大陸の南北を貫くようにして流れ、東方、西方を分ける境界線として知られるウォルス河。
そこから東に数キロほど行けば、そこはもう別の世界。
西方の民の言葉を使うなら、「異教の地」だ。
大陸東部に住むイリス教徒の国々は、自然への適応の仕方を知っている。
そもそも昔から、大陸の東は人が住めるような土地ではなかった。
1年中降り注ぐ日光に、乾いた風。
雨季もあるにはあるが、その降水量は西側と比べて格段に少ない。
そのままならば3年と持たずに人々は死に絶えてしまっていただろう。
だが、とある事情からここにやって来たイリス教徒達は、そこであきらめはしなかった。
気の滅入るような過酷な自然に耐え、少しずつ、少しずつ、この地を人の住処に変えていった。
運河や溜め池を作り、少ない雨水を最大限利用できるようにする。
畑で作る作物には、サツマイモやじゃがいも等、乾燥に強いものを選ぶ。
ラクダ等の砂漠に強い動物を乗用として飼育する。
年月を経るにつれて、荒れ果てた不毛の大地はいつしか、「人の町」に姿を変えていった。
この国々の人々は、そんな自分達の先祖を心から尊敬している。
厳しい環境にも負けず、自らの力で道を開き、立派な街・豊かな国を残して行ってくれた先祖に、彼らは今もって尊敬と畏怖の念を抱いているのだ。
昔から続いてきたクルゼア教徒との争いも、教義そのものに対する想いでは無く、先祖に対する敬意から生まれたものなのかもしれない。
彼等にとって祖先が信仰していた宗教を否定されるということは、祖先を否定されるのと同じこと。
そこに妥協の入り込む余地は無い。
自分たちの誇りを守るためには闘う以外に道は無い。
この地に住む、ほとんど全ての人間がそう考えていた。
そう、少なくとも、今までは。
国境・ウォルス河から東に50キロ。
オアシスがあった場所を中心に開拓された街がある。
いや、規模から考えると村というべきかも知れない。
村の名は開拓者のリーダーだった男の名を取って、「ロア」と命名されていた。
東方国家の中でも、あらゆる町・村を含めて最も国境に近い村だった。
本来ならば、戦略上の重要拠点として、軍が駐留していてもおかしくは無いのだが、実際は50名ほどの警備隊がいるだけである。
確かに国境に近いという点では危険かもしれないが、この村には取り立てて目立った拠点があるわけでもなく、あからさまに西側を挑発することも無い。
襲われる危険は少ないのに大軍を置いておく意味は無い、というのが中央の見方だった。
なにしろこの村、あまりにも小規模なためにその存在すら知らない者が大半を占めていたのだ。
そしてこの村に住む人々も、それを当然と考え普通の暮らしを営んでいたが、それを少しずつ変える事件がおきた。
西方諸国による、「十字軍」遠征である。
昼下がりの通りは、外出している人々で賑やかになっている。
物売りの威勢のいい売り声や、談笑する女性。
恋人同士なのか、肩を並べて歩く人達もいる。
小さな村だが、住む人は皆生き生きとしているのがわかる。
その村の通りを、一人の少女が急ぎ足で歩くのが、人々の目に映った。
「おや、未夢ちゃんじゃないかい?」
野菜や果物を店に並べていた女性の声に、未夢と呼ばれたその少女は振り返ってニッコリと笑う。
「こんにちは、おばさん!」
頭に被っていたフードを後ろに下げると、肩まで届く金色の髪がサラリと流れて落ちた。
「今日はどうしたんだい?」
「欲しかった本が今日入荷するって、おじさんが言ってたの!だから、早く取りに行きたくって。」
おばさんは、なるほどね〜と頷いた。
この辺境の村ロアには、月に二回ほど都から様々な品物を運ぶ荷馬車がやって来る。
農耕技術や水路の発達などにより、食料や水などはまだ自給できるようになったが、本、特に新しく刊行された物や、お菓子などの嗜好品などと言ったものはその馬車でまかなっているのだ。
欲しい本などがあっても、中央まで買いに行くには遠すぎて金がかかるし、時間も無い。
そんなわけで、この村の人々は皆、その定期馬車を楽しみにしている。
もちろん、未夢も例外ではなかった。
「そんなに楽しみにしてたってことは・・・天文学の本かい?」
ニヤリとしながらのおばさんの言葉に未夢は大きく首を縦に振る。
「うん、そうそう!おばさんよく判ったね!」
「そりゃわかるさ。読書苦手で本を前にしたら1分持たずに寝ちまう未夢ちゃんが読むって言ったら、それぐらいだからねぇ。」
