Autumn Wind

-3-

作:宮原まふゆ

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「……ふぁ?」

ビクリと身体が痙攣した途端、明るい光りが瞳に飛び込んで来た。


(あれ…?ここは…)


薄っすらと目を開けて、ぼんやりと目を泳がす。
白で統一された、清潔そうな壁。
同じ白の薄い絹のカーテンが、窓際でユラユラと風に揺れている。
窓からはあの金木犀の香り。
そして、自分がベッドに寝ていることで、やっとここが保健室だと判った。

はぁ…と、未夢は安堵したような深い溜息を一つした。
同じ白の世界でも、此方の世界は現実で温かみがある。


(――――夢。そうだ、全て夢だったんだ………)


ほっと一息ついて、身体を起こそうとすると、ポトッとベッドの脇に落ちたモノがあった。
オデコに当てられた湿り気のあるタオル。
それは未夢の熱で生温くなっていた。


(私、立ち上がってすぐ倒れちゃったんだ…)


キュキュッと椅子の引きずる音が聞こえ、カーテンの向こうで誰かが居ることに気がついて、そっと片手でカーテンを開いた。

「光月さん、起きた?」
「長谷川先生…」

未夢はほっとした表情で、長谷川を見た。
養護教諭の長谷川はこの学校の隠れアイドルと言ってもいいほど、可愛い顔をしている。
優しく、そして少しドジな性格は、全校生徒達から慕われ、生徒達の恋愛相談を受けるくらい、信頼はあつかった。

「ちょっと熱、測ろっか?」
「はい」

体温計を口に含んで暫らく待つ。
ピピピッっと鳴った体温計渡すと、長谷川は神妙な顔つきでじっと凝視した。

「うむ…37度5分か…。だいぶきつかったんじゃない?」
「いえ…そんなには…」

きつかったと言えば、そうかも知れない。
でもあの時は、どうしても試合を最後まで見たかったのが優先して、自分がどこまで体調が悪かったのか判らなかった。
ヤバイかな?とは思っていたけれど…。

長谷川は体温計を机の引出しに直すと、キャビネットの窓を開き、沢山ある薬のビンの中から風邪薬を取り出すと、その中からニ粒ほど手の平に落とした。
水の入ったコップと一緒に未夢に差し出す。
未夢は素直に薬を飲み終えると、カラになったコップを長谷川に渡した。
そして再びベッドに横たわり、ふぅ…と深呼吸をした。

「もう球技大会は終ったから、迎えが来るまでここで安静にしてなさいね」
そう言うと、長谷川は未夢に背を向けて机に向かった。
カリカリとノートに書き込むペンの音が保健室に響き渡る。

「せ、先生…」
「なに?」
「あの…あの…」

誰がここまで運んで来てくれたのだろう…?
でもそれを直接聞くのが恥ずかしくて、未夢は言葉に詰まった。


(なんとなく…。なんとなくだけ、判ってはいるけれど……)


それを察したのか、長谷川が頭だけを振り向きニッコリと。
「誰がここまで光月さんを運んで来てくれたかって事でしょ?」
まるで未夢の心を読んだようにズバリ言い当てた長谷川に、未夢はビックリして狼狽した。

「あ。はっ、はい」
「西遠寺くんよ」

これまたあっさりと、当たり前のように長谷川は答えた。


(うう…やっぱり彷徨だ…)


未夢は顔を紅潮しながら、恥ずかしそうに毛布を口元まで上げた。

「西遠寺くんねぇ〜、貴方を抱いて凄い勢いで運んできた時…」
「だ、抱いてっ!?」
「そうよ。お姫様抱っこ」
「ええぇーっ!?!!」

あの大勢の生徒達の中で、気絶していたとはいえ彷徨から横抱きされたとは。
さぞかし女の子達の悲鳴と周囲のどよめきで、騒がしかったに違いない…。
想像するだけで顔が真っ赤になる。

「西遠寺くんに感謝しなさいね。凄く心配してたわよ。…それにしても西遠寺くんの慌てように私ビックリしちゃったっ!あの西遠寺くんがあれだけ狼狽するとはねぇ〜」
それだけ光月さんのことが心配だったのねと、ふふっと思い出すように笑った。

