作:友坂りさ
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「彷徨っ、彷徨っ、起きてっ・・・!」
(ん・・・?)
懐かしい声がする。
なんだか・・・いい夢を見ているみたいだ。
このまま、起きてしまいたくない。
真夏の夜の夢はあまりいいとも、よくないとも言うけれど。
すごく幸せな―・・・・。
・・・ああ、瞼を開けてしまったらきっと、この夢は醒めてしまう。
この未夢の声も、きっと届かない。
彷徨は、目を開けてしまうのが怖くて、夢うつつのままゆっくりと手を伸ばした。
「もうっ、いつまで寝てるつもり?ご飯できちゃったよ〜!!」
(・・・ん・・・)
「彷徨ってばっ?・・・って・・・えっ・・・ちょっ」
((未夢・・・))
手に感じる。・・・あったかい・・・未夢みたいだ。
声にならない声で、かすかに口にしてみる、未夢の名前。
(あれ?けど、夢ってこんなリアルだったっけかな・・・)
確かなぬくもり、何度か、触れたことがある。
もう、ずっと前から・・・
「かっ、彷徨、私ちょっと、テーブルにご飯の用意してくるからっ」
「・・・いいって、そんなの」
そのときはっきり声にだしたはずなのに。
それでも夢だと思い込んでいたのは、寂しくて、きっとどうかしていたのかもしれない。
どさっ
「かなっ・・・」
「・・・・・ん」
:
:
――・・・・・・
――――――・・・・・・
――――――――――――・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
鼻をくすぐる、どこか甘いにおい。
頬に、未夢の髪が触れるような。
気のせいか?
とても近くに、未夢の息づかいまで聞こえる気がする。
重症だな・・・
「・・・あっ、あのっ、やっぱり、わっ、わ、私、ちょっとスープ、火にかけてるからっ、行ってくるねっ」
すうっと。
夢心地のようなぬくもりが一瞬にして消えた。
・・・ああ、やっぱり夢だったんだ。
未夢がそばにいる、近くで笑っているような気がする。
都合のよすぎる夢――・・・。
:
:
:
ばたばたばた・・・
どくどくと、脈打つように高鳴る心臓を懸命に押さえながら、未夢は彷徨の部屋から駆けてきた。
まだ、この手のひらにはっきりと、彷徨の手のぬくもりが残っている。
初めてじゃない、西遠寺にいたときだって、彷徨と手をつないだことは少なくはなかった。
( だけどっ・・・な、なんだったのっ?今のっ)
夕方には戻るはずだったのに。
気がつくとななみや綾との久しぶりの再会に話がはずんで、すっかり日も暮れかけていた。
そして、ようやく西遠寺に着いて。
少しためらいがちに外から声をかけたが、反応がなくて。
鍵が開いているのをいいことに、思い切って、そのまま家の中に入った。
長い廊下を歩いて、彷徨や宝晶おじさんを探してみたのに、気配がなくて。
ワンニャーやルゥがいたころはにぎやかだった、居間もがらんとして。
だから、彷徨の部屋を覗いてみたのだが。
未夢がそっと戸を開けると、静かに、気持ちよさそうに、彷徨が部屋に寝転んでいた。
未夢は、ふっと微笑んで。彷徨がすぐそこにいることが嬉しくて。
彷徨の寝顔をそのまま見ていたくて。
だから・・・しばらく彷徨の顔を見つめていたのだ。
起こすのもためらわれたが、せっかく西遠寺に来たのだから、・・・帰ってきたから。
だんだん、わがままになって、今度は寝顔ではなく、彷徨の目を見たくなった。
夕食の用意もできたのでそれを口実に、起こしたのだけれど。
(わ、わたし、いまっ、だ、だ、抱きしめられた??@*%&$#¥〜っっっっっっっ!!!?)