未夢は肩を怒らせて主張した。
「そっ、そんなことないよ!こないだ読んだ本はもっとちゃんと・・・・。」
「『もっと』ってどれぐらいだい?」
「え・・・・え〜と、それは・・・。」
んん?と聞き返されて、未夢は小さな声で言う。
「・・・2分、くらい。」
「ハ〜ハッハッ、や〜っぱりねぇ!」
たまらずに吹き出したおばさんに、未夢は真っ赤になって抗議した。
「もうっ、おばさんってば・・・。」
「ハハハハッ、ごめんごめん!」
謝罪しつつも、おばさんはまだ肩を小刻みに揺らしている。
ようやく笑いの発作が収まると、彼女は話を続けた。
「で?何の本なんだい?」
「ハール・アブーフって言う人の書いた、『天学大全』!王都の方でもすっごい人気なんだって!だから、なかなか手に入らなかったんだけど。」
本当に嬉しそうな未夢の様子に、聞いているおばさんも顔が緩んでくる。
「しっかし未夢ちゃんも、ホントに天文学好きだねぇ〜。」
「ううん、私にも難しいことはあんまり分からないんだけど、星とか、宇宙とか、そういうのが書いてあるの見てると、ついつい買っちゃうんだ・・・。」
未夢はいったん言葉を切り、少し寂しげに言った。
「パパとママの影響かな、やっぱり・・・。」
「・・・父さんと母さん、まだ王都なのかい?」
「うん、この間手紙が来て、まだ当分帰れないだろうって・・・。」
呟く未夢に、おばさんは元気付けるようにポンポンと肩を叩いた。
「ホラホラ、落ち込まないで!若い女の子がそんな顔してたら、せっかくの可愛い顔が
台無しだろ?」
「うん・・・ありがと!」
未夢は顔をスッと上げておばさんに礼を言う。
もう、彼女の顔にはちゃんと、いつもの笑顔が戻っていた。
ライヒスモンド・未夢の両親、優と未来は王都バレスにある、王立天文台にちょうど1年前から招かれていた。
バレスの天文台はその設備、予算、研究員のレベルなどにおいて、東側はもちろん大陸全土でも群を抜いており、天文学者にとってはまさに夢のような場所だ。
だがそれ故に、そこで働くには並大抵の能力では到底不可能である。
優と未来は去年、そこから誘いを受けたのだ。
王立天文台に、二人を特別顧問として迎えたい、と。
しかし最高峰の環境で働くということは、それ相応の苦労を伴う。
バレスで働くことになれば、二人が未夢と一緒に居られる時間は限りなくゼロに等しくなるだろう。
未夢をあのような大きな町で一人にさせて、大丈夫なのだろうか?
悩みに悩んだ末に二人が出した結論が、親戚筋の居るこの村に未夢を預けるという事だった。
「大丈夫、直に一緒に暮らせるようになるさ!それまで頑張りなよ!何かあったらあたしも協力するしね。」
「ありがと!じぁあね、おばさん。」
「あっ、ちょっと待って!」
「?」
立ち去ろうとした未夢を呼び止めると、果物の籠の中からリンゴを1つ出して、未夢に投げてよこす。
「おごりだよ、持ってきな!」
未夢はもう一度おばさんに礼を言うと、本屋のある方向に向けて、さっきまでと同じように駆け出していった。
その後姿を見送ると、ハァッとため息をつく。
「・・・・寂しくないなんてわけはないだろうに、1人で頑張って・・・・。ホント、強い娘だよねぇ・・・。」
一人呟くおばさんの後ろから、能天気な顔をした主人が姿を見せた。
「おおい、腹が減ったぞ!そろそろメシに・・・。」
「このお気楽男!ちょっとはあの娘を見習ったらどうなんだい!!」
叫んだ彼女の右ストレートが、亭主のヒゲ面にまともにヒットする。
白昼の通りに悲鳴が響いた。
大通りを通り、未夢は村でも唯一の本屋に向かっていた。
途中で未夢の姿を見かけた人々が、口々に声を掛ける。
「よう、未夢ちゃん!」
「珍しいもんが入ったぜ、どうだい?」
「なんか困ったことあったら、言いなよ!?」
未夢はその言葉に時々振り返って挨拶と笑顔を返しながらも、本屋への道を急いでいた。
やがて、本の形がデザインしてある看板が見えてくる。
お目当ての場所に到着したのだ。
「こんにちは、グルーバさん!あの、頼んでた本・・。」
息せき切って店の扉を開けた未夢に、奥に座っていた老人は笑みを浮かべて出迎えた。
「そんなに急がんでも、本は逃げやせんよ、未夢ちゃん。」
口元に白い髭を蓄えた本屋の主人・グルーバはそう言って椅子から腰を上げる。
未夢は恥ずかしそうにドアをそっと閉めた。
「すみません・・・。」
