「赤ちゃん・・・?」
「ああ・・赤ん坊だな。」
しばらくの自失から、ようやく立ち直った未夢が声を上げた。
彷徨も頷いて呟いた。
「何で、こんなとこに?」
赤ん坊はつぶらな瞳で、二人を見上げている。
不意に、その瞳が潤んだ。
「ふ、ふええええ〜〜〜。」
泣き出してしまった赤ん坊を、未夢は慌てて抱き上げた。
「あ、ごめんね。私が蹴っ飛ばしちゃったから・・・。」
「しかも、派手にこけたよな。」
「そこ、うるさい!」
彷徨をビッと指差して、未夢は抗議する。
が、その声に驚いたのか、赤ん坊の泣き声は派手になっていく。
「あ、ごめんね。えっと・・・ど、どうしよう・・・。」
未夢は途方に暮れてしまった。
一人っ子という境遇も手伝って、未夢には生まれてこの方、こんな小さな子の面倒を見た経験が無い。
どうすればいいのだろう。
泣き続ける赤ん坊を前にして、未夢は必死で考えた。
その姿を見ているうちに、ハッと思い出す。
自分も、こんな風だったことがある。
もちろん、はっきりとは覚えていないけれど。
小さい頃、自分が泣いている時。
泣くしかできなかった時。
そんな時に・・・。
(そうだ。ママが・・・。)
未夢の両手が、自然に赤ん坊の身体をふわりと包み込む。
傷つけたりしないように、そっと、優しく。
「だいじょうぶ。怖くないよ。泣かなくていいよ、ね?」
ゆっくり、ゆっくりと、赤ん坊を安心させるように揺らしながら話しかける。
まるで、母親のように。
しばらくすると、次第に赤ん坊の泣き声が小さくなってきた。
「る・・・う?」
不安げに上を見上げる赤ん坊に、未夢はニッコリと微笑んだ。
「そう、だいじょうぶ。」
コツンと赤ん坊の額に自分のそれを合わせる。
赤ん坊の目が見開かれて・・・。」
「きゃーい!」
次の瞬間、赤ん坊はとびっきりの笑顔を見せた。
まるで太陽のような明るい笑顔。
それを見た途端、未夢と彷徨は胸の中が、ほんわかと暖かくなったのを感じた。
「よかった・・・ごめんね。私が不注意だったから。」
「あいっ!」
赤ん坊が未夢の言葉をどこまで理解したかは分からない。
けれど、その表情には、もう怯えは浮かんでいなかった。
小さな手を一生懸命振って、感情を伝えようとしている。
「きゃっは〜〜!!」
「かっわいい〜〜。」
天使のような笑顔に、未夢は語尾にハートマークでもつきそうな勢いで赤ん坊に頬擦りする。
彷徨が呆れたように口を挟んだ。
「おい、落ち着けよ。他所の子供なんだから、あんまり構いすぎると・・・。」
「何よう。彷徨さんだって、顔が緩んでますよ〜?」
「え!?」
思わず顔に手を当てる彷徨。
未夢はそんな彼にはお構いなしに、赤ん坊をじっと見つめた。
「でも・・・この子、どこの子なんだろ。」
「さあな。」
彷徨は周りを見渡した。
こんな小さい子供なら、普通は誰か保護者と一緒に居るのが常識だ。
だが、二人がこれだけこの子と密着しているにも拘らず、村人はさっきまでと同じく、二人から距離を置いたままだ。
てっきり、先程のように親が怒って連れ戻しに来るかと思ったのだが。
親とはぐれた迷子、という可能性も考えられるが、それにしてもやはり年齢が低すぎる。
第一はぐれようにも、この子はまだハイハイくらいしかできてないではないか。
だとすると・・・。
「いたたたた!!」
「!?」
彷徨の思考は、突然上がった悲鳴で中断された。
見ると、赤ん坊が未夢の髪の毛を掴んで引っ張っている。
「うきゅううう!!」
「ちょっ、ダメだってば!痛い痛い!!」
「何やってんだよ。」
言いながら彷徨は歩み寄って、未夢から赤ん坊を引き離す。
すると赤ん坊は今度は、彷徨の頬を思いっきり引っ張ってきた。
「いててて!やめろ!こらっ、止めろって!」
必死の思いで窮地を逃れる彷徨。
赤ん坊は一瞬きょとんとした後、
「ふ、あああああん!!」
先ほどに勝るとも劣らない大声で泣き始めてしまった。
彷徨は焦って赤ん坊を揺さぶる。
「おい・・・泣くなって。」
不器用な手つきで赤ん坊を静めようとするが、全く効果が無い。
彷徨はため息をついた。
「あ〜、もう。おい未夢、何とかしろよ。」
「そんなこと言ったって・・・?」
腰に手を当てて言い返そうとした時、未夢はふと気付いた。
赤ん坊が、自分の指を強くしゃぶっているのを。
唐突に未夢の頭の中に、ある考えが閃く。
「もしかしてその子・・・お腹空いてるんじゃない?」
カランカラン
鈴の音と共に、赤ん坊を抱えた未夢と、そして彷徨は店のドアを潜った。
この村にいくつかある食料品店のうちの一つ。
様々な食べ物、もしくはその材料が所狭しと置かれている。
彷徨はカウンターに歩み寄った。
彼の記憶が正しければ、羊の乳は東でも好んで飲まれているはずだ。
店の主人は、二人を見て露骨に嫌そうな目を向けてくる。
「羊の乳、瓶詰めのやつ、あるかな。」
「・・・ないこたぁ、ないけどねえ。」
そう言いながら、主人は目の前の彷徨と、その後ろの未夢を交互に見比べる。
何を気にしているのかはよく分かった。
「じゃあ、それをくれ。瓶のままでいい。」
「その子、あんたらのなんなんだい?」
怪しんでいることを隠さずに問いかけてくる店の主人。
下を向く未夢の前で、彷徨は手を差し出した。
「いいから、早く。赤ん坊が腹空かせてるんだ。」
「困るんだよねぇ。余所者がいきなり入ってきてチョロチョロばかりするばかりか、子供まで連れ込んで。若造が勢いに任せて子供作るのは勝手だけどね。もうちょっと周りの迷惑ってものを・・・。」
バアンッ
店の中に大きな音が響き渡った。
主人の身体がビクッと震える。
未夢も、その腕に抱かれた赤ん坊も、驚いて顔を上げた。
彷徨が両手でカウンターを思いっきり叩いたのだ。
物凄い形相で店主を睨みつけると、彷徨は大きく息を吸い込んで叫ぶ。
「売ってくれるのかくれないのか、どっちなんだ!!」
鋭い視線に身を震わせながら、主人はカクカクと首を上下に振る。
「う、売る。売るよ!」
「いくら?」
「ええ・・・ご、50ゼニー・・・。」
彷徨は懐から硬貨を取り出してカウンターに置いた。
店の主人は壊れたゼンマイ人形のようにカタカタ震えながらそれを取ると、同じような動きで棚から瓶を一つ持ってくる。
「あと、できれば暖めてやりたいんだけど。」
「あ、ああ。わかったよ・・・。」
頷いて主人は瓶を持って奥へ引っ込んだ。
それを見届けてから、彷徨は未夢を振り返った。
「もうしばらく、待っててくれな?」
「あ、うん・・・。」
まだ呆然としたまま頷く未夢。
そっと覗き込んだ彼の顔は、もういつもの表情に戻っている。
しばらくして、主人が瓶を手にして戻ってきた。
「ほ、ほら、持ってけ。」
「どうも。」
瓶を受け取ると、熱さを確かめた。
彷徨はそれを未夢に手渡した。
「熱さ、これでいいかな。」
「うん。いいんじゃない。」
瓶を頬に当てて熱さを確認した未夢が頷いてみせる。