言葉にならない言葉で、未夢は心の中で叫んだ。
ただ彷徨を起こしに行っただけのはずが。
未夢は、思いがけない出来事に心臓が高鳴るのを押さえられなかった。
数分前。彷徨の部屋で。
すうっと手が伸びてきて、すっぽりと彷徨の手が未夢の手を包んだ。
きゅっ、と握ってきて、指を絡めてきた。
一瞬、びくっとはしたが、それでも、手をつないだだけならまだよかった。
それが。
手を握ったまま、彷徨は未夢を引き寄せて。
いきおい、彷徨の胸に飛び込むような形で、倒れこんでしまった。
そのまま、彷徨の腕にぎゅっ、と力がこもって、肩に顔をうずめられるように、彷徨の顔がとても近くにあった。
片手を握りしめられたまま、もう片方の手は背中に廻されて。
(それに、未夢・・・って呼ばれたような気がした・・・よ・・ね?)
わけがわからず飛び込んでしまった彷徨の胸は、思ったよりもしっかりとしていて。
今迄だって、何度か勢いで無意識に彷徨に飛びついてしまったことはあるけれど、
こんなふうに“抱きしめられる”のは初めてで。
未夢はもう、完全にパニック状態だった。
(うぅ〜っ、彷徨のヤツ〜っ、いったいどういうつもりなのよぉっっ)
自分の気持ちがこんなにも彷徨に向いているというのに、こんなことをされるなんて。
(彷徨のバカっ。寝ぼけてるのっっ??)
まだ収まらない鼓動を抑えながら、未夢はぼんやりと彷徨の部屋からキッチンへと続く縁側の廊下から月を見上げた。
「満月の夜・・・」
未夢はぽつりとつぶやいた。
ルゥとワンニャーがオット星に帰ったのも、そう、こんな満月の夜だった。
(――そういえば、私が生まれたのも、満月に近かったって、ママがいってた)
彷徨のも、いつだったか、調べてみたら・・・下弦の月だって。
ルゥは・・・オット星だから・・・やっぱり、月なんてないのだろうか。
>月・・・あるといいな
(あのときも満月だったな・・・)
あのとき。
彷徨とがけの下に落ちたとき。
綺麗な綺麗な、満月だった。
ルゥの星にも、月があるといいな、と二人で話したあの夜。
(あれ・・・)
・・・いつの間にか。
未夢のさっきまでのドキドキの鼓動が、今度は次第にそれが心地よく思えてくる。
ルゥたちと別れたときの悲しく、寂しいあの思い出も。
がけの下で、彷徨と二人っきりになったときも。
いつだって、“何かが起きる”ときは、満月だったような気がする。
――― やっぱり、大好きだよ、彷徨・・・
ますます好きになっていく。
確かになっていく気持ちに、正直に。
「もう、逃げないからね・・・」
未夢は、月から視線をはずすと、縁側にくるりと背を向けた。
月の光の彼方だけが、全てを知っているかのように、優しく微笑んでいるようだった。
未夢の瞳に、今年は西遠寺から見下ろす街の明かりも、去年よりもずっと輝いて見えた。
◇◇
「あ・・・れ・・・」
いつの間にこんなに時間がたってしまったのだろうか。
彷徨は、重い瞼をこすりながら、ゆっくりと目を開けた。
(たしか、夕方、買い物から帰ってきて。なんだかひどく眠くなって・・・)
未夢が来るのをあんなに心待ちにしていたはずなのに、なんで寝てしまったのだろう、
そんなふうに彷徨は後悔しながら、夏特有のけだるさを体に感じて、体勢を起こした。
「そうだっ、未夢っっ??」
はっ、と気がついて、彷徨は一気に立ち上がった。
時間からすれば、間違いなく未夢は西遠寺(ここ)に来ている時間なのだ。
普段なら駆けることなどめったにない廊下を、急いで駆け出す。
