作:杏
履き潰した靴は、カナタが足を動かす度に石の階段にペタペタと貼り付くような音を立てている。
背中から、暗い奥に向かって風が抜ける。古い造りだが、ちゃんと通気口はあるらしい。
行く先と背後に注意を払いつつ、カナタは慎重に階段を下りる。
長い階段の先、小さな裸電球がひとつ揺れている小部屋に出た。
地下牢と言っても、鍵のかかる強固な鉄格子がある訳でもない。この部屋にあるのは、食事用の小さな台ひとつ。
そこに伏せって泣いていたのが、メイドの言う“あの子”。
(…やっぱり……)
『来た日の夜に呼ばれたあの子は…大丈夫、と笑っていたんです。 …でも、解放されたときには、光のない目をしていた…。
領主様は気に入ってしまったようで、昼はここに閉じ込めて、夜には毎晩、側近が連れに来るんです。
私が食事を持ってきた時はあの子いつも、泣いていました…』
間違いなく、あの時に見た金の髪の少女だった。
少女のすすり泣く声が、部屋中に響いている。カナタが来たことにも、気付いていない。
カナタの方も、暫く言葉なく立ち尽くしていた。
何分そうしていただろうか。
ガランと大きな音を立てて、カナタの手から剣が滑り落ちた。
少女がビクリと反応し、ゆっくりと此方を見る。濡れた瞳とぶつかる。
剣を持っていた左手が痺れていた事には、暫く経ってから気が付いた。
「……っ!」
「…安心しろ、反乱軍だ」
カチャカチャと耳に衝く小さな金属音は少女の手枷と、そこから壁に延びる鎖。泣き腫らした瞳は怯え切っていて、震える身体がその不快な音をさせている。
「お前を殺そうとか、傷付けようだなんて思っていない」
己の来た、唯一の出入口を気にしながら、そっと近付き、まだ怯えている少女に目線を合わせた。
「言葉はわかるか?」
いつもチビたちにするように、笑ってみせる。少女が小さく、頷いた。
「助けてやる。 カギはどこかわか……誰か来る…!」
コツン、コツン、とゆっくり下りて来る靴音。少女はその音を知っていた。逃げられる限り、後ろへ下がる。
高く響く靴音と少女の反応。残念ながら、仲間ではなさそうだ。
カナタは拾い上げた剣を両手で構える。
「カギはここだ…」
一番強いと睨んでいた側近の片割れ。少女を連れ出す役を担っていたその人物がやはり、鍵を持っていた。
鍵を持って来てくれたのは好都合だが、勝てる見込みなどない。
「…側近のお出ましか。 大事な領主サマほっといていーのか?」
「アンサダーグ様はその娘を大層気に入っておられる。 屋敷は燃えても、その娘、は…死なせるなと」
「させるか…!」
「! お前…そう、か…英雄の、子か…」
「……?」
男の脇腹には赤黒く血が滲んでいる。薄暗い部屋でも、それが徐々に広がっていることはわかった。
(…手負いか! もしかしたら……!)
一か八か、カナタは飛び出した。剣術では勝てない。重い剣に振り回されるだけだ。
腰を落とし、その傷目掛けて、大きく横に一振り。
剣は避けられたが、飛び退いた男の身体がグラリ、大きく揺れた。
(いけるか…!?)
「ちィ…! ガキの癖に…!」
「!? 速い…!」
間一髪で直撃はかわしたが、痛みを感じた右腕に赤い線が入っていた。ツーッと血が落ちる。
「…!」
少女が目を見開いた。
「見事だ…流石、英雄の子…。 だが、知ってる、か…? …そんな細く浅い傷でも、その重い剣を扱うには―――…」
「―――カナ兄!」
出入口から風に乗った何かがヒュッと飛んできて、カナタの背後の壁に刺さった。
「何だ!?」
「サンキュールクト! お前連れてきてよかったよ!」
剣を放り投げて、壁に刺さったナイフと手にする。それは小さな果物ナイフ。
「…悪いけど、俺こっちの方が得意なんだよな」
カナタがいつになく楽しそうに笑った。その目は男ではなく、その先の勝利を見ている。
「…そんなもので、この剣に敵うと…!」
ドォォォォン!
階段の上で、爆発音。男が其方を向いた一瞬の隙に、カナタが男の懐へ入った。
「なに…!?」
腹のあたりでドッと鈍い音がして、直後、男は床に倒れ込んだ。
「…殺しはしねーよ。 その代わり、カギは貰う」
奪った鍵を持って、カナタは少女に近付く。
「……これ、持ってろ」
少女の手に握らせたのは、さっきの果物ナイフ。その刃は使い込んであるが、一滴の血も付いていない。
「…俺が危ない奴だと思ったら、それで刺せばいい。 …よし、外れた」
解放されたその手首には痛々しい痣の枷が出来ていた。外した手錠を、カナタは倒れている男にかける。
「時間がない、出るぞ!」
カナタは立ち上がり、座り込んだままの少女に、手を伸ばした。
その手に、ギュッと目を瞑って身を固くする少女。
「…外で仲間が待ってる。 仲間って言っても、ガキばっかだけどな。 一緒に来ないか?」
もう一度しゃがみ込んで、少女の目線より下から手を差し出す。
暫くその手を眺めていた少女は、そっと頷いて、その細い手を重ねた。