彷徨も頷き返すと、店の主人に顔を向けた。
「じゃあな。」
「ま、毎度どうも・・・。」
店主の声を背に、三人はドアを潜って外へ出て行く。
しばらくそのドアを見つめていた店主は、倒れるようにその場にへたり込んで呟いた。
「こ、怖ええ・・・何なんだ、あのガキは・・・。」
店の外に出ると、未夢と彷徨は赤ん坊を連れて人気の無さそうな所まで移動した。
大通りの裏、森に隣接していて目立たない所に来ると、未夢はくるりと振り返る。
「この辺で、いいんじゃない?」
「そうだな。」
二人は座り込んで、さっき買ったミルクを赤ん坊の口元に持っていく。
もちろん、飲みやすいように管もつけて。
「はい、どうぞ。」
「?」
赤ん坊はそっと口を付けると、次の瞬間すごい勢いで飲み始めた。
「ふふっ、一生懸命飲んでる。」
「ああ・・・腹減ってたんだろうな、きっと。」
二人は夢中で飲んでいる赤ん坊を微笑ましげに見つめる。
しばらく経った頃、未夢は彷徨を見て言った。
「さっきはびっくりしちゃった。彷徨があんな怒るなんて、思わなかったから。」
「・・・疲れてたから、気が立ってたんだよ。」
照れくさそうにそっぽを向く彷徨を見て、未夢はクスクスと笑う。
彷徨がムッとしたように振り返った。
「何だよ。」
「ううん、何でもない。」
未夢が首を振ると同時に、赤ん坊の口が管から離れた。
瓶はもうすっかり空になっている。
「はい、いい子だね〜。」
「あーい!」
バンザイをする赤ん坊を見て、彷徨は呟いた。
「こいつ、本当にどこの子供なんだろうな。」
「うん。この村の子だと思うけど。あっ、でも・・・もしそうなら、この子のパパとママ、今頃探してるんじゃないかな。」
「わかんねーぞ。捨て子って言うことも考えられるだろ。だとしたら、見つけても知らん顔されるだろうな。」
「えーー!?こんな小さい子を!?ひっどい親!!」
「まあ、あくまで可能性の一つだけど・・・ん?どうした?」
赤ん坊がこちらをじっと見つめている事に気がついた彷徨が、そう問いかける。
しばらく二人を凝視した後、彼はその小さな手で二人を指差した。
「マンマ、パンパァ。」
『・・・・・はい?』
いきなり赤ん坊の口から飛び出した言葉に、未夢と彷徨は思わず目を点にした。
あまりの突飛な発言に、頭がついていかない。
「い、いま、なんて言った?」
「マンマ!パンパ!」
彷徨の呆然とした問いに答えるように、赤ん坊はさっきよりも力強く叫ぶ。
一瞬、間が空いて。
『ええええ〜〜〜〜〜〜〜!?』
凄まじい驚きの声が辺りに響き渡った。
「な、なんで〜〜!?何で私がママになっちゃうの〜〜〜!?」
「何で俺がパパになるんだよ〜〜!?」
当たり前と言えば当たり前だが、二人はパニックに陥って叫んだ。
が、目の前の赤ん坊はそんな二人にはお構いなしにニコニコ笑っている。
未夢はまだ混乱したままの頭で、ガシッと赤ん坊の肩を掴んだ。
「ね、ねえ、よく見て?私、あなたのママじゃないでしょ?ほらほら!」
「マンマッ!」
必死の説得にも拘らず、先程と全く同じ行動を繰り返す赤ん坊。
ガクッと崩れ落ちた未夢に代わって彷徨が屈みこんで言った。
「なあ、よく見てくれよ。俺達、お前のパパとママなんかに見えないだろ?ホントのパパとママはどこなんだ?」
「パンパッ。」
・・・・努力の甲斐も無かったようだ。
脱力して座り込んでしまう未夢と彷徨。
赤ん坊はハイハイで二人のところまで来ると、膝の上に乗っかった。
服を引っ張られても、二人はそれに反応する余裕さえない。
ぼんやりと赤ん坊を見ていた彷徨だが、急にパッと閃いたように言う。
「なあ、・・・これって、よくあるアレじゃないのか?」
「アレって?」
きょとんとして聞き返す未夢。
「だからさ、小さい時なんかに自分より年上の男と女見ると、誰でも『パパ』『ママ』って呼んじまうやつ。そういうの、よくあるって言うだろ?」
「そう言われてみれば・・・。」
未夢は自分の記憶を探った。
そう言えば昔、母に言われていたような気がする。
全く赤の他人を自分は「パパ」「ママ」と呼んでいた、と。
てっきり、自分の側に両親があまり居なかったから寂しさ紛れにそうしていたのだと思っていたのだが、案外どこの子供でも小さい頃はそうなのかもしれない。
「そう・・・そうだよね!」
「ああ、きっとそうだ!」
二人は納得した嬉しさに大きく頷き合った。
もっとも、その言葉にはあまり力が無かったのだが。
「けど、差し当たりこいつをどうする?」
「そうだねえ・・・。」
未夢はじっと赤ん坊を覗き込む。
彼女の緑色の瞳と、赤ん坊の青い瞳がぶつかり合う。
「きゃーい!」
「よしっ、決めた!今日一日、私がこの子の面倒見る!」
「・・・本気か?」
ため息をつきつつ聞く彷徨に、未夢は何の迷いもなく言い切った。
「もっちろん!」
やれやれと肩を竦めたが、反対はしなかった。
どっち道、この赤ん坊の身元が分からないうちは、自分達が世話してやらねばならないのだ。
帰ってから村長に相談すれば何とかなるだろう。
それまでの間だけなのだ。
それに何より、彷徨自身、何故かは分からないが、この赤ん坊との関わりをこのまま断ち切ってしまう気にはなれなかった。
「しょうがない、か。」
「よしっ、決まり!じゃ、そういう事で。今日一日よろしくね、キミ!」
「あーい!!」
満面の笑顔を見せた未夢に、赤ん坊は彼女に負けないくらいの笑顔で応えた。
先程歩いていたのと同じ通りを、二人は歩いている。
ただしその光景は、さっきまでとは違っていた。
未夢の腕に抱きかかえられた、小さな赤ちゃん。
彼女の腕の中で身を丸くしながら、辺りを興味深そうに眺めている。
「ね、これから、どこに行くの?」
「そうだな・・・って言っても、正直行く宛て無いんだよなぁ。」
彷徨は途方に暮れて天を仰いだ。
今まで見てきた住民の反応から、この村が外部の人間にあまり好意を持っていないのは嫌というほど分かったが、それだけでは不十分だ。
子供の使いでは無いんだし、もっと決定的な事を掴んで帰らなければ。
「キミは何か知らない?な〜んて・・・そんな訳ないよね。」
「る?」
苦笑を浮かべて言った未夢の言葉に、赤ん坊はキョトンとした顔で見上げる。
未夢がそっと赤ん坊の髪を撫でながら、彷徨に話を振ろうとした時。
グ〜〜〜〜
いきなり聞こえてきた音に、彷徨は思わず未夢に顔を向けた。
未夢は自分のお腹の辺りを見て、次の瞬間真っ赤になった。
「あ、あはははは、お腹空いちゃって・・・。」
照れ笑いをの表情で言う未夢。
彷徨は可笑しそうにプッと吹き出した。
「ホンット正直だよな、お前。」
「な、何よ。悪かったわね!」
そう言って、未夢はプイッと横を向いてしまった。
彷徨はやれやれと肩を竦めながら荷物の中を探す。
しばらくして、彼は包みを一つ引っ張り出してきた。
何だろうと未夢が見ていると、その中に包まれていたのは一つのパン。
「ほら、食えよ。」
「あ・・・ありがと。」