「いやいや、元気なのは結構。お前さんが元気にしてるのを見ると、こっちも嬉しくなるでな。さて、この間の本だったね。」
グルーバはカウンターの奥に引っ込むと、すぐに分厚い表紙の本を抱えて戻ってきた。
「これで良かったね?」
「はい、ありがとう!ふ〜っ、やっと手に入ったよ〜〜。」
本を大事そうに抱きしめる未夢を、グルーバは微笑ましげに見つめていた。
「お前さんがこの村に来てから、もうかれこれ1年か・・・。いろいろ大変だろうが、元気そうで何よりだよ。」
未夢はカウンターに本の代金を置きながら、笑顔で言う。
「大変なんて、そんなこと無いよ。みんないい人達ばっかりだし、私もこの村、大好きだもん!」
これは本当だった。
確かにここに来たばかりの頃は、寂しくて泣いてばかりの毎日だったが、皆が一生懸命助けてくれたのをきっかけに、次第に慣れていった。
今やこの村は、未夢の第2の故郷なのだ。
「そうか・・・。そう言ってくれると、私も嬉しいがね。」
言いながらグルーバは、その裏に隠された本音を見抜いていた。
未夢が言ってくれた言葉は、間違いなく彼女の本心だと思う。
だがそれでも、やはり寂しいのだ。
だから未夢がこの店に来るとき、買って行くのはいつも天文学の本なのだ。
遠くに居る両親と、同じものを少しでも共有したい、そう願って。
「未夢ちゃん、この後は特に何も無いんじゃろ?よければこの年寄りと、お茶でも一杯付き合わんかね?」
未夢は澄んだ緑の瞳をクルリと回して問い返す。
「うん、いいけど・・・お店の方は?」
「なぁに、今時分は暇な時間じゃし、構わんよ。ちょっと待ってておくれ。」
グルーバは後ろの戸棚からポッドを取り出すと、紅茶の支度を始めた。
紅茶の葉を入れ、暑い湯を注ぐと、いい香りが立ち込める。
ゆっくりと二人がお茶をすすっていると、不意に扉が開いて一人の男が入ってきた。
「お〜い、じいさん!こないだ頼んどいた剣の辞典だけど・・・って、み、未夢ちゃん!?」
入ってくるなりびっくりした顔で後ずさった男は、未夢も知っている人物だった。
王都から派遣され、この村に駐留している警備隊の兵士の一人だ。
と言うより、この小さな村では知らない人間のほうが少ない。
「こんにちは。」
ふわりと微笑んで挨拶する未夢に、兵士の顔がたちまち真っ赤になる。
「あ、ああ。こ、こんにちは・・。」
およそ兵士には似つかわしくない口調でどもり始めた彼の様子に、未夢は首を傾げた。
「どうか、したんですか?顔真っ赤だけど・・・。」
「い、いや、何でもない!たぶん、疲れてるんだと思う・・・。」
「そうなんですか?」
未夢が驚いている横で、グルーバはやれやれと心の中でため息を付いた。
こんな田舎の村で、「疲れる」ような事件が起こるはずはない。
彼が落ち着きが無くなったのは、明らかに別の理由からだった。
・・・のだが、未夢は本気で心配してしまっている。
「兵士のお仕事、大変だもんね・・・。今、お茶してたんだけど、良かったら、ちょっと休んでく?」
「え・・・。い、いいのかい?」
「うん、もっちろん!」
言ってから未夢はグルーバのほうを振り返り、承諾を求める。
「いいよね?」
「ああ、構わんが・・・。」
言いながら彼は、早くも頭の中で店の商品を避難させる場所を算段していた。
休憩させるのは構わないが、それによって引き起こされると思われる騒動は大いに問題だった。
「じゃ、じゃあ・・・。」
喜んで、と言おうとした時、
『何い〜〜〜っ!!』
またしてもドアがバタンと開いて、10人近い兵士がなだれ込んできた。
皆、この村の警備隊の兵士だ。
未夢は突然のことに目を丸くしている
もちろん、先ほどの青年も慌てふためいて、同僚達に詰め寄った。
「お、お前ら、いつから?って言うか何やってんだよ!」
「ふっ、そりゃもちろん・・・。」
「偶然通りかかったら未夢ちゃんの声が聞こえたんで、立ち聞きしてたに決まってるだろ!」
「抜け駆けしようったって、そうは行かないぜ!」
口々に言う兵士達。
グルーバはそろそろだな、と察して、値段が高めの本から避難させにかかった。
「なぁ、未夢ちゃん。どうせお茶するなら、こんな奴じゃなくて、俺と一緒にしないか?結構珍しいのが最近手に入ってさぁ・・・。」
「お、おい!先に誘われたのは俺だぞ!」
「抜け駆けしようとした奴に、言われたくねぇ!」
「何言ってんだ!お前らみたいなガサツな奴等に茶の味がわかるか!」
「じゃあ、お前はどうなんだよ!」