いつも冷静沈着な彷徨が慌てるなんて、未夢は信じられないでいた。
だか、心配げだったというのは、なんとなく想像出来た。
彷徨の心配な表情は、今朝から未夢の目に焼き付いていた。

「あの、先生…」
「うん?」
「相談、のってくれる?」
「…いいわよ」

長谷川は椅子に座ったまま振り向き、未夢の方を真っ直ぐ向き合った。
「なぁ〜に?」

ニッコリと、ほんわかとするその表情に、未夢もいつの間にか素直な気持ちになっていった。
未夢はたどたどしく、今日の自分の気持ちを話した。
あの応援席で、自分はどう思っていたのか。
どう感じていたのかを。
どこから話したらいいか迷ったが、とにかくありのままを長谷川に話した。

「…――――最近、彷徨と私って不釣合いなんじゃないかなって思うんです…。彷徨の周りには綺麗な子たくさんいるし、可愛い子ばっかりだし…私なんかドジでオッチョコチョイで、全然釣り合いとれてないの」

未夢は少し苦笑いするように笑った。
でも未夢の表情はどこか苦しそうに眉をひそめて、今にも泣き出しそうな表情だった。
下唇をきゅっと噛み締めて、無理に笑う。
泣きそうになる気持ちを必死に耐えていた。

「応援席で座ってても、彷徨を応援する子が多いのね。皆、私が彷徨と付き合ってるの知ってるから、どこか恨めしそうに見てるの判るんだよね。そんな視線感じてたら、私、彷徨とつきあったらいけないのかな…って、そう思っちゃって…。でもね、それでもね…」

「それでも…好きなんでしょ?」
長谷川の静かな声に、未夢はコクンと頷いた。

「…私って、欲張りなのかな…?胸の奥で「彷徨は私のなんだからね!名前呼ばないでっ!」って叫んでいたような気がする。でも結局は言えないまま、俯いて通り過ぎてた。恋は誰にしたって構わないのにね、でも、彷徨に向けられてる視線が…なんか凄く…嫌だった………」

未夢は思い出していた。
手を胸に当てて、彷徨がボールを蹴る姿を嬉々として見ていた女の子達の表情を。
恋する女の子達は皆そうなのだ。
瞳を輝かせ、時には潤ませて、好きな男の子の表情に一喜一憂姿は、未夢も可愛いと思う。

考えたら、彷徨に対してそんなこと感情を持っただろうか?。
彷徨に出会った時は最悪だったし、口を開けばケンカばかりしていた日々。
それでもその存在が気になって、気がついたら好きになっていた。
初めての恋愛。
それでも今までと同じ、いつもどおりに振舞っていた。
それが二人にとって一番良いと思ったからだ。

変わらない日常の中で、いつの間にか芽生えた、不安。
それは、彷徨に注がれた熱い視線と共に生まれたような気がする。
じわりじわりと、重い威圧感が胸に鈍い痛みを走らせる。

そして、
彼女達のようにずっと思い続けている『好き』と、自分の『好き』には、彷徨を想う心の重さが違うんじゃないか……。

そう、未夢は考えずにいられなかった。


「私、さっき、彷徨が私のおでこに手を当てた時、無理やり振り払っちゃった。私の体調が悪いことを気遣って心配してくれたのに…。周囲の視線が凄く気になって、そんな視線を気にしないで平気でいられる彷徨が、どこか苛ついて…。私、もう彷徨に、嫌われた…かなぁ…?わ、私と…別れて…ひっくっ…他の子と…つ、付き合ったほうが…良いに…決まってるっ……。でも私っ…私…は………」

我慢していた感情が溢れ、未夢の目からポタポタと涙が落ちた。
それは毛布に吸い込まれ、しっとりと濡らしていく。
ぎゅっと毛布を両手で掴んで、これ以上心が崩れ落ちないよう、必死になって自分を押さえた。

「その事、西遠寺くんに言った?」
長谷川の質問に、未夢はフルフルと頭を横に振った。
「…言って、ない…」

長谷川は小さく微笑みながら、
「じゃあ、ちゃんと自分の今の気持ちを言わなきゃね」
だが未夢はフルフルと頭を横に振った。
「言えないですよ、先生…怒られるのがオチだもん…」

