翌朝、ななみと綾はいつもと同じように、未夢より一足早く学校に来ていた。
まだ朝早いので、教室に居る生徒は二人を含めても5,6人しかいない。
普段なら、静か過ぎてつまらない、というところだが、今日に限って言えばこの静かな空気はありがたかった。ワイワイ騒ぐような気分ではないのだ。
二人は空いている椅子を拝借して話していた。
「もうっ、西遠寺君てば、なにもあんなこと言わなくったっていいじゃない!未夢が可哀想だよ、全く!」
プンプンと怒りながら、ななみが言う。
「そうだよね〜、いくらなんでも、あれはちょっとひどいよね!」
綾もうんうんと頷いた。
二人が話しているのはもちろん、昨日の未夢と彷徨の様子についてだ。
昨日、走っていった未夢を追いかけはしたものの、その時の未夢の表情ときたら、見ているこっちが悲しくなってしまうほどで、さすがの二人も何も言えなかった。
そして同時に、未夢にひどいことを言った彷徨に、少なからず怒ってもいるのだ。
「未夢、だいじょうぶかな・・・。」
心配そうにななみが言う。昨日の未夢は一応「大丈夫」とは言っていた。
けれどその表情は、言葉とは反対に沈んでいて、とてもじゃないが、心配しないのは無理というものだ。
「けど、どうしちゃったんだろ、西遠寺君。なんか、いつもと違ってたって言うか・・・。」
「うん・・・。」
二人は考え込んだ。
確かに彷徨と未夢の喧嘩はよく目にする。最近では、一部で2年1組の名物とも言われているくらいだ。
けれど、昨日のように思い切り相手を傷つけてしまうような喧嘩など、二人は眼にしたことが無い。
もっとも、未夢の様子は、基本的にはいつも通りだったから、問題は彷徨だろう。
「家で西遠寺君と、何かあったのかな・・・。」
「そこらへんは、未夢に話してもらわないと、どうにも・・・・、あっ、来た来た!」
ガラッと扉を開けて、入ってきた未夢を見つけて、ななみと綾は走り寄った。
やはりと言うかなんと言うか、いつも一緒に登校している彷徨が居ない。
「未夢、大丈夫?」
ななみがまるで自分のことのように心配してくれるのを見て、未夢の顔にも少しだけ笑みが戻る。
「うん、大丈夫だよ。ありがと、ななみちゃん。」
未夢はそう言って、自分の席に座った。
「ね、未夢ちゃん、なにがあったの?」
綾が真剣な目をして聞いてくる。隣を見ると、ななみも同じような顔をしていた。
“これ以上、隠さないで。無理、しないで”
二人の目がそう言っている。
(ありがとう・・。)
未夢は心の中でそっと呟く。本当に、この二人には助けられっぱなしだ。
落ち込んでいるときは、特に。
未夢は大きく息をつくと話し始めた。なんだかんだ言って、自分も誰かに話してしまいたかったのかもしれない。
「あのね・・・。」
一昨日、つまり最初に彷徨の様子が変だった日から少しずつ話していく。
二人はふむふむと聞きながらも、今一つわからないという顔をしていたが、未夢の話が「トットとの握手」のところに来た時、
「ちょっと待って、未夢!」
ななみが慌てたように話を遮った。
「未夢が握手して、それからなの?西遠寺君があんなに怒っちゃったの。」
「うん・・・。その前から何となく変だったけど・・・。私があの人と握手したらすっごく不機嫌になって・・・。」
未夢は顔を上げた。
「もしかして、ななみちゃん、判るの?どうしてだか!」
「う、う〜ん。」
ななみはあいまいな表情で頷いた。実を言うと判ってしまったのだ。彷徨がなんであんなに怒っていたか、なんであんなことを言ったのか。
未夢は隣の綾を見た。顔からすると彼女もわかってしまったらしい。
「ねぇ、ななみちゃん、綾ちゃん、判ったの?判るなら教えて、お願い!」
未夢は必死に頼み込んだ。その必死の表情に、ななみと綾は息を呑む。