口々に言う兵士達に、未夢はキョトンとして一言。
「・・・?お茶ならいっぱいあるから・・・みんなで飲めば?」
ポケッとした未夢の言葉に、兵士たちは一斉にガックリとなる。
未夢は新しくポッドに紅茶を煎れると、全員分のカップを用意して注いで行く。
「おいおい、ここでみんな飲む気か?全く・・・ここは本屋であって、喫茶店じゃないんじゃぞ?」
「いいんじゃない?このまんまじゃ収拾付きそうに無いし。」
「そうそう。グルーバさんだって、店の商品壊れたら困るでしょ?」
呆れて呟いたグルーバに、扉の方からまた新しく声がかかる。
扉のほうに一同が目を遣ると、少女が2人立っていた。
一人はスラッと背の高い、黒髪のショートカットと勝気そうな目が特徴的な娘。
もう一人はどちらかというと小柄で、やはり黒い髪を三つ編みで束ねている。
両方とも、未夢と同じくらいの年だった。
未夢はびっくりして叫んだ。
「ななみちゃん、綾ちゃん!」
『こんにちは、未夢(ちゃん)!』
声を揃えて挨拶する二人に未夢は笑顔で駆け寄った。
「ななみちゃん達もお買い物?」
「ううん、あたしじゃなくて、綾がね。新しい物語が出たから、買いたいって言って、その付き合い。」
「そう、そうなのよ!!」
綾ははっと気付いたようにカウンターに駆け寄った。
「ね、グルーバさん!3ヶ月前に出た、『ファンタジー大全集』って・・・。」
「ああ、あれか。すまんが、まだ入ってきとらんよ。王都のほうでいつも真っ先に売切れてしまうようでな。ここに来るのはどうしても2の次になってしまうんじゃ。」
「ええ〜、そんなぁ〜〜・・・。」
ガックリとなる綾の肩を、ななみはポンポンと叩いた。
「まあまあ、次は入ってくるって。」
「そうそう。ほら、お茶でも飲んで、元気出して。ね?」
未夢は綾の方にもカップを差し出した。
「う、うん・・・。」
カップを受け取って、綾は手近な椅子に座り込む。
「エルストロウ・ななみ」と、「メルフワーズ・綾」。
この村に未夢が来て、一番最初の友達がこの二人だった。
見知らぬ村で右も左もわからなかった未夢を、何かと助けてくれたのも、この2人。
3人の年が同じということもあって、未夢にとって一番頼りにできる2人である。
「あ〜〜あ、今日こそ読めると思ったのにな・・・・。」
「綾ちゃん、そういうの好きだよね〜。」
綾は大きく頷いた。
「もちろんよ!謎と神秘、愛と友情、様々な要素が混ざり合う世界!ああ、素敵だわ〜。あたしもいつか、幻獣みたいなのに会えたりしないかな・・・。」
「幻獣ねぇ・・・。」
未夢の手伝いをしていたななみが呟く。
幻獣。
現在の二大宗教であるクルゼア・イリスが誕生する以前。
暗黒時代と呼ばれている原始の時代に人々がその信仰の対象としていたと言われる、幻の獣。
「けど、本当にいたかどうか、わかんないんでしょ?」
「いいえ、絶対にいるわ!」
きっぱりと言う綾。
物語好きな彼女は、幼い頃からその手の話に熱烈な興味を示していた。
最近では、自分で物語を作ることもしているらしい。
未夢とななみも一度見せてもらったことがあるが、趣味とは思えないほどの出来栄えだった。
「はいっ、お茶入ったよ!」
未夢がティーポッドを持って、皆のカップに順番に注いでいく。
ななみと綾は、皿を出して、クッキーなどを並べている。
その様子を微笑ましく見守りながらも、グルーバは考えていた。
これはもう、今日は店じまいだな、と。
「しかし・・・ある意味、異様な光景じゃな、これは・・・。」
店内を見渡してグルーバは呟いた。
今店の中には彼と未夢、ななみと綾、それに兵士が11人の、総勢15人が居座って、紅茶をすすっている。
未夢達はともかく、軽装鎧に身を固めた、いかにもむさ苦しい兵士達が女の子とティータイムというのは、確かに異様な光景だった。
「相変わらず、人気あるよね〜、未夢ちゃん。」
クッキーを頬張りながら綾が言った。
ここに来たときもそう。
本屋の外からでも、未夢がいるな、というのがすぐにわかった。
なにしろ、兵士たちの争う声が外まで響いていたのだから。
今は、何とかその争いにも終止符が打たれ、思い思いに談笑している。
彼らにしてみれば、未夢に紅茶を入れてもらって、その上全員一緒とは言え、こうやって午後のひと時を共にすることができたのだから、とりあえず目標は達成といった所だろうか。
「なんか、みんな変わったよね・・・。未夢が来てから、さ。」
ななみの言葉に、綾も頷いた。