肩を落として俯く未夢に、長谷川はあっけらかんとした口調で言った。
「それでもいいんじゃない?」

想像も出来なかった長谷川の意外な言葉に、「え?」と伏せていた顔を思わず上げた。
未夢の戸惑った表情に、ふふ…と目を細め優しげに長谷川は微笑む。

「怒られてもいいんだよ。相手が自分の為に怒ってるのが判ってるのなら、それを素直に受け止めようよ。怒ってくれてるって事は、相手が自分のことをすごぉーく考えてくれてて、自分のことを大切にしてくれてるってことなんだから…」

「…そう感じた事、ない?」と言う長谷川に、未夢は頬を赤く染めながら、微かに頷いた。

そう。
彷徨はいつだって自分を見ていた。
真剣な顔で怒ってくれた。
「しょうがねー奴」って、いつも頭を撫ぜてくれた。

いつもあの真摯な眼差しで自分を見てくれていたのに、それに答えることも出来ず、俯いてばかりいた。

怒るかな?
今の気持ちを知ったら。


(やだ、また涙が出て来た……)


「光月さんはもっと素直になったほうが良いわね」
長谷川はそう言うと、椅子から立ち上がり、部屋の扉のほうへトコトコと歩いて行く。

「先生も…あった?」
ほんの少し知りたくなって、未夢は聞いてみた。

学校の噂では、長谷川は去年卒業した生徒と同棲中だと聞いた。
頭脳明晰で冷静沈着な、でも色々問題があって問題児だったとも聞いている。
そんな生徒と先生の恋愛…。
それは学校中の、女の子達の話題の的にもなっていた。

「勿論よぉ〜。女の子っていろーんなこと考えてしまうんだよね…。余計なことさえ抱え込んで、悩んで、一人で落ち込んで、その度に何度も怒られてた」
どことなく懐かしそうな表情で、長谷川はクスクスと笑った。
「馬鹿だのアホだのって、しまいには「少しは考えろ!一応教員免許持ってるんだろうがっ!」ってね…、彼、凄く口が悪くて。今でも怒られてる」
舌を照れ臭そうにペロッと出す。
「先生が?」
未夢は目を丸くした。
「私ってとろいから…。でもね、喧嘩してて思ったんだぁ…。私のことを想ってくれているから怒ってるんだって。彼の私に対する愛情表現なんだ、優しさなんだって思ったらね、全部許せちゃった。だから、光月さんが悩むのも西遠寺くんが光月さんを怒るのも、なんとなく判るんだ…だからっ」

長谷川は扉の入り口に立つと、いつも開ける扉とは別の扉の取っ手を掴んだ。
「…せ、先生?」

不思議そうな顔で小首を傾げた未夢に、口元に指を立てて、悪戯っぽく笑った。

「だから、ちゃんと本人の前でちゃんと言おうねっ!」


ガラッ!


「うわっ!」
突如扉が開かれたせいか、身体をよろけさせながら一人の男子生徒が保健室に入って来た。
見覚えのある声、その姿。

「か、彷徨っ!」
彷徨はバツが悪そうな表情で、未夢をチラリと上目見た。


(な、なんでっ!や、やだっ!)


未夢は慌てて毛布を掴むと、すっぽりと頭まで毛布を被って隠れた。
隠れたって無駄だとは思うけど、今はまだ彷徨に顔を合わせるほど、勇気も準備も出来てなかった。

「光月さん、観念しないさいねぇ〜」
「……」
答えることが出来ない…。

「西遠寺くん、私暫らく学校を廻ってくるから、ココ宜しくね」
と、長谷川は彷徨の肩をポンと叩いた。

「あ、はい…」
彷徨は少し緊張した面持ちで返事をする。

そして長谷川は、彷徨の肩越しに向かって小さな声で。
「ここは学校だから、生徒としてのケジメは忘れないでね」と養護教師としての義務を忘れずに伝えると、カッと頬を染めた彷徨にウインクをして保健室を出ていった。




再び音を立てて閉じられた扉。
急に静かになる部屋。
毛布を被った小さな空間の中で、未夢の心臓の音だけがドクドクと耳に響いていた。

彷徨は自分の鞄と未夢の鞄、そして未夢の制服が入っているバックを、近くにあった籠の中に置いた。
ゴトンと鞄を置く音さえ、未夢の耳には大きく聞こえ、思わずビクッと体が震えた。

暫らくして、彷徨が床に足音を響かせながら近付いてきた。

コツッ、コツッ…


(うわっ!く、来るっ!)