ただひとり、未夢を探すために。
◇◇
(未夢。みゆっ!みゆっ!!!)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「っ・・!!」
「・・・あ、彷徨、やっと起きちゃった?」
とりあえず真っ先に飛び込んだキッチンにはあのころと変わらず、振り返って微笑む未夢がいた。
彷徨は目を見開いて、ただじっと未夢を見つめる。
たった数ヶ月のはずなのに、まだ本当に少ししかたってないのに。
未夢は前よりずっと、大人っぽく綺麗になっているように思えた。
夏なのにあまり日焼けしていない白い素肌。
色素の薄い、長い綺麗な髪も。
新緑色の大きな瞳も、あのころと変わらない綺麗な光を宿したままで。
胸元から覗く鎖骨辺りの素肌がやけにまぶしくて、彷徨は思わず目をそらした。
「あ・・・来てたのか」
眠いせいなのか、それとも、本当は未夢に見とれてしまったのか、
彷徨はぼんやりとする頭で、未夢に声をかけた。
本当はもっと気の利いたことが言いたいのに、照れ隠しのために、つい、ぶっきらぼうな言い方しかできない自分を情けなく思いながら。
「来てたのか、はないでしょ〜!彷徨、ずっと起こしても起きなかったんだよ?
仕方ないから寝かしてあげてたの〜!」
「・・・そんなに俺寝てたのか?」
「そうだよ〜。私が起こしても全然起きないから。本当は頑張って起こそうとしたけど、・・・かっ、彷徨があんなことっ・・・」
「?あんなことってなんだ?」
「っっ!!、いいっ、なんでもないっ」
(やっぱり彷徨覚えてないんだっ、っていうか気づいてないんだよねっ。・・・よかったよぉ・・・だけど・・・)
ぼんっと、完熟トマトのように一気に真っ赤になった未夢に彷徨は、ん?
と首を傾げる。
「どうしたんだ?」
「えっ?あ、いや、ぜんぜん?な、何でもないよ、うん。さ、ご飯食べよ〜っ」
「・・・お前の“何でもない”はたいがい、“何でもある”ときだけどなぁ」
「む〜、何よぉ、そのいいかた〜、何か気にかかる〜!」
「さ、どうでもいいけど、飯にしようぜ、あ〜、腹減った。だけどなぁ、お前の作った飯だから、あまり期待はできないけど☆」
「こらぁ〜!!話しすり変えるなぁ〜!!それにせっかく作ったのに何よぉ、その言い方ひっど〜い!!!」
未夢が言葉を返すとちゃんと彷徨がそれに応えて。
それが、本当にごく自然に。
ゆるく流れていた時間が、途端に加速して動き出した。
会うまでは、あんなに会いたくても会えなかったのに。
逢ってしまえば、また二人の時間がひとつひとつ刻まれていく。
◇
「・・・そういえば、親父は?」
夕食も終えて、縁側に座っている未夢に彷徨は声をかけた。
先に風呂を済ませ、まだ濡れたままの髪でタンクトップ一枚の彷徨は、妙に男っぽくて、未夢は一瞬どきり、としながら振り向いた。
「彷徨?今頃何言ってるのよ〜。おじさんから何も聞いてないの?」
「ああ。聞いてるには聞いてるんだけどな。昼ごろ檀家のところに言ってくるって行った以来、何も連絡なくてさ。って俺も結構長い時間寝てたからその後よくわかんねーけど」
「そうなの?だけどもう8時過ぎだよ?いくらなんでも遅いよね、宝晶おじさん」
そう、未夢が言い終わるかいい終わらないかのときだった。
タイミングよく、西遠寺の電話が、大きく鳴り響く。
「あ・・・」
「親父かもしれないな」
*
「はろ〜、かーなたー??元気にしとるか〜い?わしはあいむ・べりーべりーふぁいんじゃぞ〜、ふぁいんせんきゅー?」