戸惑いながらも未夢はそれを受け取る。
彷徨はもう一つ取り出して、自分も頬張りながら、
「さて・・・どうするかな。」
パンを片手にボンヤリと呟いた。
「あら、貴方達・・・。」
後ろから聞こえた声に未夢たちは振り向いた。
黒髪を掻き上げながら、女性が歩み寄って来る。
「あ・・・。」
「あんた・・・!」
彷徨の目に警戒の色が走った。
村に着いたばかりの頃に、酒場で会ったあの女性だ。
「また会ったわね、お二人さん?」
そう言って微笑む女性の顔から、酒場での出来事を思い出して、彷徨は無意識の内に未夢を後ろに庇った。
だが、その時の詳しい経緯を知らない未夢は、ニコニコしながら挨拶を返す。
「こんにちはっ。」
「あら、お仲間が増えてるわね。」
彼女は未夢に抱きかかえられた赤ん坊を興味深そうに見て言った。
未夢が慌てて説明する。
「え、えっと、この子は・・・。」
「貴方達のお子さん?」
『違います!!///』
一気に真っ赤になって二人は叫ぶ。
女性の顔は、至って真剣だった。
「違うの?」
じっと未夢の目を覗き込んでくる女性。
「この子、道端に座り込んでたんです。どこの子供か分からなくて、とりあえず私達の用が終わるまで預かってて・・・あっ、貴方は何か知りませんか?えっと・・・。」
そこまで言って口ごもってしまった未夢を見て、女性はハッとしたように口に手を当てた。
「やだわ。私ったらまだ名前も言ってなかった。ごめんなさいね。」
自分の頭をコンコンと叩いてから、彼女はニッコリと笑顔を見せる。
「私の事は『ミズノ』って呼んで?」
「私は未夢。ライヒスモンド・未夢です。よろしく、ミズノさん。」
未夢が笑顔で差し出した手をミズノは握り返す。
握手が済むと、未夢は自分の隣で何故かさっきからムスッとした顔をしている彷徨に視線を移した。
「で、この人が・・・。」
「ヴェストヴァイト・彷徨だ。」
言いながらも彷徨の顔は、さっきまでと同じく厳しいままだ。
ミズノは苦笑して言った。
「ホント、警戒されてるわね〜。別にそんなに睨まなくっても何もしないし、できないわよ、私には。」
「そうだよ。この人、悪い人じゃないってば。さっきから彷徨、態度悪いよ?」
少し怒ったような未夢の口調に、さすがに彷徨も決まりが悪そうになる。
「すみません・・・。」
「ま、でも、貴方の気持ちも分かるわ。心配なのよね、その娘が。」
「え!?」
意味有り気に未夢を見ながらミズノが言う。
彷徨は傍目にも分かるくらい取り乱して叫んだ。
「べ、別にそういう訳じゃ・・。」
「ふふっ、照れ屋さんなのね。」
少々意地の悪い笑みを浮かべているミズノ。
彷徨は居心地悪そうにそっぽを向き、未夢はそんな彼を意外そうに見つめる。
唯一赤ん坊だけは、変わらずにニコニコしたままだ。
「ところで・・・未夢さん、だったかしら?」
一転して真面目な表情に戻ったミズノは、未夢に視線を戻した。
「?何ですか?」
「心配かけたくないっていうのはわかるけど・・・ガマンしすぎはよくないわよ。」
未夢は怪訝そうな顔で聞き返す。
「どういう・・・事ですか?」
「こういう事。」
そう言ってミズノは、未夢の肩に手を伸ばし、ポンッと軽く叩いた。
「痛っ・・・。」
「未夢!?」
肩を抑えて辛そうな声を上げる未夢に、彷徨は慌てた。
ミズノはため息をついて未夢の側によると、顔を未夢の肩に近づけてじっと凝視する。
「やっぱり我慢してたのね。歩き方がちょっとおかしかったから、もしかしたらとは思ってたけど・・・・矢傷っていうのは怪我の範囲は狭いけど、決して楽観視していい傷じゃないのよ?」
ミズノの言葉を聞いて、ようやく彷徨は理解した。
未夢が今まで、傷の痛みを堪えながら歩いていた事に。
「お前っ・・・やっぱり我慢してたのか。」
「・・・別に、すっごく痛いってワケじゃないよ。普通に歩くだけなら、全然支障ないもん。」
「傷を我慢しながら歩く『普通』がどこにあるんだ!」
辺りに響き渡るほどの大声で叫ぶ彷徨。
未夢の腕の赤ん坊が、不安そうに身じろぎした。
「何で黙ってたんだよ!あれ程、痛くなったらすぐ言えって言っただろ!?」
「だって、それは・・・。」
「彼に心配かけたくなかったから・・・よね?」
言いかけて口ごもった未夢を代弁するかのようにミズノが口を挟む。
彼女は二人を交互に見ながら続けた。
「でも、このままじゃよくないわね。」
ミズノはしばらく考え込んだ後、顔を上げてキョロキョロと周りを見回す。
そしてその内、彼女の視線は建物の裏にある、木が密生している所で止まった。
「よし、あそこならいいか!」
「はい?」
わけがわからず首を傾げる未夢に、ミズノは地面に置いておいた荷物を肩に引っ掛けると、未夢を見てニッコリと笑った。
「ついて来て。手当てしてあげる。」
「手当てって・・・ミズノさん、お医者様なんですか?」
「元、ね。今は違うけど。」
「そうなんですか?」
意味深な言葉を吐くミズノに、未夢は興味をそそられたらしく、目を見開いて彼女を見た。
彷徨はじっと探るような視線を彼女に向けている。
「まあ、一発で完全回復〜ってワケにはいかないだろうけど、何もしないよりはマシだと思う。どうする?」
問いかけてくるミズノに対し、未夢は真正面からその瞳を覗き込む。
しばらく沈黙が続いた後、未夢ははっきりと頷いた。
「わかりました。お願いします。」
「おい、未夢・・・。」
何か言おうとする彷徨を、未夢は手を差し出して押し留めた。
「彷徨、さっき言ってたじゃない。後でお医者さんに診てもらえって。ちょうどいいよ。」
「けど・・・。」
「それに、さっきも言ったでしょ?この人は悪い人じゃないよ。ホントに、信用できる人・・・大丈夫だから、ね?」
「・・・・。」
強い確信を持って言い切る未夢に、彷徨は言葉を失った。
不意に、小さな手が彷徨の袖をチョイチョイと引っ張る。
見ると、赤ん坊が袖を引っ張って、ニッコリと笑っている。
「・・・この人に任せろって、言いたいのか?」
「あーい!」
その通りと、言わんばかりに大きく頷くその姿に、彷徨はふうっと息をついた。
「わかりました・・・お願いします。」
「そうこなくっちゃ。じゃ、早速あっちに行きましょうか。」
そう言って、先程目を付けた場所を指差すミズノ。
彷徨の表情が強張った。
「何で、ここじゃダメなんだ?」
彼の言葉に、ミズノは呆れたような視線を彼に向ける。
「あのねえ、肩の傷を手当てするのよ?こんな人前で出来ると思う?」
「あ・・・。」
言われて見ればその通りだ。
当たり前の事に気付かなかった気まずさで、彷徨は焦った。
ミズノは追い討ちのように彷徨に囁く。
「それとも、貴方も見てる?手当てする所。」
「あ、いや、その・・・・。」
赤くなって、彷徨は後ろを向いた。
そしてそのままで、小さく一言。
「ここで、待ってます。」
「はい、素直でよろしい。」
笑いながら頷いて、ミズノは未夢を見た。