掴んでいた毛布を更に力を込め、身体をぎゅっと縮こませる。
彷徨はベッドの近くまで来ると、ピタリと立ち止まった。
じっと見られるだけの状態。
毛布の中でも感じるその視線がとても恥ずかしくて、それでも未夢は我慢して堅く目を瞑っていた。

僅かな時間が流れ、毛布の向こう側から「ふう…」と溜息が聞こえて来た。

「しょうがない奴だな、お前は」

はっきりとした、低く静かな声だった。
あの夢で聞いた、冷ややかな声に少し似ていた。

「言いたい事があるんだろ?言えよ」

冷たいと思った。
廊下で聞いていた癖に、平気でそんな事を言うんだ。
言い捨てるような口調に、腹も立った。
意地悪なのはいつもと同じ。
でも、どこか違う雰囲気を感じて、未夢の手は微かに震えていた。


(こ、恐い…)


「顔見せろ」
近付いて来た彷徨が、毛布を掴んで引っ張った。
頭まで上げていた毛布をガシッと掴んで、取られないよう必死に抵抗する。

「やっ!」
「見せろっ!」
「嫌っ!」

彷徨は強引に毛布をもぎ取ると、慌てて毛布を奪おうとした未夢の腕を掴むと、ベッドに押さえ付けた。

「あっ…!」
腕を強引に強く押さえられて、未夢は小さな悲鳴を上げた。

痛そうに顔をしかめて見上げると、彷徨と目があった。
咄嗟に顔を逸らす。
恥ずかしくて、それ以上に悔しくて、未夢の瞳から涙が溢れそうだった。
クッと下唇を噛んで、目を固く瞑る。


(やっぱり嫌い、大ッ嫌い…)



「…未夢…」

ドキリとする声だった。

優しく、囁くような。
そして、懇願するような……切ない声。
胸の奥がキュンと苦しくなる。


(卑怯よ…そんな声だすなんて……)


「未夢」

二度目の声で観念した未夢は、ゆっくりと顔を彷徨に向けた。
目に飛び込んで来た彷徨は、自分が想像した怒った顔じゃなく、どこか泣きそうで苦しい表情だった。
少し驚いた顔で彷徨を見る。


(なんでそんな顔するの…?)


そして気がついたら、唇が動いていた。

「…か、なた…?」
「この馬鹿っ!」

彷徨の名前を呟いた途端、雷が落ちた。
ビクリと肩を竦ませて、目を閉じてしまうほど凄まじかった。


「なんで言わなかった」
彷徨が眉を吊り上げて見下ろす。
腕を放され、未夢はベッドから起き上がると、正座をして小さく肩をしぼませた。
いつもなら怒る彷徨に対抗して言い返していた未夢も、いつもと違う雰囲気の彷徨に、言い返す言葉が何故か見つからない。

「…だって…」
「だってもない」
「…でも…」
「でもじゃないっ!」

「…じゃあなんて言えばいいのよっ!」

思わず未夢は彷徨に向かって叫んでいた。
彷徨は驚いた表情で、目が大きく開いた。

「…恐いんだもん…不安なんだもん…、どうしようもなかったんだもん…っ!今でも私、彷徨の彼女ってことに、自信ないんだもん…。周りにはたくさん可愛い子いるし、私なんか……私なんか、彷徨には不釣合いだもん…。でもそれ言ったら、全部壊れてしまいそうで…。やだもん…絶対…離れたくないもん…別れたくないもん…」


「……好き、なんだもん……」

自分でもぐちゃぐちゃに感情が混ざり合い、何言っているか判らなかった。
ただもう今まで積もり積もっていた感情を、全部一挙に吐き出してしまいたかった。


不安だった。
恐かった。
彷徨が離れてしまったら、どうしようかと思った。
苦しかった。

でも、
負けたくなかった。
あの子達にも、そして、自分にも――――……

言ってしまった後は嗚咽まじりで、喉をひくっと鳴らしては、涙を手の甲で拭き続けるしかなかった。
ヒクッヒクッと声を上げる度に、肩を上下に揺らした。

「…意地悪だよ…嫌いよ…大ッ嫌い…」

未夢を見つめたまま一向に答えようとしない彷徨に、徐々に不安が募る。


(何か言ってよ…やっぱり、そうなの…?)