少なくとも、去年までのロアでは、こんな風に兵士と民間人が話すこと自体、考えられなかった事だ。
ここにいる彼らを含めて、この村の兵士たちは全て中央から派遣された者ばかりである。
一応の任期は設定されているが、それは終了と同時に延長されるのがほぼ確実という、結構とんでもないものだった。
彼らにとって、こんな辺境の警備に回されるというのは、ほぼ確実に軍の出世コースから外れたことを意味する。
そのせいか、彼らのほとんどはふてくされたり、怒ったような表情をしている者が多かったし、村の人間も、そんな彼らに進んで話しかけようとはしなかった。
けれど、そんな彼らも変わった。
1年前に、あの少女がやって来てから。
「なんであたしたち、こんなにあの娘に惹きつけられちゃうんだろ・・。」
半ば独り言に近い、ななみの言葉。
綾は何も言わなかった。
たぶん、言った当人にもわかっているのだろう。
「どうして」「なぜ」と言う言葉が意味を持たないほど深いところに、その答えは在ると言うことを。
この村の人間は皆、未夢を見守って、何か困ったことがあれば力になりたい。
そう思っている。
それは決して、家族と離れている彼女への同情などというものではなかったし、単純に見た目が可愛いからでもない。
もちろん外見から言っても、未夢は可愛らしい少女だった。
流れるような金色の長い髪に、大きくて澄んだ緑色の瞳。
この地域特有の、長いフード付きマントのような格好に遮られて普段はわからないが、前に見せてもらった肌は白くてとても綺麗だった。
だがそれ以上に、皆を魅了してやまない何かが彼女にはある。
悲しい時も、辛いときも、周りの人を癒し、勇気付けてくれる何かが。
「二人共、何話してたの?」
未夢が兵士たちとの会話をひとまず切り上げて歩み寄ってくる。
「ううん、モテモテだね〜って話。」
「?」
未夢は不思議そうな顔をしながらも、二人の横に腰掛けて紅茶のカップを取り上げた。
それからはいつものような、女の子同士の雑談会。
最近読んで面白かった本の話や、村であったちょっと変わった出来事などをお互いに話して聞かせる。
しばしの間、華やかな雰囲気が流れた。
不意に、隣のテーブルの兵士達の会話が聞こえてくる。
「おい、聞いたか?十字軍の話。」
「ああ、新しい軍がウィルランドで編成されたって奴だろ?」
「ったく、何考えてんだよ、連中は・・・。」
「ここにも来ると思うか?」
「んなわけないだろ。こんな何も無い村、攻めたって意味ねぇよ。」
「ハハッ、そりゃそうだな!」
会話を聞いたななみが2人に話を振る。
「戦争になっちゃうんだね・・・。」
「うん、聖地を汚されたって、西側の人が怒ってるって言うし・・・。」
綾も沈んだ口調で言う。
未夢は1人考え込んでいた。
どうして戦わなきゃいけないの?
同じ人間なのに。
人を殺して、殺されて。いろんなものを奪い合って。
宗教って、そんなに大事なのかな・・・。
「どうしたの、未夢。」
「あ、うん。ちょっとね・・・。」
気の無い返事に、ななみ達は怪訝な顔をする。
「どうかしたかね?」
紅茶のお代わりを持ってきたグルーバが聞いた。
「ねえ、グルーバさん・・・。なんでみんな戦うの?」
ストレートな物言いに彼も目を丸くする。
「私もイリス教徒だよ?でも、そのために人を殺したいなんて思ったこと無い。いろんな人が、傷ついたり、悲しんだりするのわかってるのに、なのに、どうして・・・。」
「・・・それは、儂にも答えられんな・・・。」
カップに紅茶を満たしながらゆっくりと言う。
「戦う理由は人それぞれ。赤の他人の儂が口を挟んだりはできんさ。ただ・・・。」
グルーバはそこで言葉を切った。
真剣な顔の3人を順番に見回してから続ける。
「クルゼアとイリスの戦いはもう大昔から続いておるが・・・その頃とはもはや事情が違う。両者が戦うのは民族としての「誇り」の問題なんじゃよ。」
「誇り・・・。」
「そうじゃ。個人にしても同じこと。最初は確かに教義の食い違いから争っていたのかもしれん。じゃが、今争っている者達にとってはそんな事は問題ではない。今の自分の守るべき、譲れない何か。それを守るために、皆は戦う。儂はそう思っておるよ。」
未夢はその言葉を、ゆっくりと心の中で繰り返した。
誰もが持つ「譲れぬもの」。
それを守ろうとして、みんな戦うのだろうか。
けど、それでも・・・。
「それでも、やっぱり嫌だよ、私は・・・。」