「じゃ、話もまとまった所で、行きましょうか・・・って、どうしたの?」
「いえ・・・。」
疑問の声を上げるミズノ。
彼女の前の未夢の顔は、彷徨に負けない程、真っ赤になっていた。
人目に付かない木陰まで来ると、ミズノはさっそく荷物をひっくり返して、手当てに必要な品々を取り出し始めた。
一通り準備が整うと、彼女は木の陰に座って未夢を手招きした。
「じゃ、始めましょうか。って言っても、そんなに大げさなもんじゃないけどね。」
未夢は腰を下ろして、傷のところを彼女に見せる。
傷をしばらく観察してから、ミズノは意外そうに目を見開いた。
「へえ、結構良く手当てしてあるじゃない。」
言いながら薬らしいビンの蓋を開けて、脱脂綿にそれを染み込ませる。
薬独特の匂いが辺りに漂った。
「痛っ・・・。」
傷口に脱脂綿が触れた時、思わず声を上げる未夢。
「染みる?我慢してね。ちょっとの間だから。」
言いながらテキパキと手当てを進めるミズノ。
その姿は、まるで現役の医者の様に見える。
「あの・・・。」
「何?」
何となく発した未夢の問いかけに、ミズノは傷口から目を離さず答えた。
「どうして、手当てしてくれるんですか?会ったばかりの私を。」
突然の問いに彼女は少し驚いた顔で未夢を見たが、すぐにふっと微笑んだ。
「昔のコト、思い出しちゃって。」
「昔のこと?」
意味有り気な言葉に、未夢は思わず聞き返した。
ミズノは再び傷の手当てを再開する。
「そ。ずっとずっと、昔のこと。」
「それって・・・・。」
どういうことですか、と聞こうとして、未夢は口をつぐむ。
手当てをしているミズノの、何だか切なそうな顔が目に入ったからだ。
聞かないほうがいいのかな。
言ってみれば直感で、未夢はそう感じた。
白い包帯を、同じくらい白く細い未夢の肩に巻きながら、ミズノは続けた。
「もう一つは、貴方達を気に入ったからよ。個人的にね。」
「はあ、気に入った、ですか・・・。」
納得できるようなできないような、妙な答えに、未夢はそう返すしかなかった。
手早く、だが丁寧に巻かれた包帯の端をハサミでチョキンと切って、ミズノは言った。
未夢は何とはなしにその手当てされた部分を押さえてみる。
さっきよりも、格段に良くなったという感じは受けないが・・・。
「気になる?」
未夢の表情を読んだらしく、道具を片付けながらミズノが言う。
「まあ、急に効果が出てくるわけじゃないわ。けど、もう少し経ったら、絶対楽になってるはずよ。後は、無理な運動は慎むこと・・・・って言っても、やっちゃいそうよね。貴方の場合。」
クスクスと笑う彼女に、未夢は赤くなった。
身に覚えがあるせいで、反論できないのが悔しい。
「何はともあれ、これで治療は終了。お疲れ様。」
「どうも、ありがとうございました!」
ペコリと頭を下げる未夢に、ミズノは微笑んだ。
「じゃ、そろそろ戻りましょうか。彼も心配してるだろうしね。」
二人が戻った時、彷徨はルゥにしがみ付かれて悪戦苦闘していた。
格闘しながら、彼の抗議の声が聞こえてくる。
「きゃーーい!」
「うわっ、おい、やめろって!こらっ、引っ付くな!」
肩に乗ろうとする赤ん坊を何とか宥めて、大人しくさせることに成功したようだ。
ふうっと息をついて、抱き抱えた赤ん坊を恨めしげに見る。
それはまるで、親に頼まれて、歳の離れた弟の世話をさせられている兄貴のようだった。
未夢は思わず笑顔になって、二人に歩み寄った。
「全く、頼むから大人しく・・・おっ、未夢。終わったのか。」
「うん。お待たせ。」
「ほら、お姉ちゃんが来たぞ〜。」
助かったとばかりに未夢の方へ赤ん坊を突き出す彷徨。
赤ん坊の方も嬉しいらしく、喜んで未夢の胸に飛び込んで来る。
「きゃ〜う、マ〜ンマ!」
「ん〜?どうしたの?お兄ちゃんが遊んでくれないから、つまんなかったのかなぁ〜?」
そう言って悪戯っぽく彷徨を見る。
彼はムッとした顔になって言った。
「お前な、俺がどれだけ苦労したか、分かってないだろ?」
実際、彷徨は本当に苦労したのだ。
何しろこの赤ん坊、じっとしているという事をまるで知らない。
頭によじ登りたがったかと思えば、次の瞬間には肩に乗りたがると言う具合。
もちろんこの子にはまだそこまでの腕力は無いので、彷徨が支えてやらなければならない。
おまけに強引に引き剥がそうとすると、凄まじい大声で泣き始める。
結果、彷徨は満足に抵抗もできず、赤ん坊の相手に神経を使いっぱなしだった。
ムッとくるのも当然かもしれない。
「マンマッ、きゃーい!」
「はい、いい子ね〜。」
未夢は赤ん坊を抱きかかえて、その頬に顔を摺り寄せた。
そんな彼女に、ミズノは問いかけてきた。
「貴方達、これからどうするの?」
「今日はもう遅いし、この村に泊まろうと思ってます。」
「そう・・・。」
ミズノは二人を見つめる。
その表情は、どこかに憂いを含んだように見えて、未夢は戸惑った。
「ミズノ、さん?」
「え?ああ、ごめんなさいね。」
彼女はハッとした様に言うと、荷物を肩にかけ直す。
「じゃあ、そろそろ私は行くわね。」
「あ、はい。色々ありがとうございました!」
丁寧にお辞儀する未夢に、ミズノは微笑んで見せた。
そして、赤ん坊の小さな手をそっと握る。
「またね、坊や。」
「あいっ。」
元気いい返事が返ってくると、二人の方に向き直る。
「貴方達も、気をつけてね。」
「はいっ。ほら、彷徨も。何か言うこと無いの?」
「あ、ああ。・・・・ありがとう。」
ぎこちないながらも、頭を下げる彷徨。
ミズノは彼に歩み寄ると、彼の目を覗き込んだ。
「・・・彼女を・・・。」
「?」
「・・・・守ってあげてね。」
小さな、けれどはっきりした声でそう言って、彼女はすっと彷徨から離れる。
そして次の瞬間には、もうさっきまでと同じ笑顔に戻っていた。
「あ・・・・。」
「じゃ、元気でね。縁が会ったら、また会いましょ。」
何か言いかけた彷徨を残してミズノは踵を返した。
ふわりと黒い髪が風に舞う。
「ミズノさんも、お元気で!」
ニッコリと笑ってその後ろ姿に声をかける未夢。
ミズノはそれに対して、一度だけ振り返った。
小さく手を上げて、微笑と共にゆっくりと振る。
村の出口に向かって行く彼女を、二人はしばらくの間見つめていた。
結構長い間、話していたらしいことに気付いたのは、ミズノと別れた後だった。
太陽が山の向こうに沈みかけ、辺りは夕焼けの色に染まっている。
「肩、どうだ?」
歩きながら、彷徨は隣の未夢を見遣った。
未夢はちょっと自分の肩に視線を移して答える。
「急に良くなったってことも無いけど・・・。」
「痛くないのか?」
「うん、それは大丈夫!」
力強く頷いた未夢に、彷徨はなおも問いかける。
「本当に、大丈夫なんだろうな。」
「ホントだってば!もうっ、彷徨は心配性すぎるよ・・・。」
「お前が我慢なんてしてなければ、俺だってこんな事言わない。」
不機嫌そうに言う彷徨。