じわりと、また涙が込み上げてきた。


ギシッ…


鈍い音がしたかと思うと、肩をぐいっと引き寄せられ、彷徨の胸の中で未夢は抱きすくめられていた。
彷徨の腕が肩を抱き、頭を優しく包み込む。

「…え?」

未夢は突然の出来事に、瞼をパチパチと瞬いた。

「か、彷徨…?」
「ったく…ホント馬鹿」

溜息まじりの声で、彷徨が耳元で呟く。
それは心まで響くほど痛く、そして、優しかった。

「あのな、それをそのまま俺に言えばいいじゃん。不安だって、恐いってさ…。そしたら俺その不安を全部無くすようにしてやるぜ?未夢が泣かさないよう考えてやれるぜ?…それとも俺、未夢にとってそんなに信用ないのか?」

未夢は慌てて頭を横に振った。
信用してるよ…だけど、だけど……。

「もっと俺に気持ちをぶつけろよな。お前は周りのことを考え過ぎなんだよ。一人で考えて、一人で悩んでさ…今日のことだって周りのことを考えてのことだろ?でもその前にさ、俺の気持ちも考えたか?」
「彷徨の…気持ち?」
「そうだよ。お前一番考えなきゃならないとこを考えてないだろ?これだから困るんだよ、お前は」
「う…ゴメン…」
しょぼんと俯いた未夢の頭を、ポンポンとなだめるように彷徨は叩いた。

「…俺の気持ちは今もずっと変わらない。これからもずっと変わらない」

背中に廻された彷徨の腕に力が入った。

「絶対変わるわけない」

きっぱりとした口調で告げる。
そして、彷徨の口から告げられた言葉に未夢は呆然となった。

「俺が先に未夢を好きになったんだから…」

彷徨からそんなことを言われたのは初めてだった。
居候の時にも普段と同じように、ちっとも感情を露わにしなかった彷徨が、先に自分を好きになったと言われても、直ぐには信じられない。

「嘘よ。…いっつもからかってた癖に…信じられない」
フルフルと顔を振ると、彷徨は未夢の頬を両手で挟んだ。
パチクリと目を見開いてビックリする未夢に、彷徨はニッコリと笑って質問した。

「キスしたのはどっちが先か?」
「え?えっ…とぉ……、か、か、かな…た……」
「そっ!俺が先だよな」
「で、でも言おうとしたのは私が先だよ?」
「こんなのは早いモノ勝ちなんだ」

彷徨は舌をペロッと出して、ニヤリと微笑した。

彷徨は未夢の顔を引き寄せて、わざと軽くコツンとおでこをぶつけた。
前髪が鼻先に当たって、少しこそばゆい。
そっと上目で見ると、彷徨の頬も微かに紅潮していた。

「…俺が先だ。俺が先に未夢を好きになったんだ。その気持ちを先置いて一人悩んで考えるなよ。まずは俺の気持ちだろ?俺が今どう思ってるかが先だろ?」
「…うん…」
「俺はお前が好きだ。これからもずっと、未夢が好きだ」
「……」
「…まだ、不安か?」
と覗き込むように自分を見る彷徨が妙にくすぐったくて、未夢は視線を下に落として呟いた。
「ううん…凄く、嬉しい……」
「まだ不安なら何度でも言うぞ?」
「ば、馬鹿っ」

未夢はカッと頬を紅潮して彷徨を睨んだ。
「ようやく未夢らしくなったな」と彷徨はニッコリと笑った。

「ちゃんと俺に言えよ」
「うん…ゴメンね…」

苦しくて重たかった胸の奥の痛みが、フワリと軽くなったような気がした。
彷徨の言葉一つ一つが、未夢の胸に伝わりほんのりと暖かくなる。
日頃めったに自分の感情を言わない彷徨が、自分の為に言ってくれる、。
それがとても嬉しくて、瞳が涙でじわりと潤んだ。

