパパも今日ものすごく早出だったんですよ。
『始発に乗らなきゃ間に合わない〜!』とか言って。
それに付き合わされてこっちも早く支度するしかなくて。
電話も駅からだったんです。も〜,朝から疲れちゃった」
言葉とはうらはらに,溌剌と楽しそうな表情。
疲れなど微塵も感じさせない笑顔がそこにあった。
未夢の手からかばんを受け取って,宝晶は家にあがるよう促した。
「さ,疲れたじゃろ。今日は彷徨は学校じゃ。
卒業式の予行演習があるとかで土曜なのに夕方まで帰ってこんとか…
ご苦労なことじゃ。未夢さんとこはもう終わったのかい?」
「はい。昨日。なんかパパもママも来てくれて。パパなんか泣いちゃって…
も〜恥ずかしかったですよ〜。
でもそのせいで仕事の予定がたてこんじゃったみたいで。
今日から仕事場に泊まりこみするとか…。
でもまあ,理由が理由だし…今回は許してあげようかな,なんてね。
…すみません,そういうわけで。またお世話になります。」
律儀に頭を下げる未夢に,宝晶は微笑みながら頷いた。
「うんうん。彷徨もきっと大喜びじゃ。まだ未夢さんが来ることは
伝えておらんからの〜。帰ってきたら驚くじゃろうなあ」
「あ,まだ知らないんですね」
「ちょっと朝,こっちもいろいろとたてこんでのぉ…
まだ朝の用事も終わっておらん有様じゃ」
話しながら案内されたのは台所。
確かに流しには,まだ朝の食器が片付けられないままに置いてある。
「じゃ,手伝います」
袖をまくり上げてキッチンに向かおうとした未夢を,宝晶が制した。
「あ〜,いい,いい。もうすぐ終わるしの。未夢さんも疲れたじゃろ。
お茶でも入れるから,ちょっと一休みしたらどうかな。茶菓子もあるし」
振り返って一瞬ためらったあと,未夢は笑顔で答えた。
「はい。それじゃ,お言葉に甘えて」
◇◇◇◇
「………んん〜〜っ」
食卓につくと,未夢はテーブルに両手を投げ出してゆっくりと
背中を伸ばした。
少し顔を横向けにして,よく見知った懐かしい風景に目を細める。
―――ただいま。―――
聞こえるか聞こえないかくらいの声でそうつぶやいて,そのまま体を
ゆっくりと前に倒してテーブルに上半身をもたせかける。
テーブルに直に触れる頬から,どんどんとあたたかく懐かしい記憶が
蘇ってくるようだった。
と,懐かしい感触を楽しんでいた未夢の目に映る影があった。
体を起こして,テーブルの上にある木製の菓子鉢に目を留める。
「そういやおじさん,お茶菓子があるって言ってたよね。
これのことかな?
…ちょっとお腹減ったし,さっそくいただいちゃおう〜」
ひょいと一つつまんで口に運ぶ。
その歯ざわりを楽しみつつ,もう一度ぐるりと周りを見回した未夢の目が
カウンターの上に置かれた白い箱を見つけた。
白い箱の横には,プラスチック製の黄緑色のケースが無造作に置かれている。
色は違えど,未夢はそのケースの図柄に見覚えがあった。
「…………?これって,もしかして…………………。
!!!や,やだっ!!??」
未夢がその箱の正体に気付いたのと,
口にしたビスケットのかけらを飲み下したのは
ほぼ同時だった。
まもなくあたりがまぶしい黄緑色の光に包まれる―――
はたっと未夢が気付いた時には,もう変化が起こってしまった後だった。
あわてて食器棚のガラスに,自分の姿を映してみる。
少し長くなった髪。
スラリと伸びた手足。
細いながらも女性らしく丸みをおびた体。
そして,大人びた淡い緑色の瞳が,ガラスごしに未夢を見つめかえしていた。
「…………………!!!」
口に手を当てて,後ずさりをする未夢。声をあげそうになるが,
宝晶に気がつかれないようになんとかそれを飲み込む。
何度も繰り返し自分の姿を確認して,やがて小さく溜め息をつく。
「…やっぱり,これってきっと大人ビスケットだ。
でも,なんでここにあるの??
いつ届いたのかなぁ。…って,今はそんな悠長に考えてらんないよ〜!
おじさんに知られたらまずいよね。どうしよう〜」
未夢はしばらくその場に立ち尽くして考えをめぐらしたが,
良い案は浮かんでこない。
とりあえずビスケットをかき集め,元・未夢の部屋の押入れに隠す。
「これでおじさんが食べる危険はないよね」
少し安心して微笑み,押入れの扉を閉めて立ち上がる。
「あとは元に戻るまで,おじさんに見つからないようにしなくちゃ。
う〜ん…………………とりあえず,街に出てよう」
あたりを見回して,そろりと自分の部屋を出る。
宝晶に見つからないよう,足音を忍ばせてキッチンに戻り,
簡単なメモ書きを残して,未夢は西遠寺を後にした。
◇◇◇◇
それとちょうど同じ頃。
彷徨は弁当を食べ終え,窓際で三太とひなたぼっこをしていた。
「あ〜〜っ,いい気持ちだなぁ〜」
「そうだな」
「これで早く帰れれば言うことないんだけどなぁ〜」
「そうだな…」
春の日差しと,吹き抜ける心地よい風に目を細める二人。
卒業式の練習は面倒だが,この教室から見るこの風景ともあと少しで
お別れだと思うと,いささか感慨深いものがある。
卒業式に使うレコードの件で,卒業委員にもう一度頼みたいことがある
と言って三太が去った後も,彷徨はしばらく窓の外の景色から目が
離せないでいた。
と,そんな彷徨の耳に女子たちの嬌声が響いてきた。
「?なんだ…??」
振り返って窓枠にもたれ,声の主を確かめる。
そこには,クリスの机を囲んで騒ぐ女の子の集団がいた。
「いいなぁ〜」
「それ,お父さんがプレゼントしてくれたの??」
「すっごい似合ってるよぉ〜,その指輪。クリスちゃんにぴったり!!」
「そうですか?ありがとう」
にっこりと微笑むクリスの指には,光る銀色の指輪があった。
「卒業記念だとか言って,突然くださいましたの」
「いいなぁ,優しいお父さんで〜。わたしも欲し〜いっ!!」
「あたしも〜」
「ほら,女の子ってさ,10代のうちに男の人から銀の指輪をもらうと
幸せになれるって言うじゃない?
あ〜あ,あたしにも誰かプレゼントしてくれないかなぁ〜」
「………………ふ〜ん…………………」
体勢を元に戻して,遥か蒼い空を眺める彷徨。
女の子たちのさざめくような話し声は,いつまでも続いていた。
(3)へ続く。