「オヤジ・・・何わけのわかんねーこといってんだ?酔ってるだろ?っていうか、何してるんだよ、早く帰って来たほうがいいんじゃないか?どこにいるんだよ?」
「檀家の英未さんと、それから南さんご夫妻とご一緒しておるのじゃ。何やら引き止められての、わしはこのままここに泊まってくるからの、あ、未夢さんにもわしからもよろしくとよぉ〜く、伝えておくんじゃぞ。
そ・れ・に彷徨、お前わしがおらんほーが好都合じゃないかの〜?そうすれば、未夢さんとふ・た・りきりじゃしのぉ〜♪」
「な、なっ、オヤジ何いってんだよっ、なんか勘違いしてないかっ??俺と未夢はべつにっ・・・」
「うんうん、わかっておる。照れておるんじゃな〜?、
はぁ〜、若いもんはええのぉ〜。わしも瞳ともう一度ラブラブしたいのぉ〜。」
「だっ・・・だからっ!!」
「ふーむ。・・・しかし、彷徨、ラブラブもよいが、せめてあちらの親を泣かすようなことはまだまだまーーだっ、早いからの。そのへんはちゃんと見極めるんじゃぞ〜。
じゃが、彷徨、未夢さんは可愛いからの、お前が手をつけなければ、すぐにでも他の誰かのものになってしまうかもしれん。となると、今宵が絶好のチャンスじゃ。
では、彷徨、素敵な夏の夜を過ごすんじゃぞ。お前ももう中学三年生。年頃だからの〜。
ゆるり、青春をたっぷり満喫するがよい。偉大なる父からの、ありがた〜いお告げじゃ」
「ってっ、親父っ!おい・・・。おいってばっ!」
ぷつっ・・・・・
(一体、何なんだ・・・ほんとにオヤジ、酔ってるのか?なんか酔ってるようなわざとあんな感じに見せかけてるよーな・・・)
父親の発言とは思えないほど、恥ずかしいことを躊躇なくべらべらとまくしたて、さっさと電話を切ってしまった宝晶に、彷徨ははぁ、と大きなため息をひとつ。
一つひとつの言葉の意味に今になって、なんだかかっと、頬が熱くなって、思わず口元を押さえた。
――確かに、未夢のことを気にかけるようになってから、随分たつ。
いつからか、なんて自分でもわからないけど。
だけど、けっこう早かったような気がする。
未夢がここにいるときから。一緒に暮らすようになって少したったくらいからすでに。
未夢といると、心が温かくなって、胸の奥が痛くなるときもあったり・・・
未夢を見ているとあぶなっかしくてしょうがなくて、目が離せなくなった。
そして。今。
―― ときに、ぎゅっ、と抱きしめたくなったりする。
(まったく、俺、どうしちまったんだろうな・・・こんな気持ち、初めてだ)
(それにしても。どうして俺が未夢のことを・・・だってわかるんだ?親父のやつ・・・にぶそうなくせして、核心をつくときあるよなぁ・・・)
だけど。
言われなくても、わかってるさ、そんなこと。
未夢のことをずっと大事にしたいから、気持ちを伝えなければならないのは。
*
「彷徨?おじさんだった?それに電気もつけないままで、真っ暗じゃない」
未夢がふわふわと髪をなびかせながら、彷徨のあとを追って、電話口までやってきた。
さきほどまでは横にまとめていた髪を、今はふんわりと、ほどいてしまっている。
「あっ・・ああ。なんか、親父のやつ、そのまま檀家のところに泊まってくるらしい。
ったく。やっぱり親父はいつだって、いいかげんなんだよ」
「そんなことないよ。素敵なお父さんじゃない。楽しくて明るくて」
「そんなこと言ったって、またいつ修行だとか何とか言って、“インドに行ってくる”とか言い出すかわかんねーからな。信用ならねー」
「ふふっ。けっこう宝晶おじさんと彷徨、仲いいと思うんだけどな〜」