彷徨は手を頬から離すと、未夢の肩を抱いて引き寄せた。
初めは少し緊張していた未夢も、身体を彷徨に預けて、彷徨の肩に頬を重ねた。

部屋の外から聞こえて来る生徒達の声。
でも二人のいる部屋は、まるで隔離されているように静かだった。
そんな静けさの中、彷徨がポツリと口にした。

「俺も、聞きたいんだけどさ…」

きょとんした顔で「何を?」と未夢は視線だけを向けた。
「あのな…俺が何度も告白したっていうのに、それはないんじゃないか?」
と、未夢の頬を軽くつねった。

「痛っ…なにすんのよ〜っ!」
「言わないと、もっと凄いことするぞ?」
「…凄いこと…って?」
「…お前、わざと言ってないか?」
「だって本当にわか………っ!」

頬に当てられていた彷徨の手が、くいっと未夢の顔を上げさせた。
そして、重ねられる唇。
いきなりなキスにびっくりした未夢は、咄嗟に頭を引いて離れようとしたが、肩に廻された腕で抑えられ、再び強く塞がれた。
今までに感じたことのない、キスだった。
痛いほど抱き締められる腕の強さと、それと比例するくらい強く長いキスを彷徨は繰り返した。
互いの唇が離れた時、未夢から言えばなんと表現したらいいか判らない音が聞こえた。
恥ずかしくて恥ずかしくて、今にも炎が出そうなくらい真っ赤に染めた顔を、彷徨の肩に隠すように埋めた。

「ば、馬鹿ぁ…」
「まだまだ、こんなの序の口なんだけど?」
「…意地悪、しんじらんない…」
「なんとでも。言わないともっと過激なことするぞ?なんせ結構美味しい場所だしなぁ〜」
「なっ!なに言ってんのよぉーっ!ココ保健室だよ?」
「安心しろ。鍵はしてある」
「!!!」


(い…いつの間に……)


こんな強引な彷徨を未夢は見た事がなかった。
記憶にあるとしたら、ファーストキスをされた時ぐらいしか思い出せない。
あれが強引とはまだ言いがたいけれど。
もしかしたら、自分の為にギリギリで我慢していたのかも知れない。

「言わない?」
彷徨の手に力が入った。

暫らく未夢は黙りこんでいたが、不意に顔を下に向けたまま、彷徨の首にスルリと両腕を廻した。

「え?」と驚く彷徨の唇に、素早くキスを落とした。
硬直して呆然としている彷徨に、赤くなった顔を隠すように俯いたまま呟く。

「…これじゃ…駄目?」

恥ずかしそうに俯く未夢の背中に腕を廻して、彷徨はゆっくりとベッドに押し倒した。
「未夢…」
彷徨の首に腕を廻したまま、未夢は真っ赤な顔をして彷徨を見上げた。
互いに瞳を合わせて、暫し見詰め合う。
そして、そっと瞼を閉じる。


(好き…)


ギシッ…とベッドが軋む。
彷徨が徐々に近付いてくるのを感じて、未夢は更に廻している腕に力を込めた。

「未夢……」





突如。
ガラッ!と豪快な音がしたかと思うと、甲高く大きな声が保健室に響き渡った。

「いけませぇーーーーんっっっ!!!」

「「うわぁっ!!」」

二人はビックリしてベッドがら跳び上がると、その上で慌てて正座した。
扉の入り口で腰に手を当てて仁王立ちしているのは、養護教師の長谷川だった。
学校をグルリと廻って帰って来たのであった。
頬をぷくぅ〜と膨らませ、二人を睨む。
その表情はどう見ても、先生とは見えないあどけさだ。

「もう西遠寺くんっ!生徒のケジメは忘れないでって言ったでしょっ?!」
「スミマセン…つい…」
「か、彷徨っ…!」

未夢は長谷川と同じように頬を真っ赤にして睨み、彷徨の腕をぎゅっと抓った。
彷徨もお返しにと肘で未夢の腕を突付く。

「痛っ!何すんだよっ!」
「なによっ!その『つい』ってのはっ!」
「しょーがねーだろ?本当のことなんだから」
「彷徨、デリカシーなさ過ぎっ!少しは女の子の気持ち考えなさいよねっ!」
「お前だって乗り気だったじゃん」
「んなっ!!彷徨ぁーーーっっ!!」

怒りが徐々にエスカレートして、次第に声も大きくなっていく。
「はいはい」と手を叩き、楽しげな表情で長谷川が止める。

「痴話ゲンカは外でしましょうねぇ〜」
「「痴話ゲンカじゃありませんっ!!」」

未夢と彷徨が一緒になって声を上げた。
「ふふ。やっぱり貴方たちって仲良しさんなのねぇ〜」と長谷川はニコニコ笑う。
そして未夢の前に近寄ると、そっとオデコに手を当てた。
「もう、大丈夫よね?」
と、小さくウインクした長谷川に未夢はコクンと頷き、にっこりと幸せそうに微笑んだ。