ポツリと呟く未夢に、3人が視線を向ける。
「お互い傷つけるしかできないなんて・・・そんなの、私は絶対に嫌!『誇り』の為だって、みんながもっと悲しまない方法、きっとあるよ!!」
言ってから、未夢ははっと周りを見渡した。
いつの間にか店にいた全員が未夢を見ている。
「ご、ごめんなさい。何か、偉そうだったかな・・・。」
「ううん、そんなこと無いよ。」
ななみがどこか満足気に言う。
少しだけ、わかったような気がする。
未夢がどうして、こんなにも皆に慕われるのか。
純粋に人の不幸を悲しみ、人の幸せを願えること。
当たり前のようで、とても難しいこと。
それができるから、だから皆、彼女に魅かれるのだろう。
「そうだね。そうできたら、いいよね!」
力強く同意したななみに、一同もうんうんと頷く。
未夢はドアを開けて外を見た。
どこまでも晴れ渡った、曇りの無い空。
この空の下、見知らぬ異国の地にも、戦っている人達がいる。
そんな人達と、いつか自分も出会う日が来るのだろうか。
そんなことを考えながら、空に輝く太陽を見上げる。
一年を通して昼が長いロアの一日は、まだ続きそうだった。
1週間分の食料と、決して多くは無い路銀。
それと、どうしても持って行きたい貴重品に、身のまわりの物が少々。
決して多くは無い荷物をまとめてしまうと、彷徨は夜空を見上げた。
高台にあるこの屋敷からは、月がよく見える。
今日は満月。
柔らかな光に照らされて、不思議と気持ちが和んでくるのがわかる。
月が自分の旅立ちを見送ってくれているのだろうか。
そんな考えが浮かんで、心の中で苦笑する。
ちょっとセンチな気分になってしまっている。
無理も無いことだが。
「何じゃ、彷徨。まだ起きとったのか?」
声と共に部屋に入ってきたのは、父であり、この屋敷の主人でもある宝生・ヴェストヴァイトだった。
「今、準備が終わったところだよ。」
「そうか・・・。」
宝生は彷徨の隣にやって来て、並んで月を見た。
「そう言えば、お前とこうして月を見たことは、今までなかったのお・・・。」
「あるわけないだろ。いっつもグースカ寝てんだから。
「ハハハッ、そりゃそうじゃな。」
そのまましばらく、沈黙が流れる。
不意に彷徨が口を開いた。
「なぁ、親父。聞きたいことがあるんだ。」
「なんじゃ?」
彷徨は大きく息を吸い込んで、言葉を紡ぐ。
「母さんのこと。」
一瞬、宝生の肩が震えたのが見えた。
振り返ったその顔は、いつも陽気な彼には似合わないような、辛そうな顔。
いつも、やかましいくらい騒いで、能天気という評判があるくらいな宝生の、隠された顔。
この表情に押されて、今まで母親の事を聞けないでいた。
けれど、今だけは聞きたい。
いつ帰れるかもわからない、もしかしたらもう2度と帰れないかもしれない、旅の始まり。
母のことを何も知らないまま旅立つのは、嫌だった。
「どうしても知りたいんだ。頼む、親父!」
宝生は彷徨をじっと見つめた。
その表情からは、何を考えているのかは窺い知れない。
彷徨も真正面から、父の顔を見返す。
やがて宝生が、大きく息をついた。
「儂が瞳と会ったのは、まだ叙任されて間もない頃。二十歳の時じゃったよ。」
宝生はゆっくりと語り始めた。
「瞳はこの町でも由緒ある貴族、ブルクハルト伯爵家の令嬢でな。才色兼備の人としてこの町でも評判じゃった。対する儂はと言えば、騎士に叙任されたばかりの、しかも剣も馬術もからきしのダメ男。はっきり言って比べようもなかったな。」
懐かしそうに、壁に掛けてある肖像画に目を遣る。
昔描かれたという、瞳の絵だ。
「あれは、そう・・・雨の日じゃった。騎士にはなったものの、儂はお荷物以下の存在で、騎士団でもだんだん居場所を失っておった。同僚も儂を直接指差しては笑わんが、その目には嘲りが浮かんでおったよ。」
彷徨は意外だった。
苦労知らずだと思っていた父に、そんな時代があったなんて思いもしなかった。
「まぁそんなわけで、とうとう居たたまれなくなってしまってな。雨の中を飛び出してしまったんじゃ。行く当ても無く走り続けて、ついに儂は倒れこんでしまった。もう、どうにでもなれ、こんな惨めな人生なぞ終わってしまえ、そんな気分じゃった所に・・・。」
宝生は一層、切なそうな顔をした。
昔無くした大切なものを、追い求めるように。
「一人の女性が現れた。彼女は儂を自分の家に連れて行き、介抱してくれたんじゃ。」
「それが、母さんか?」