「・・・そう言われてもあまり嬉しくないけど」
(・・・っていうか、本当にこれって二人きり・・・なんだよな)
彷徨は未夢の微笑む姿を見つめながら、今になってまた、かっと頬が熱くなるのを感じた。
最初未夢が一年前初めてきたときも一瞬二人だけになってどうしようかと思ったが、あのあとはすぐにルゥとワンニャーがきたのだから。
それにあのときはまだ、未夢のことを何とも思ってはいなかったから。
だが、今は違う。
未夢に対して、もう完全に、恋愛感情を抱いてしまっている。
(こんな状態、・・・で俺冷静でいられるんだろうか・・・)
「彷徨?どうしたの?」
未夢は気づいていないのか、きょとんとした無邪気な笑顔で彷徨の顔を覗き込んでくる。
ふわっとした髪がさらりと彷徨の腕に触れた。
思った以上に、距離が近い。
未夢の白い素肌が、灯りもつけないキッチンの窓からの夜の光に照らされて、妙に綺麗に見えてしまって仕方なかった。
「な、なんでもねーよ。それよりお前、風呂は入らないのか?俺先に入ったけど」
「あ、うん。そうだね、入ってくる。久しぶりですなぁ、ここのごえもん風呂。けっこう古くていい感じだよね〜」
「・・・・悪かったな、古くて」
「そんな意味で言ったんじゃありませーんっ。もう彷徨ってばどうしてそんな素直じゃないかなぁ〜。いいもん、早くお風呂入ってさっぱりしてこよーっと」
ぷうっと頬を膨らませながら、未夢はくるりと振り向いてキッチンを出て行こうとした。
未夢には本当はもっと違うことがいいたいのに。
出てくる言葉は、いつもそっけない言葉ばかり。
素直になれない自分がもどかしくて。
だけど、伝える勇気がつかめなくて。
もうとっくに心は決まっているのに。
未夢の背中を見送りながら、彷徨はまた今日何度目かのため息をついた。
「ねぇ・・・・彷徨?」
ふと、キッチンの入り口で未夢がぴたりと足を止めて立ち止まる。
何かいいたげに、少しだけ体をこちらに向けて様子をうかがうように問いただしてきた。
「何だ?」
彷徨は軽く眉を吊り上げて未夢を見つめた。
「あのね・・・」
「うん」
「私が来て、・・・ほんとによかったの?」
(え・・・)
「ば、ばか、いいに決まってるだろ?何今更言ってんだよ」
思いがけない未夢の言葉に、彷徨は一瞬どきり、として。
自分でも不思議なくらい、答えをすぐに返していた。
「・・・そっか。よかった。うん、じゃ、私お風呂はいるね」
「あ、ああ」
(あいつ・・・何が言いたかったんだ?)
未夢はいったいどういう意味で、突然あんなことを言ったのだろうか。
ここに遊びに来ていいか、だなんて、何で今更聞いてきたのだろう。
だけど、確かに自分と未夢の関係とは何なのだろうかと近頃になって、余計気になるようになった。
ルゥやワンニャーがいたころは、四人家族の一員として、都合よく見ている部分もあったのだが。
もうそれぞれの場所で生活もしているし。
一緒に暮らしているわけでもない。
できることなら。
未夢の気持ちが少しでも自分に向いているのなら、今すぐにでも、気持ちを通じ合いたいと、・・・離れてからはずっとそう、思っていた。
――― 気持ちだけは、もうずっと前から、先走っている。
*
(やっぱり彷徨気づいてないんだ・・・)
湯船にちゃぷんと肩までゆったりとつかり、未夢はぼんやりと思いをめぐらせていた。
抱きしめられた感触がまだこんなにもはっきりと残っているのに。
肝心の、彷徨のほうは気づいてもいない。
(誰でも・・・よかったの?)