「…はい」





***

暫らくして。
制服に着替えた未夢と廊下で待っていた彷徨は、長谷川に一礼して保健室を後にした。
まだ少し熱のある未夢に気遣って、彷徨は二つの鞄を脇に抱えて歩く。
バックは未夢が「それだけでも持たせて」と粘ったのだった。

一日中開催されていた球技大会が終って、皆ボロボロに疲れているとはいえ、クラブ活動には関係ないようだ。
各教室や廊下では大勢の生徒達の姿が見える。

その時、未夢ははっと目を開けた。
ある教室の廊下で、数名の女子生徒が集まっているのが見えたのだ。
その中にはあのサッカー場で彷徨に声援を送っていた生徒達の姿もあった。
未夢は歩くスピードを落として、彷徨の後ろに回り込んだ。

「ん?どうした?」
隣にいた未夢が急に後ろに下がったので、不思議に思った彷徨は同時に足をも止めた。

「気分が悪くなったか?」
「ううん…そうじゃないの。大丈夫だから、このまま行って?」
「……?」

彷徨は少し俯き加減な未夢を見て、そして周りを見渡した。
廊下では相変わらず生徒達の声が聞こえている。

彷徨は未夢の頭に、コンコンと2度指で軽く小突いた。
「?」
怪訝そうに彷徨を見上げると、彷徨はニッコリと笑って「行こう」と、未夢の右手を掴んだ。

「え?ちょっ…ちょっと待って!彷徨っ!彷徨ってばっ!」

小さな声で必死になって呼び止める未夢を無視して、彷徨はズンズンと歩き続けた。
未夢のほっそりとした指に、しっかりとした長い指を絡ませ、逃げないようぎゅっと握り締める。
手の平の温かさと力強さに、未夢は狼狽しながらも、彷徨の隣で俯きながら歩いた。


(恥ずかしいよぉーっ!なに考えてんのよ、人前で手を繋ぐなんて…)


チラリと彷徨を見ると、彷徨は真っ直ぐ前を見ていた。
その横顔に、真摯な瞳に、未夢の心はキュンと高鳴った。

いつだってぶっきらぼうな態度で、時にはからかって悪戯っぽく笑う癖に。
こんな時に限って真剣で、優しい…。

未夢は手に力を込めた。
見下ろした彷徨に、小さく頷くとニッコリと微笑む。
彷徨も目を細めて、頷いた。


(もう、大丈夫)


未夢は彷徨と一緒に並んで、真っ直ぐ先を見つめ歩いた。
堂々と女子生徒達の前を通り過ぎる。
一瞬、どよめきにも似た声が聞こえてきたが、二人は気にせずに歩き続けた。
廊下の角を曲がった途端、緊張していたせいか未夢は「ふぅ…」と大きく溜息をついた。
それでもどこか安堵したような、気持ち良さを感じていた。


(もう、悩んだりしない)


この手の温もりも握られる強さも、優しい眼差しも笑顔も、全て自分のものだ。
彷徨が側にいる。
それだけで、勇気が湧き上がってくる。
きっとこれからも、彷徨が側にいるかぎり、この想いは変わらないだろう。

窓から流れ込んでくるのは、優しげな金木犀の香り。
柔らかな夕映えが廊下の白い壁をオレンジ色に染めている。
チラチラと風で舞い落ちる金木犀の花が、地面の上で空と同じオレンジ色の絨毯を広げていた。

繋ぐ彷徨の手を、未夢は軽く振る。

「ねえ、彷徨」
「ん?」
「…このまま…こうやって、帰らない?」

真っ直ぐ彷徨を見つめる未夢に、彷徨は少し驚いた様子だったが、やがて彷徨らしい苦笑いした笑顔を見せた。

「しょーがねーからな」

返事と一緒に、彷徨も繋ぐ未夢の手を優しく振った。


少し寂しげな秋の夕暮の中。
幸せな気分を噛み締めながら、未夢は彷徨の隣でゆっくりと歩いた。

西遠寺へと向かう道には、二つの長い影法師が、二人の後ろで楽しげに揺れていた。







END



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