あれほど言ったにも拘らず、未夢が我慢していた事がよほど気に入らなかったのだろう。
ミズノと別れてから、彼はずっと仏頂面のままである。
(やっぱり怒ってる・・・・。)
未夢は気まずそうに彷徨から目を逸らした。
黙っていたこと、嘘をついていたことの後ろめたさのせいで、言葉が出てこない。
沈黙した二人の間で、赤ん坊は不安そうに身じろぎした。
太陽がセヴル山脈の向こうに沈もうとしている。
仕事をしている人々も、そろそろ家の中へ引き上げ始める時間だ。
辺境の村という共通点のためか、どことなくロアを思い出す。
足早に家路を急ぐ村人達を、未夢は何となく見つめていた。
「もっと自分の身体を大事にしろ。」
彷徨の突然の声に、未夢は彼の顔を振り仰いだ。
夕陽に照らし出された彼の視線は、相変わらず前を向いている。
「お前に何かあったら、そいつだって悲しむだろ?」
そう言って未夢の顔を見る、その表情にはもう怒りはなかった。
あるのは心配と、そしてほんの僅かな、微笑み。
未夢は抱いている赤ん坊に目を遣った。
心配そうな顔で、服の袖をしっかりと握り締めている。
「・・・・うん。ごめんなさい。」
素直にペコリと頭を下げる未夢を見て彷徨は頷いた。
「よろしい。・・・プッ。」
「ふふっ・・・。」
「はははっ!」
まるで裁判官のような口調が自分でもおかしかったのだろうか。
彷徨は声を上げて笑い出した。
つられて未夢も表情を崩す。
ひとしきり二人で笑った後、彷徨は再び赤ん坊を見た。
「こいつ、本当に誰なんだろうな。」
赤ん坊を両手で持つと、グッと自分の頭上まで持ち上げる。
いわゆる、「高い高い」の要領だ。
赤ん坊はきゃっきゃっと声を上げて喜んでいる。
未夢はその光景を笑いながら見ていたが、ふとある事が頭に浮かんだ。
「ねえ、もし・・・もしこの子の親が見つからなかったら、どうするの?」
未夢の問いに、彷徨は少し目を見開いた。
「そうだな・・・。」
少し考えて、彼は未夢に笑いかけた。
「連れて行くか?俺達と一緒に。」
「えっ・・・連れて行くって、十字軍に!?」
「ああ。」
「高い高い」を中断して彷徨は赤ん坊と目線を合わせた。
楽しそうに笑っているその子と彷徨は、何故か他人同士に見えない。
「そんな事、できるの?」
「できない事ないぜ?家族連れで従軍してる奴だって沢山居る。」
「・・・ホントに?」
目を丸くした未夢に、彷徨は大きく頷いた。
「もちろん、貴族連中が中心だけどな。」
貴族達は大抵、親から受け継いだ領地を持っている。
今回の十字軍に当たり、遠征に参加した貴族達は、領地の管理を妻や兄弟などの信用のおける親族に任せて来ている。
言うまでも無く帰って来た時のことを考えてだ。
だが、領地を持たない、あるいは持っていても無いに等しい収入しか入ってこない小貴族、兄弟達が多すぎるために相続する領地が無い貴族の末っ子などの場合は話が異なってくる。
彼らはこの十字軍で名を上げて領地を貰い、あるいは異教徒から領地を奪い、そこで新しい生活を切り開くために来ているのだ。
遠征先に骨を埋める覚悟の彼らにとって、家族を同行するのは必然のことかもしれない。
もっとも今の十字軍に、ただ飯喰らいを置いておく程の余裕は無い。
全てというわけでもないが、未夢と同じ様に飯炊きや負傷者の看護をしている女性は結構多かったりするのである。
「だから、こいつを連れてっても、何の問題も無いわけだ。」
「でも・・・!」
思わず未夢は抗議しようとする。
彼女の様子を見て、彷徨は寂しそうに笑った。
「そうだよなぁ・・・無理か、やっぱり・・・。」
諦めの口調に、未夢も俯いてしまった。
そう、例え周囲からお咎めがあろうとなかろうと、十字軍に連れて行くというのは戦場に連れて行くということなのだ。
いつ死ぬとも知れない、危険な旅にこんな小さな赤ん坊を連れて行くなど、許されることではない。
「しょうがないか。どっちみち、俺達の年齢からすれば、怪しまれるに決まってるもんな。」
「私達の歳?」
聞き返した未夢に、彷徨は何を今さらと言った調子で答えた。
「『俺達の子供です』なんて言うわけにもいかないだろ?14歳なんだからな、俺達。」
「!・・・・そ、そうだよね、おかしいもんね////。」
顔が真っ赤になるのが分かる。
思わず未夢は彷徨から顔を逸らした。
彼は怪訝そうに未夢を見た。
「どうかしたのか?」
「何でもないっ。」
きっぱりと言ってから、未夢はチラリと彷徨の顔を盗み見た。
相変わらず彼は平然としている。
(全く・・・わかってるのかなぁ、自分の言ってること・・・。)
憎らしいほどにいつも通りの表情の彷徨が恨めしい。
頬の熱を払うように、未夢はブンブンと顔を左右に振る。
オレンジ色の夕陽が、今日ほど有難く思えたことはなかった。
「ん?何だ?」
彷徨が声を上げて立ち止まった。
通りの向こうから人のざわめきが聞こえてくる。
近付くに連れてその原因がわかってきた。
どうも一つの家の前に、何やら人だかりができているようだ。
「何なんだ、一体?」
背伸びしてその光景を見ようとする彷徨。
が、視界に入った状況を見た瞬間、その顔が厳しいものに変わった。
「・・・!」
「どうしたの、彷徨?」
彼と同じように背伸びした未夢も、彼と同じように絶句する。
人だかりが出来ているのは、未夢達が先程興味本位で入り、おっかない男に追い出されたあの不思議な店だった。
どうやら知らないうちに、村を一周してしまっていたらしい。
だが、二人を驚かせたのは、その事ではなかった。
村の人々は遠巻きにして、店の中心を囲んでいる。
そしてその中心には、4人の人物が居た。
一人は未夢や彷徨を追い出した、あの男だった。
険しい顔をして、残りの3人と向かい合っている。
「彷徨っ・・・。」
未夢は不安そうに、彷徨の袖をきゅっと掴んだ。
彼らのいでたちは、よく覚えている。
忘れられるはずも無い姿に、彷徨も無意識に身構えた。
男達はこの村の人間とは明らかに違う服装をしていた。
だが、決して旅人でもない。
3人は、全員剣を腰に帯びていた。
三日月を思わせる、反り返った刀身と鋭い刃。
頭には白で統一されたターバン。
彼らは、グランドール軍の兵士だったのだ。
(どういう事だ?)
彷徨は考えながら、そっと荷物を下ろして、中から長剣を取り出した。
何がどうなっているのかさっぱりわからない
確かなのは、彼らの険悪な雰囲気からして、決してお友達というわけでは無さそうだということだ。
兵士の一人が口を開いた。
「何だ、これは?」
そう言って店の中を指差す。
何のことを言っているのか、彷徨には最初は分からなかったが、すぐに察した。
あの数々の不思議な作品のことを言っているらしい。
二人が店の中で見た、奇妙な動物達の像だ。
黙ったまま口を利こうとしない店主に、もう一人の兵士が言う。
「まだ、この村が改宗していなかったとは、驚きだな。」
(改宗・・・?)