未夢は何だか泣きたい気持ちになって。
それでも、やっぱり彷徨が好きなんだと余計感じてしまう。
(好きの気持ちがこんなにも、切ないんだね・・・)
気づいてしまったら、今までなんでこんな簡単なことが気づかなかったのかと。
「好き」と認めてしまったら、心は素直に、こんなにもまっすぐに彷徨が好きなのだと、
大切なのだと、とめどなく気持ちがあふれていく。
「近すぎて、気づかなかったんだよね・・・」
――気がつけば、いつもそばにいてくれた・・・
初めて未夢と彷徨が出会ったときは最悪の出会いだったが。
未来なんてわからないもので、運命とは本当に不思議なものなのだ。
(だけど。初めて会った場所がお風呂場だなんて、ほんっとデリカシーのないやつっ)
未夢は反射的にあの出来事を思い出して、ぱっと顔を赤くする。
それでも。
一年以上も前になるのに、あのときの鼓動の音がこんなにはっきりと覚えている。
切なさの中に、懐かしさを思い出して、少しだけなんか気持ちがほっとして。
未夢は一瞬、くすりと微笑んだ。
◇
夏の夜はどこか不思議だ。
窓から吹き込んでくる昼間の半分は涼しくなった風が、とても心地よく思えて。
いつまでも起きていたいような、寝てしまうのが勿体無いようなそんな気分に駆られる。
彷徨は、あることをするために、庭に出た。
夜風が、思っていたより涼しげで、少し濡れたままの髪を軽く揺らす。
そういえば、みんなで西遠寺に「合宿」なんてこともあったな、など思い出しながら、ぐるぐると広い敷地内を歩く。
彷徨は裏庭の奥にまわる。
裏庭は寺だけに、なかなか広いもので、母屋とは少し離れたところにもつながっている。表のほうでは、友人達が来たときに、 三太の準備した映画も観たこともあったほどだ。
「家族」の絆を、また一歩縮められたような気がした、西遠寺でみんなが集まった“あのとき”。
あの日、ルゥやワンニャーの存在の秘密を友人に打ち明けられないのが、みんなを信じていないようでつらい、と未夢は言っていた。
だけど、黙っていること、秘密にしておくことは、決して嘘をつくことではないことだと、そういうこともときには必要なことなのだと、・・・そう、伝えた。
ルゥや、ワンニャーを大切に見守るためだからこその秘密。
>わかるのも、友達、わからないのも、友達。
未夢の気持ちを守ることができたような気がして、自分でも嬉しく思えたときだった。
彷徨は懐かしそうに庭を見渡しながらも、ほほえむ。
――そういう、未夢の優しさや心にも惹かれてしまったのだろう、
そう心から思う。
(もう・・・いいよな・・・?)
自分の気持ちを伝えるのにも。
ためらってなど、いられない。
だって・・・大切だから。
今でもずっと未夢のことが・・・・
―― 気づけばいつのまにか、未夢の笑顔が見たいという気持ちが彷徨の中にいつも、近くで囁いていて。
そして、これからは、笑顔を作るのも、自分であればいいと。
そう、願ってやまない。
彷徨にはもう、迷いはなかった。
今日、未夢が来たら、伝えたいことがあると・・・、あの夜の電話からもう、決めていた。
未夢がどう思っていようと。
この気持ちだけは、閉じ込めておくわけにはいかなかった。
なぜなら。
とっくに、未夢への想いは溢れてしまっている。
一つひとつの未夢と過ごした季節が、どれもこんなにも鮮明に、色鮮やかに、はっきりと覚えているから。
「彷徨・・・何してたの?」
風呂から上がった未夢は、縁側から見える庭に立っている彷徨の後姿を見つけ、声をかけた。
未夢の言葉に気づき、彷徨はふっと表情を和らげて、振り返った。