先に立ち直った綾が何か言おうとするのを、ななみは目で制した。物問いたげな彼女の視線を感じつつも、ななみは首をゆっくりと振った。
「ゴメン、未夢。あたしからは言えないよ。」
「えっ、・・・なっ、何で?」
ななみは黙ったままだ。その顔は、教えてあげたいけどできないんだ、と言っているようにも見える。
「そっか・・・。」
未夢はため息をついた。ななみはイジワルで「言いたくない」なんてことを言い出すような娘ではない。
その彼女がこう言っているのだから、本当に言うわけにはいかないことなんだろう。
しょんぼりとしてしまった未夢の肩をななみはガシッと掴んだ。
「ただね、未夢!」
戸惑う未夢の瞳を真正面から覗き込みながら、ななみは言った。
「これだけは言えるけど、未夢は悪くない!西遠寺君は確かに怒っちゃったけど、未夢はちゃんと、西遠寺君のこと考えてたんだから!未夢がそんなに落ち込むようなことじゃない!それだけは、確かだからね!」
ななみの言葉に綾も大きくうなずき、未夢の側に寄ってきた。
「未夢ちゃん、もしどうしても我慢できなくなったらまたこうやって話してね。私もななみちゃんも、いつだって未夢ちゃんの味方なんだから!話してあげることはまだできないけど、できるだけのこと、するからね!」
「綾ちゃん、ななみちゃん・・・。」
二人の優しい言葉に、未夢の心が軽くなる。
未夢は立ち上がった。そして、二人の手を取る。
「うん・・・ありがとね!」
「な〜に言ってんの!水臭いこと言いっこ無し!ね!」
ななみはポンポンと未夢の肩をたたいた。未夢の顔に笑顔が戻る。
「私、ちょっと一人で考えてみるよ。ちゃんと、考えてみる!」
そう言って出て行く未夢の背中を見送ると、綾はななみに視線を向けた。
「ななみちゃん、よかったの?未夢ちゃんに話さなくって・・・。」
彷徨がなんで怒ったのか二人には当にわかっていた。
たぶん、嫉妬していたのだろう、彼は。
未夢は天然とも呼べるくらいに鈍いから気づかないだろうが、二人は彷徨のそんな場面を未夢が転校してきてからよく目にしている。もっとも、いつもはむっとした顔を向けるだけなので喧嘩にはならないが。
いくらなんでも、目の前で親しげに振舞うところを見せられては、冷静で居られないのも当然かもしれない。
「しょうがないよ・・・。」
ななみは腰を下ろしながら言った。
ななみ達が未夢に話してしまうのは簡単だ。けれどそれは、彷徨が今未夢に抱いている感情、彼の心の奥の、言葉にできない想いまで話してしまうことになる。
いくら未夢を助けたいといっても、そこまでやってしまうのは正直気が引けた。
これはやっぱり、未夢と彷徨、二人の問題なのだから。
「ほんとにもう、西遠寺君てば、なにやってんだろ・・・。」
膨れっ面のななみの言葉に、綾が横でクスクスと笑う。
「ななみちゃん、それ、なんだか小姑さんみたいだよ?」
綾の言葉にななみは苦笑した。
(そうかもねぇ・・・)
ななみも綾も結構世話好きなほうだ。
けれど、そういうのを差し引いても、二人は未夢を放っておくことができないのだ。
何事にも一生懸命な、あの緑色の瞳を見ていると。
夕暮れの学校に下校時刻を告げるチャイムが響いている。
未夢は図書館への廊下を、一人で歩いていた。
と言っても、読書がしたかったわけではない。一人になって考えられる場所が欲しかったのだ。
(彷徨・・・どうしたの?なんで、怒ってたの?)
昨日、映画から帰ってきてから彷徨とは一言も口を聞いていない。
何度か話しかけようとはしたが、拒絶されたらと思うと、どうしてもできなかった。
(二人にも、心配かけちゃったし・・・・)
「・・・・ちゃん。」
(やっぱり、自分で考えないと、ダメなのかな・・・)
「・・・・夢ちゃん!」
(はぁ〜、私ってどうして、こういうとこ、鈍いんだろ・・・?)