兵士が口に出した言葉に、彷徨はピクリと反応した。
ということは、つまり・・・。
「これが最後だ。我らが教えを受け入れろ。我らと共に西の異教徒どもを排除し、イリスの御名の下で生きるのだ。」
三人目の兵士の言葉で、彷徨は完全に理解した。
つまり彼らは、イリス教に改宗する事を迫っているのだ。
あの男個人に対してだけではなく、この村全体への警告も込めて。
彼らの話し振りから察するに、これで初めてと言う訳ではなく、今まで何度も繰り返し要求していたのだろう。
村長の言っていた話は、真実だったのだ。
黙ったままだった店の主人が、ゆっくりと口を開いた。
「なぜ、貴様らにそんな事を言われなきゃならん。」
静かだが、怒りを押し殺している事が伝わってくる声だった。
拳を握り締めて、3人の顔を順番に睨みつける。
「儂らはずっと、自分達の信じるものを守って生きてきたんじゃ。突然そこにズケズケと入り込んできた連中の言う事を、はいそうですかと聞くほど、いい加減な生き方はしとらん!」
言い切った男の言葉に呼応して、周りの村人達からもそうだそうだという声が上がる。
兵士達はフンと鼻を鳴らした。
「それで?あの妙なバケモノどもを像にして崇めているのか。ご苦労なことだな。」
「バケモノではない、幻獣だ。」
吐き出すような男の言葉。
未夢は彷徨に視線を送った。
彷徨も彼女の顔を見て頷く。
やはりあの像の数々は、幻獣達をモデルにしたものだったようだ。
「まあ、貴様らの世迷言はどうでもいい。とにかく、この場でそのガラクタを処分し、イリス教を受け入れると誓え。それがお前たちの為だ。」
「儂らの為?」
男はバカにしたように言い返した。
「笑わせるな。信仰だのなんだのと理屈を付けていれば聞こえはいいが、貴様らはただ単に自分達に有利に事を運びたいだけだろう。この村は、接近している十字軍を迎撃するのに格好の拠点だろうからな。」
「・・・あくまで、拒否するというのだな。」
「くどい!」
断固とした態度に、3人は顔を見合わせた。
そして、中の一人が歩み出てくる。
「ならば、条件付で認めよう。」
「条件、だと?」
「そうだ。我らに『プルヴ』を払え。そうすれば、お前達の信仰の自由を認めよう。」
男はじっと兵士達の顔を凝視している。
だが見ていた彷徨は、聞きなれない言葉に眉を顰めた。
「プルヴ?何のことだ?」
「・・・税金の事だよ。イリス教が異教徒に払わせてる。」
唐突に、未夢が彷徨の耳元で囁いた。
彷徨は驚いて聞き返す。
「知ってるのか?」
「うん・・・。」
「一体何なんだ?『プルヴを払え』ってのは。」
聞かれて未夢はちょっとためらっていたが、やがてゆっくりと話し出した。
「イリス教にはね、『3つの問いかけ』があるの。違う宗教の人を改宗させるにはまず、普通に言葉で説得するの。でも、嫌だって言う人もいるから・・・・だからその人にはお金で宗教の自由を認めるんだって・・・。」
「なるほどな・・・。それで、もし『プルヴ』を払うのを拒否したら、どうなるんだ・」
「それは・・・。」
悲痛な顔をして黙り込む未夢を見て、彷徨はすぐに理解した。
つまり、その時は命が無いということか。
確かに、3つの問いかけだ。
村人達は、店主の答えを固唾を飲んで見守っている。
男は何かを考えていたが、やがて決然と顔を上げた。
「さあ、どうする?払うか?」
「・・・拒否だ!」
その答えに、兵士達の目つきが変わる。
あの夜、彷徨達を追い詰めた、敵を仕留める戦士の目だ。
「そうか。」
言うなり兵士は三日月刀を抜いた。
反り返った刀身が、夕焼けに照らされて赤く輝く。
「ならば・・・・覚悟はできているな。」
兵士はそう言って、一歩踏み出した。
「!!・・・おじさんっ!!!」
「おいっ、未夢!!」
未夢の叫びが聞こえるのと、グイッと言う感触と共に赤ん坊が彷徨の腕に押しつけられたのは、ほぼ同時だった。
気付いた時には、彼女はもう人込みを掻き分け、彼らの前に飛び出そうとしている。
(ったく、あいつは!!)
心の中で文句を言いながらも、身体は既に反応している。
空いている右手で、彷徨は長剣を抜き放った。
ふと、赤ん坊に目が移る。
怯えてはいるが、強い意志を宿して見つめてくる青い瞳。
「悪いなっ・・・しっかり捕まってろよ!!」
叫んだ彷徨は、未夢を追って人ごみの中へ入り込んだ。
「死ぬがいい!!」
叫びと共に刀が振りかぶられる。
見物人の中から悲鳴が上がる。
男は固く目を閉じ、向かってくる死を覚悟した。
その時、バッと目の前に金色の影が立ちはだかった。
それが何なのかを確認した瞬間、男も兵士も目を疑う。
金色の長い髪を靡かせて、一人の少女が手を広げて立っていた。
夕日を反射して、オレンジ色の輝きを映す緑の瞳で、兵士を真っ向から睨みつけて叫ぶ。
「この人は・・・・殺させない!!」
「何を!邪魔するな!!」
「おい、待て!」
カッとなったせいで、普段の分別も忘れたのだろう。
仲間の制止も聞かず、そのまま刀を振り下ろそうとする。
「未夢っ!!!」
彷徨は叫んだ。
少女の未夢のように素早く人ごみを抜けられず、完全に出遅れた。
もう白刃は未夢の目の前に迫っている。
(ちくしょうっ・・・・!!)
心の中を絶望が走り抜けたその時。
「だあっ!!」
「!?」
左腕の中に抱えられていた赤ん坊が一声叫ぶと同時に、何かが破裂した。
何が破裂したのかは分からない。
強いて言うなら、「空気」だろうか。
兵士と未夢を挟んだ空間の空気が突然爆発した、そんな感じだった。
「ぐわあっ!!!」
衝撃で兵士はたまらず弾け跳び、ゴロゴロと地面に転がった。
2人の兵士達も、そして未夢も、驚きのあまり動けずにいる。
「ぐっ・・・くそっ・・・。」
呻き声を上げながら何とか起き上がろうとする兵士。
その喉元に、スッと冷たい物が押し当てられる。
「ひっ・・・。」
「動くな。」
見上げた兵士の目に映ったのは、息を弾ませながら剣を突きつけている彷徨だった。
その目は恐ろしいほど強い眼光を発していて、彼を震え上がらせた。
「もうよせ。ここまでだ。」
兵士達と周りの村人に交互に視線を送りながら、彷徨は静かに言った。
慌てて刀を引き抜こうとしていた他の二人の兵士も、その言葉に動きを止める。
先程まで見ているだけだった村人達が、兵士達を見据えてじりじりと迫ってくる。
どの瞳も、はっきりした抵抗の意志を見せていた。
しばらくの間、沈黙が流れる。
2人の兵士はギリッと歯を食いしばると、倒れている仲間を助け起こし、そのままヨロヨロと逃げて行った。
それを見送って、彷徨は剣を収めた。
ふうっと息をつくと、汗をびっしょりと掻いているのが分かる。
突然、未夢の身体がガクッと揺れた。
そのまま地面にぺたりと座り込む。
「おいっ・・・」
「未夢っ!大丈夫か!?」
慌てて駆け寄る彷徨。
店の主人も思わず声を上げた。
「ん・・・大丈夫だよ。」
青ざめてはいるが、しっかりした笑顔を返してから、未夢は言いにくそうに口をモゴモゴさせた。
「あのね、彷徨・・・。」
「何だ?」
真剣な顔で彷徨は聞き返した。
店の主人も、周りの人々も、ゴクリと唾を飲んで次の言葉を待つ。
「私・・・腰抜けちゃったみたい。」
「は・・・?」
彷徨の間抜けな声。
「腰抜けた?今頃?」
「・・・うん。」
恥ずかしそうに頷く未夢の顔を見た瞬間。
「プッ・・クっ・・ハハハハハハっ!!!」
彷徨は笑い出した。
安心と可笑しさと、嬉しさが入り混じった笑いが後から後から出てきて止まらない。
彷徨だけではない。
そこに集まっていた人々全てに、笑いが突き抜けた。
それは侮蔑とか迫害とは無縁の、心からの笑顔。