「あ、ああ。なんだか夏の夜って気持ちよくてさ。昼間はあんなに暑いのに夜になるとだいぶ涼しいだろ?だから・・・ちょっと風にでも当たろうと思ったんだ」
「へぇ。そうだよね〜。暑いけど、なんか、夏っていいよね。好きだなぁ。春も大好きだけど。夏はなんか、元気になれるんだぁ。・・・
・ ・・反対に、ルゥくんたちと別れたのが、夏じゃなくてよかったかな」
ふっと、息をついて、未夢は寂しそうに顔を曇らせる。
彷徨はそれに気づいて、軽く眉をひそめた。
「・・・なんでだ?」
「だって、もう・・・四ヶ月、だよね。もしあのときが夏だったら、11月とか、12月だとか。・・・寒くなるし、気持ちが余計、寂しくなっちゃうじゃない。今は・・・まだこんなにも暑いから・・・」
「未夢・・・おま・・・」
「・・・あっ!!あははっ、何言ってるのかなぁ〜、私ってばっ!こんなのらしくないよねっ。光月未夢、は元気だけが取り柄なんだからっ。・・・ちょっとだけ、そんな風にいってみただけだからっ」
「未夢・・・」
「何?」
彷徨にじっと見つめられて、はっとして未夢も視線を合わせた。
「俺、もう寝るから。何だか眠くなったから・・・」
「・・・え?もう寝るの?」
まだ、早いのに、未夢はそう思いながら寂しげに聞き返した。
「・・・ああ。悪いな、また明日ゆっくり話そうぜ。・・・だけど未夢。・・・無理するなよ」
(え・・・)
一瞬見せた彷徨の気づかうような表情が、なんだか切なくなって。
未夢はわざとおどけて肩をすくめて、無理にまた、作り笑いをして見せた。
「だ、大丈夫だよっ。無理、ってなんのこと?何いうかなぁ〜、彷徨ってば。お休みっ」
「じゃ、明日な」
彷徨はそんな未夢に気づかないフリをして。
何か考えこむように、縁側に立つ未夢のほうを意味ありげにちらりと見ると、
静かに家の中へと入っていった。
「うん・・・」
小さく笑って、彷徨の後姿を見送る未夢。
彷徨が去ったあと。
未夢は彷徨がそうしていたように、庭のほうへと外へ出て行った。
確かに、夜風は心地よかった。
未夢は夏の夜空を彩る綺麗な星を見上げる。
今日何度も見上げた満月が、さっきよりももっと高い位置にあって、月の回りだけが、虹色に見えるような錯覚で、二十にも三十にも明るく夜空を照らしていた。
(彷徨・・・)
一人取り残されて。
未夢は余計寂しくなった。
今度は逆に月がひとりでぽつんと浮かんでいるのが、まるで今の自分の姿みたいで、ひどく寂しげに見えてくる。
(寂しいよ、やっぱり私。戻りたい、あのころに・・・)
――― こんなにも、こんなにも、こんなにも、あの季節が恋しい。
ルゥ、ワンニャー、そして・・・彷徨。
過ぎ去った日々には、決して戻れないとはわかっている。
毎日忙しくても、空を見上げて、ちゃんと「いま」を
受け止めなきゃならないってわかってる。
だけど。
未来でも、彷徨と自分は一緒にいることができたら。
きっと、いつかはルゥにもワンニャーにも会えるような気がする。
大切な大切な、もうひとつの家族。
別れのつらさを、初めてわかった気がした。
「好き」「大切」「宝物」そんな存在はいつまでも存在はしないもので。
失ったときに初めて気づくことがある。
だけど・・・いつも彷徨が未夢のそばにいて。
そして、いつだって、未夢の気持ちをわかってくれた。
きっと、彷徨と別れてしまえば、ずっとずっと、余計好きになって、心が苦しくなって・・・、どうにかなってしまうかもしれない。
「寂しいよ・・・やっぱり・・・大好きなんだからっ・・・!」
未夢はもうたまらなくなって、声に出して自分の気持ちを、見上げる空に向かって叫んだ。