「未夢ちゃん!!」
「えっ・・・きゃあ!」
考え事に夢中だったせいか、未夢は自分の前方にも、そして、後ろから聞こえていた声にも、まったく気づいていなかった。後ろを振り返ろうとした瞬間、何の前触れも無く足がズルリと前に滑って・・・
グイッ
転びそうになる直前、未夢は腕を掴まれた。そのまま引っ張り上げられて、なんとか転ぶのを免れる。
「大丈夫?未夢ちゃん。」
未夢は振り返る。そこに立っていたのはクリスだった。
「あ・・・クリスちゃん。」
「『あ、クリスちゃん』じゃありませんわ、未夢ちゃん!もう少しで豪快にすっ転ぶところでしたのよ!?」
言われて、未夢は足元を見た。誰が置きっぱなしにしたのか、雑巾が一枚床に放置してあった。
さっき転びそうになったのはこれを踏んでしまったからだろう。
「ありがとう、クリスちゃん。・・・。」
未夢は靴を直すと、クリスに礼を言った。
クリスは無言で未夢の目をじっと見つめている。
「な、なに?」
「未夢ちゃん、なにかありましたの?」
いきなりズバリと聞かれて、未夢は口ごもる。
「な、なんで?」
「元気ありませんもの。なんだか・・・・幽霊みたいな顔、してますわ。」
「あ・・・うん・・・。」
未夢はさっきのななみ達との会話を思い出した。
クリスなら、わかるだろうか。
どうしてか、そんな考えが頭に浮かんだ。自分と全部同じわけではないけれど、いつも彷徨のことを見ているクリスに、聞いてみたい。そう思ったのだ。
「あのさ、クリスちゃん。」
「?はい?」
クリスはきょとんとして未夢を見返してくる。
未夢はしばらく考えていたが、やがてゆっくりと切り出した。
「あのね、もし・・・もしもだよ、彷徨にひどいこと言われちゃったら、クリスちゃんどうする?」
クリスの目が大きく見開かれた。やっぱり、ずうずうしい質問だっただろうか?
未夢は緊張しながらも、クリスの目をまっすぐに見つめる。
「・・・・未夢ちゃんの悩み事、やっぱりそれでしたのね。」
クリスは未夢の質問にはすぐに答えず、窓から見える夕日を見ながら、ポツリと呟いた。
「ひどいこと・・・言われたことはありませんけれど・・・そうですわね、言われてもおかしくないですわね、わたくしの場合・・・。」
「え・・・。」
「彷徨君はモテモテさんですものね、わたくしなんか眼中に入らなくなって・・・。」
「あ、あの、クリスちゃん?」
なにかまずい気がする。このパターンはもしかして・・・
「そして彷徨君はよその見知らぬ女の子となっかよっしさ〜〜んに〜〜〜!!」
「ちょっ、ちょっとクリスちゃん!!」
久々のクリスのキレっぷりに、未夢は慌ててなだめにかかる。が、
「・・・・に、なったとしたら・・・。」
「え・・・。」
クリスは唐突に勢いをなくすと、神妙な口調で語りだした。
その顔は、なんだか昨日の彷徨に似ている気がして、未夢をはっとさせた。
「ひどいこと、言われてしまうかもしれませんわね。でも、それでもやっぱりわたくし、世界で一番好きなのは・・彷徨君ですから・・・。」
クリスは未夢の顔を再び見る。昨日の彷徨のように、言葉にできない想いを浮かばせて。
「嫌いになんて・・・なれませんわ・・・。」
「クリスちゃん・・・。」
何か言おうとした未夢を遮るようにクリスは手を取って、
「未夢ちゃんがどうするかは、未夢ちゃんの問題ですわ。けど、少なくともわたくしは、後悔したくはないですから・・・だから、悩んだままにはしておかないほうがいい、そう思いますわ・・・。」
「うん・・・そうだね!」
未夢は大きく頷いた。まだ答えが見つかったわけではない。けれど、未夢の気持ちはさっきまでよりも確実に、前を向いていた。
(そうだ、クリスちゃんの言うとおり。ウジウジしてたってしょうがないんだから。
彷徨とちゃんと仲直りできるように、今できることをやるしかないもんね!)
「私、やってみるよ!ありがと、クリスちゃん!」
未夢は半日ぶりのすっきりした表情を見せると、出口に向かって走り出した。
去っていく未夢の姿を見送ると、クリスは大きくため息をついた。
「わたくし、いったいどうしたいんでしょうね・・・。」
誰に言うでもなく小さな声で言葉を紡ぐ。
未夢が悩んでいたのが彷徨のことなのは、わかっていた。
厄介なことに、それが未夢である限り、クリスは知らん振りを決め込むことができそうにない。
痛いほど判ってしまうのだ。未夢の辛い気持ちが。
さらに面倒なことには、悩み事が解決して、本当に嬉しそうな顔の未夢を見るのは、たまに見せてくれる彷徨の笑顔と同じぐらい好きだったりするのだ、彼女にとって。
クリスはきゅっと胸の前で手を握った。
たぶん未夢は、彷徨と仲直りできるだろう。そして、こう言うのだ。
『ごめんなさい、彷徨』『何言ってんだよ、悪いのは俺さ・・』
『ううん、いいの・・・』『ありがとな。やっぱり俺の好きなのは・・・』
そして二人は手に手を取って・・・・
クリスの目が、妖しく光り始める。
明日までに、直せるだろうか。
そんな考えが脳裏を掠める。
数瞬後、図書館に轟音が響き渡った。
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