もちろん、彷徨の腕に抱かれた、あの赤ん坊も、とびきりの笑顔を見せていた。
もう、あんなに笑うこと無いじゃない。
椅子に腰掛けながら未夢は、未だにこみ上げてくる恥ずかしさを抑えようと必死だった。
あの後彷徨は、動けなくなってしまった未夢を少しの間休ませてやってくれと、店の主人に頼んだのだ。
未夢達のことを信用してくれたのか、それとも助けてもらった恩義からなのか分からないが、彼は無言で頷くと、店の中へ案内してくれ、今に至るという訳である。
周りには、あの時の作品が所狭しと並んでいる。
未夢はそれらを順番に眺めていた。
「珍しいか?」
掛けられた声にドキリとして振り返ると、店主が茶を持って入ってくる所だった。
隅に寄り掛かっていた彷徨も側に寄ってくる。
未夢は小さく頷いてから聞いた。
「これ、みんな貴方が?」
「ああ。商売の合間にな。」
茶を注ぎながら、店主は答えた。
なるほど、それで値段がついてないのか。
彷徨も納得して、茶を一口啜った。
村長の所で出されたのと、同じ味だ。
「これ、何ですか?」
そう言って未夢が指差したのは、正面より少し右に置いてある、木彫りの像だった。
普通の人間の男の子と全く変わりが無いが、手に大きめの箒を持っている。
「ああ・・・それは『お掃除童』だ。」
「おそうじ・・・わらし?」
頭にはてなマークを浮かべて問い返す未夢に、店主は頷いて見せた。
「そう。昔から伝わる幻獣の一つ。人が留守の間に家に入り込んで、掃除をしていってくれる。彼らが来た家は、チリ一つ落ちていないと言われている。」
「へえ、すっごい!親切なんですね!」
「・・・・そうとばかりも言えん。」
興奮した様子の未夢に、店主はゆっくりと首を振った。
未夢は首をかしげて言う。
「どうして?まさか、すごく高いお金を取るとか?」
「いや。金は取らん。完全に無償だ。ただ、綺麗にしようとするあまり、役に立たない物を全てゴミと見なしてしまう所がある。」
言いながら店主は椅子を引っ張り出してきて腰を下ろした。
「昔から伝わる話だ。ある時、当時の村長は他所から大層珍しい壷を譲り受けた。古代から伝わる物で、その価値は千金に値したそうだ。ところが、留守にしている最中にお掃除童が入り、戻った時にはその壷は綺麗に処分されていた。彼にとっては古びた壷など、只のゴミとしか写らなかったんじゃろうな。」
「・・・なんかとんでもないな。」
彷徨はふと、三太のことを思い出した。
十字軍に入ってからは抑えられているが、彼の趣味もかなり特殊だった。
彼の家にはそれを反映するかのように、実に様々な品が置いてある。
数少ない小遣いをはたいて、三太がガラクタ市から仕入れてきた物だ。
彷徨にはとても理解できない代物だったが、三太曰く「とってもレアでコア」な物らしい。
彼の家にだけは入らないようにと、思わず像に呼びかけてしまう彷徨だった。
「じゃあ、これは?」
未夢はその隣の、小さな像に視線を移した。
他の像と比べても、大きさは手の平サイズと、かなり小さい。
可愛らしい女の子の姿に薄い羽が生えていて、どこかで聞いた妖精のようだった。
「それには名前は無い。『山の精』という言い方が最も知られておる。」
店主は窓から見えるセヴル山脈を指差した。
「あの山に入って、道に迷った者の前に現れる。一緒に遊ぼうと持ちかけ、拒否した者は意識を奪われ、二度と戻らん。」
「ひえ〜〜〜。」
恐怖に打ち震える未夢を見て、店主は像を手に取った。
それを見る目は、どこか優しげだ。
「だが、根はただ寂しがり屋なだけ。一緒に遊んでやるという望みさえ適えば危害は加えない。それどころか、山の出口を教えてくれるそうだ。」
「寂しがりや・・・。」
恐怖をいつの間にか忘れて未夢は苦笑した。
何だか自分の事を言われているようだ。
そう考えると、何だかこの像にも親しみが湧いてくる。
「じゃあ、これは?」
「ああ、それは・・・・。」
彷徨は少し離れた所で赤ん坊を抱き、未夢と店主の話す光景を見ていた。
いや、正確には未夢を、だろうか。
あの店主は気付いているだろうか。
自分がごく自然に、彼女と会話しているということに。
本当に不思議なヤツだ。
心の中でそう呟いた。
頑なな心をいつの間にか開けて、本音で話すことが苦痛じゃなくなる。
彷徨は先日の会話を思い出した。
未夢が負傷した、あの夜襲の時。
傷の手当てを済ませた後で、彼女は言った。
戦いを止めたい、と。
正直、彷徨にはそんな事ができるとは思えない。
多分、自分と彼女の一番の違いはそれなのだ。
異教徒と戦いたくないのは一緒。
違うのは、止めようとするか、しないか。
まだ彷徨の心は、未夢の言い分を肯定することはできない。
だが同時に、見てみたい気もする。
この少女がこの先、どうなるのか、どんな風に未来を・・・変えるのか。
「パンパ?」
黙ってしまった彷徨を、腕に抱かれた赤ん坊はそっと見上げた。
柔らかな金髪をそっと撫でてやると、気持ちよさそうに彼の胸に擦り寄ってくる。
不思議と言えば、この赤ん坊もだ。
さっきの現象は、一体何だったのだろうか。
あの時、もう完全に間に合わないと思った。
だが、兵士が突然弾け飛んだおかげで、間に割って入る事ができたのだ。
冷静に思い出して見ると、赤ん坊の叫んだ直後だった気がする。
あれは、この子の仕業・・・・?
(まさかな・・・。)
頭を振って浮かんだ考えを振り払う。
そんな訳が無い。
おとぎ話じゃあるまいし、触れずに人を弾き飛ばすなど、出来るはずが無い。
ましてや、こんな小さな子供が。
だが、ならばあの不思議な爆発は一体・・・。
「う、う〜う・・・。」
「?」
さらに飛躍しそうになった彷徨の思考は、赤ん坊の声によって中断された。
彼は彷徨の腕の中から必死に手を伸ばして、ある一点を凝視していた。
「どうしたんだ?」
彷徨もその方向に目を向けた。
店の一番奥、薄暗がりの中に、他の置物とは明らかに区別されて置いてある作品がある。
彷徨はそっと歩み寄ると、「それ」をまじまじと見つめた。
見たことの無い生き物だ。
ずんぐりとした丸い胴体に、短い手足。
顔は猫のようだが、ピンと立った耳や鼻の形は犬を思わせる。
「何だ、これ?」
「あ〜う、あん、にゃあ!」
舌ったらずの口調で何か言う赤ん坊に気付いたのだろう。
未夢と店の主人がこちらへやって来た。
「なに?どうしたの、彷徨?」
「ああ、これ・・・。」
そう言って彷徨の指差した物を見て、未夢は一瞬言葉をなくした。
数秒それを見つめた後に、その口から出た言葉は・・・
「・・・かっわい〜〜。」
思わずガクリとなる彷徨。
未夢は目を輝かせて、像を覗き込んだ。
「うわぁ・・・すごく可愛いよ〜。これ、何なんですか?」
主人は後ろから一瞥すると、ああ、と頷いた。
「それはな・・・幻獣達の中で最も知られ、最も愛されていた者だ。」
「これが、か?」
言いながら彷徨は改めて像を見た。
未夢はこれを「可愛い」と言う。
確かに愛嬌はあるが、彷徨にはむしろ、「ヘンテコ」という印象のほうが強い。
だが、ここでまた変なことを言って未夢の機嫌を損ねると面倒なので、黙って主人の話に耳を傾けた。
「昔、我々の祖先がここに移り住んできた頃、ここには何も無かったと言われておる。」
遠い目をして彼は語りだした。
「男も女も、老人も子供も、動ける者は皆、山へ出て働かねばならなかった。だが、幼い赤ん坊だけは例外じゃ。まさか、危険が伴う山での仕事に赤ん坊を連れて行くわけにもいくまいからな。」
店主は赤ん坊をそっと撫でた。
二人は黙って話に聞き入っている。