宝生は頷いた。
「そうじゃ。もっとも、あの時は彼女がかの有名な『ブルクハルト・瞳』だとは知らなんだがな。」
「感動の出会い、ってやつだな。」
からかい半分で言った彷徨の言葉に、宝生は笑って否定した。
「そんなロマンチックなもんじゃありゃせんよ。少なくとも儂にとってはな。」
「どうして?」
よくわからない、という表情の彷徨に彼は続けた。
「目を覚ました儂に、彼女はニッコリと笑ってな。疲れが取れるまで、好きなだけここにいてくれ、と言ってくれた。その笑顔を見ているうちに・・・。」
宝生は外の月を見上げる。
「自分がひどく惨めに思えてきてしまったんじゃ。優しくて、美しくて、名家の令嬢で、他人への気遣いもちゃんとある目の前の女性に対して、何の取り柄も無い自分がとてつもなく惨めで、情けなく見えてなぁ・・・。こともあろうに、その歪んだ心を彼女にぶつけてしまったんじゃ。」
『何で助けた!?こんな何の取り柄も無い、惨めで汚いだけの男を!あんたとは違うんだよ!なんであのまま死なせてくれなかった!?』
そう、自分の中にある劣等感を、そのまま彼女にぶつけてしまった。
それがより一層、自分を小さくしていることにも気付かずに。
「本当に、馬鹿な男じゃった・・・。」
宝生は後悔を滲ませて呟いた。
それは彷徨にとっても衝撃的だった。
「・・・それで?」
「・・・彼女は儂をしばらく見つめた後、首にかけておった十字架を外すと、儂の手に握らせて、こう言ったんじゃ・・・。」
『自分が嫌なの?でも、それは絶対にダメ。
自分を嫌いになったりしないで。
神様は決して、惨めなだけの人間なんてお作りにはならない。
貴方にだって、きっとあるはず。誰にもできない、貴方だけのもの。
それが見つかるまで、これを貴方に差し上げます。
大丈夫、絶対に、見つかるから・・・。』
「彼女は泣いておった。儂の事を想って、真剣に泣いてくれたんじゃ。その涙を見ているうちに、今までの自分の小ささを思い知った。もう少しだけ、悪あがきしてみようと思ったんじゃよ。」
「もしかして、親父が神学を勉強したのって、その十字架か?」
宝生は笑って頷いた。
「ああ、そうじゃ。どう言う訳かこっちの方には意外と才能があったらしくてな。公爵閣下に娘の家庭教師をしてくれと頼まれたのも、それがあったからじゃな。」
「そうか・・・。」
彷徨は、どこかすっきりした顔で言った。
「ありがとう、親父。悪かったな、無理言って・・・。」
「いや・・・。」
宝生は、まだ俯いたままだ。
彷徨は不思議に思って聞いた。
「・・・親父?どうしたんだよ?」
「すまんかったなぁ、彷徨・・・。」
顔を上げた宝生の目には、涙が浮かんでいた。
彷徨は驚きに目を見開く。
「な、何がだよ・・・。」
「お前にはいつか話さねばと思っておった・・・。じゃが、どうしても・・・話そうとすると、瞳の顔が浮かんでくるもんでなぁ・・・。とてもじゃないが、話してやれんかった・・・。」
「いいよ、もう・・・。」
宝生はなおも言い募る。
「お前は母さんにそっくりなんじゃよ、彷徨。
お前を見てると、母さんと過ごした日々が思い出されて仕方がない・・・。
あの後、いっぱしになった儂の求婚を、驚いたような顔で、そして照れくさそうに受けてくれた時の事も・・・・。
お前が生まれた時、『子供ができたのよ』と、本当に嬉しそうに言っていたことも・・・。」
「もういいって!」
彷徨は声を荒げた。
「儂がもう少し強ければ、お前にちゃんと話してやれたのに・・・。」
「もういい、止めろよ!!」
彷徨はついに怒鳴ってしまった。
宝生はまた下を向いている。
「すまん、愚痴を聞かせてしまったな・・・。」
「いや、俺も悪かったよ。無理に聞いちまったから・・・。」
宝生は強引に涙を拭うと、彷徨の肩を強く掴んだ。
「親父・・・?」
「彷徨。お前には色々と苦労を掛けた。儂が腑抜けになってしまったせいでな。じゃが、それも今日で終わりじゃよ。お前はお前の道を行け。お前が正しいと思ったこと、信じることをやれ。お前は・・・。」
宝生の手に、力がこもる。
「儂の自慢の息子じゃよ、彷徨。」
そこにあったのは、多分初めてみるだろう、「父親」の顔。
知らないうちに目が熱くなってくる。
「なんだよ、バカ親父・・・。」
後ろを向いて、彷徨は目を擦った。
けれど、後から湧いてくるものを、止められなくて。
「バカ親父・・・何でこんな時にそんなこと、言うんだよ・・・。」