「そんな時、子供の面倒を見てくれていたのがこの幻獣じゃ。何にでも変身できる不思議な力と、優しい心を併せ持った彼らは人々が山へ出ている間、赤ん坊を守り、育ててくれた。彼らの中にはそれが高じて、家族の一員として迎え入れられた者も少なくなかったそうだ。」
話し終わると、ふうっと息をついて店主は椅子に座った。
未夢と彷徨は、感慨深げに像をじっと見た。
「お世話係の、幻獣か・・・。」
ぽそりと呟く未夢。
彼女が何を想ったのかは彷徨にも何となく分かったが、あえて口には出さずに店主に問いかけた。
「それで・・・これはなんて言う名前なんだ?」
「様々な名前が伝わっているが、一番知られている名は一つ。外見から付けられた、その名は・・・。」
バタンッ
突然、彼の声を遮る様に、音と共にドアが勢い良く開け放たれた。
3人、いや、赤ん坊を含めた4人は一斉に振り向く。
「あ、あの・・・すみません・・・。」
一人の青年が息を切らして戸口に立っていた。
「何じゃ、お前は?」
店主が青年を睨みつけて言う。
彼は顔を上げると、慌てたように手を振った。
「い、いえ、ワタクシ決して怪しい者では・・・。」
全然説得力の無い台詞を吐く青年を見て、未夢と彷徨は目を丸くした。
「あれ、貴方・・・。」
「村長の家の・・・。」
そう、村長ゲオルグの家に居た、あの使用人の青年だった。
青年も彼を覚えていたらしく、二人を見てすぐに頷いた。
「ああ、あの時・・・の・・・・?」
笑顔を浮かべようとした彼の顔が、不意に驚きに変わった。
その視線は、彷徨の抱えている赤ん坊に集中している。
赤ん坊の方も、彼をじっと見つめて・・・。
「きゃーいっ!わんにゃっ!」
にぱっと笑顔を浮かべる。
「ル・・・ルゥちゃま〜〜〜〜〜!!!」
「うわっ、何だぁ!?」
突如、滝のような涙を流しながら走り寄ってきた青年に、彷徨は思わず後ずさった。
青年は赤ん坊を抱いた彷徨の前に座り込むと、おいおいと泣き始める。
「良うございました〜〜、探しても探しても見つからなくて・・・ご無事で・・・・良かったですぅ〜〜〜〜!!!」
「あ、あの〜〜。」
叫びながら感動の涙を流し続ける青年に、未夢は恐る恐る声をかけた。
「貴方が、この子の?」
「ハッ・・・これは失礼致しました!」
言われて青年は、涙を袖で拭きながら立ち上がった。
そして礼儀正しく、未夢達に頭を下げる。
「名前も申し上げないうちに失礼しました。こちらはルゥちゃま。村長さんの・・・・お孫さんです。そしてワタクシがお世話係を勤めさせて頂いております、ワンニャと申します。」
「ワンニャ・・・さん?」
「はい。」
頷いて彼は赤ん坊――――ルゥに視線を移した。
「村長さんは何分ご高齢なもので、身の回りのお世話も兼ねてワタクシがベビーシッターとして働いているのです。ところが今日の昼頃、ワタクシがちょっと目を放した隙に窓から出て行かれてしまって・・・探しても見つからず途方に暮れている所を、村の方が教えて下さったんです。『兵士3人をやっつけた男の子と女の子が赤ん坊と一緒にこの店に居る』と。」
「それで、ここに来たってワケか。」
「はい。」
彷徨は腕を組んで思い出した。
昼頃といえば、未夢達が村長の家を出た直後だ。
あのすぐ後に行方不明になったのか。
「ああ、ありがとうございました・・・ルゥちゃまにもしもの事があれば、村長さんがどんなに悲しまれるか・・・本当に、お礼の言葉もございません。」
「やっ、やだなぁ。そんな大した事してないよ。私達はただ、偶然その子を見つけただけなんだから・・・。」
「見つけた?」
「うん。道端で偶然・・・。」
その言葉を聞いた瞬間、どういうわけか彼の顔が青ざめたように見えた。
「見つけた・・・道端で?」
「?そうだけど・・・。」
首をかしげて答えた未夢に、ワンニャは小さな声で問いかけた。
「あの、つかぬ事をお伺いしますが、その時のルゥちゃまの様子は、どうでしたか?」
「どうって・・・普通だったよ。ねえ?」
「ああ。その直後に未夢が間違えて蹴っ飛ばしちまった意外はな。」
「・・・・余計なこと言わないのっ。」
二人のやり取りに、彼は安堵の笑みを浮かべた。
「では要するに、普通に座り込んでいたんですね?」
「うん。」
「そうですか・・・よかったぁ〜。」
最後の一言は、聞こえないくらい小さい声で呟かれたものだった。
未夢は不思議に思ったが、とりあえず後回しにしてルゥを彷徨から受け取る。
「良かったね・・・ルゥ君。」
初めて口に出す、彼の名前。
ほんのりと胸が温かくなったような気がした。
名残惜しさを感じながら、二人はルゥをワンニャに手渡す。
「じゃあな・・・ルゥ。」
「もう迷子になっちゃ、ダメだよ?」
「本当にありがとうございました。さ、参りましょうルゥちゃま・・・・ルゥちゃま?」
未夢からルゥを受け取ろうとしたワンニャは、ルゥの様子に気付いて怪訝な顔をした。
ルゥが未夢の服をしっかり掴んで離さないのだ。
「さあ、ルウちゃま、もう遅いです。帰ってお休みに・・・。」
「やっあ!!」
「ル、ルゥちゃま・・・。」
困惑した声を上げるワンニャ。
未夢が言い聞かせるように語り掛ける。
「ルゥ君。もう帰る時間なんだよ?ワンニャさんと一緒に・・・。」
「やあっ!パンパッ・・・マンマ〜〜〜!!」
とうとう泣き出してしまったルゥを見て、途方に暮れる未夢。
ワンニャに目を転ずると、こちらも泣きそうな顔をしている。
と、前に出てきたのはそれまで黙っていた彷徨だった。
屈みこんだ彼は、優しい口調で話しかける。
「なあ、ルゥ。何もここでお別れって訳じゃない。俺達は今日、村長の家に泊まるから、今夜は一緒なんだ。そうだろ?だから、待っててくれないか?俺達が行くまで・・。」
じっとルゥの瞳を覗き込む彷徨。
彼の言うことをどこまで理解したかは分からないが、それでも赤ん坊はコックリと頷いた。
彷徨はふわりと微笑む。
「よし、いい子だ。」
そう言って彷徨は、ワンニャに目配せした。
彼は勘良く察して、そっとルゥを抱き上げる。
今度はルゥも暴れなかった。
ルゥを抱いたワンニャは二人を見た。
「それではワタクシは戻って、お夕食の支度をしております。家への道は、お分かりですよね?」
「ああ、大丈夫。ちゃんと覚えてるよ。」
「ルゥ君。ワンニャさん。また後でね。」
「はい。それではお先に失礼致します。」
ぺこりと頭を下げて、二人はドアを潜り、外へと出て行った。
それを見届けて、彷徨は浮かない顔でため息をつく。
未夢は不思議そうな顔で聞いた。
「どうしたの?」
「いや・・・これでいいのかなってさ。」
「どうして?彷徨はあの子と一緒にいるの、嫌なの?」
「そうじゃない。・・・嫌じゃないから困るんだ。俺達は、明日にはこの村を出るんだぞ?」
「あ・・・・。」
未夢が虚を突かれたように押し黙る。
そう、確かに今夜は、二人は彼らと一緒に居る。
だが、明日になれば彼らは戻らなければならないのだ。
十字軍へ、戦いの場へ。
しばらくの間、気まずい沈黙が流れた。
「しかし、妙な偶然だな。」
そう言ったのは、ずっと何も言わなかった店主だった。
二人は彼の方を見る。
「何がですか?」
「いや、あの世話係の名前がだ。」
言って彼は、置いてあったあの幻獣の像を持ち上げる。
「言ったろう?こいつには昔から伝わる名前があると。この通り、こいつは犬と猫を掛け合わせたような姿をしている。それで昔の人間はこの幻獣をこう呼んだそうだ。」
そこで一端言葉を切ると、緊張して聞いている二人の顔を順番に眺め、そして静かな口調で彼は言った。
「伝承にはこうある・・・『ワンニャー族』とな。」
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