こんな事、言って欲しくなかった。
いつものように、能天気な父でいて欲しかった。
呑気な言葉で送ってくれれば良かったのに。
こんな、もう会えないかもしれない時に限って、こんなことを言う。
反則だ、こんなの。
「馬鹿者。泣くやつがあるか。」
「親父だって、泣いてるだろ。」
「これは、ゴミが入ったんじゃよ。」
「嘘つけよ。」
言った後で、お互いに笑う。
涙を拭って、宝生は息子を見た。
同じように、彷徨も必死で涙を止めている。
(大きくなったの・・・。)
自分と同じくらいの位置まで来た彷徨の肩を、宝生はバンと叩いた。
「行って来い、彷徨。」
「ああ、行って来るよ、親父!」
精一杯胸を張って、旅立ちを祝福している。
それは紛れも無く、父と子の時間だった。
まだ町の人々が寝静まっている頃。
夜が明け始めた頃に、彷徨は屋敷を出た。
宝生はまだ眠っている。
いや、あるいは寝たふりをしていただけかもしれないが。
彷徨は、町が一望できる丘の上に昇った。
そこは、街を見ることのできる最後の場所。
この丘を下ってしまえば、もう見ることは適わない。
朝焼けに照らし出されたエーベンブルクを、彷徨は見つめた。
自分が生まれ育った、故郷の風景。
脳裏に、今まで出会った人々の顔が蘇る。
三太にクリス、クレイン公爵、そして宝生。
その他、自分を助けてくれた、数え切れない人々。
(今まで、ありがとう。)
感謝の気持ちとともに、心の中で礼を言う。
この町に生を受けてから、彷徨は皆に随分と助けられた。
騎士の家系とはいえ、決して裕福とはいえない彼ら親子を見守ってくれた。
時には優しく、時には厳しく。
(こんな俺に、みんな良くしてくれた。本当に・・・。)
「いい街だったよなぁ。」
突然後ろから聞こえた声に、驚いて振り向く。
そこに立っていたのは。
「・・・三・・・太?」
そう、親友の三太その人だった。
自分の身の丈の二倍ほどもある槍を担いだその姿は、お世辞にも似合っているとは言え無い。
「お前・・・どうしたんだよ、その格好・・・。」
「どうしたって、決まってるだろ?」
三太は親指をグッと立てて言った。
「俺も行くぜ、十字軍!」
彷徨はしばらくの間、彼が何を言ったのかわからなかった。
ようやく正気に戻ると、慌てて叫ぶ。
「行くって、どういうことだよ!お前別に騎士じゃないんだから、行かなきゃいけない理由なんて無いだろ!?それにお前、確か宗教とかにも興味なかったはず・・・。」
「ああ、全然無いな。」
「だったらなんで・・・。」
三太は彷徨に歩み寄った。
「俺もさ、見てみたいんだよ、外の世界。この街の中でずっと育ってきた。知らない世界、知らないこと、ちゃんと見てみたい。それに・・・。」
ニヤリと笑って言う。
「お前一人で行かせるなんて、やっぱ寝覚め悪いしな。一人くらい、お前のことよ〜く分かっている奴が必要だろ?」
「三太・・・。」
彷徨が何か言いかけるが、三太は笑って遮った。
「んな顔すんなって!従者の一人も連れて行った方が、騎士様の見栄えもいいだろ、な?」
「バカ野郎・・・。」
彷徨は、無性に嬉しかった。
親友の存在が、こんなに嬉しいと思えたのは、初めてだった。
「ほんと、バカだよ、お前・・・。」
「お前ほどじゃねえよ。」
お互いに笑って、そしてがっちりと手を握り合う。
「ってなわけで、これからもよろしくな、彷徨!」
「ああ。」
しばらく手を握り合った後、2人は街を見下ろした。
「14年・・・長かったな。」
「ああ。」
「また、帰ってこような。」
「当たり前だろ。」
彷徨は剣を引き抜くと、眼下に広がる街並みに、敬礼を送る。
尽きせぬ感謝と、新たな決意を込めて。
(また会うその時まで、お別れだ、エーベンブルク。)
彷徨はくるりと彷徨を変え、歩き出した。
それに肩を並べて、三太も続く。
2人とも、もう振り返りはしなかった。
まだ見ぬ新しい世界へ、旅立つ少年達を、朝の光はまぶしく照らしていた。
物語を、始めよう
それぞれの想いを胸に秘めた、幾多の人々が話の主役
彼らを巻き込み、時代とともに揺れ動く世界が話の舞台
異国の少女に、騎士の少年。
花の国の姫君に、美しく誇り高い王子。
その他諸々の、幾千の人々。
自分の道を捜し求めるもの達の、出会いと別れの物語を
ここから、始めよう―――
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