作:杏
「か、関西弁…」
「……母さんの大学時代の友達なんだけど、関西の人で…」
「日本人、よね?」
「あぁ、旦那さんが向こうの人で、アレックスはハーフ。
一緒に帰ってきてたんだけど、おばさんは実家に行ってたんだって」
「…へぇ……」
「……ごめんな、遅くなって。 おばさんの着くタイミング計ってたら…」
「…え、あ……うん…」
昼間のうちにおばさんから連絡があったから、たまたま先に手を打てたんだけど。
念のためと考えただけで、アイツが本当に手を出すとは思わなかった。
まだ半ば放心状態の未夢は後ろ手を畳についたまま。目のやり場に困って、着ていた上着を未夢の膝に放った。
「大丈夫か?」
「……うん、平気」
俺は頬に触れようとした手を慌てて引っこめた。薄く笑顔をつくった未夢の目が、ほんの僅かに身構えたから。
「彷徨?」
不安そうに伸ばしてきた手を、さりげなく避けた。目線も逸らした。抱き締めたいと伸びようとする手を、拳を握りしめて制した。
「…風呂、先に行ってこいよ」
「え、でも、彷徨……」
「今日だけは長風呂待っててやるよ。 それとも、一緒に入るか?」
「――――! ば、ばかっ!」
こう言えば、未夢は俺の前から去ってくれる。わかっていて、いつもの茶化すトーンで舌を出す。
そうして胸のうちで必死に押し止めていたのは、今までも隠してきた衝動。
パタパタと縁側を遠ざかる足音。
それとともにひいていくはずの男としての熱は一向に静まる気配を見せず、いつもなら待ちくたびれる未夢の長風呂に助けられた。
◇◇◇
「……未夢?」
深夜2時をまわった頃。
未夢が叩く直前の襖に、俺は声をかけた。3時間ほど前に、おやすみとそれぞれの自室に戻り、まだ眠れそうにない俺は小説を読んでいた。
「どーした?」
「…うん」
襖を開けると、一瞬驚いた顔をして、すぐに俯いた。部屋に入るでもなく、そこに立ったまま。
遅くとも日が変わる頃には眠っているらしい未夢が、こんな時間に起きていることは珍しいことだった。
「眠れないのか?」
「ちょっとだけ…ここに居ていい? 本読む邪魔はしないから」
小さく頷いた未夢を、部屋に招き入れる。
普段ならきっと、そこで読書は中断するんだろう。こんなことはなかったから、絶対とも言えないけど。
今。よりによって、今日。
…いや、未夢に言わせれば、だから来たのだろうけど。
未夢の言葉どおり、俺は本を開き直した。自分でも最低なことをやっていると思いながら、…でも、何を言っていいのかわからない。
本に目を向けながら、全意識は斜め後ろに腰を下ろした未夢に集中する。静かすぎる部屋には、互いの息遣いと時計の秒針と、時折俺が本の頁を捲る音。
俺の心音まで未夢に届きそうな静寂。
「…あ、あのね、彷徨……」
「…うん?」
沈黙を破ったのは未夢の方だった。努めて何でもないように、俺は頭に入らない文字の羅列から顔を上げる。
「………アレックスがね、言ってたの。 …彷徨の一番大事なもの、彷徨がまだ知らないものを、今度はボクが先に手に入れるんだって…」
(あ、あいつ―――…!)
躊躇いながら、先刻の出来事を告げた未夢。その意味をちゃんと解っているらしく、ちらりと盗み見た頬は赤く染まっていた。
「させねーよ、そんなこ……――――――おいっ!?」
速めの脈が一層大きくはねた。背中に柔らかい未夢の体温。首の後ろにかかる吐息。
胸の前に遠慮がちに出てきた細い手が、小さく服を握る。
「うん……だから、…ね?
もうそんな風に言われないように、……彷徨のものに…して……?」
服を掴んだ手にぎゅっと力が入れられた。振り返ることが出来なかったのは、そのせいじゃないけど。
未夢の顔を目にしたら、きっと止められない。ようやく小説を閉じた手で、僅かに震える未夢の手を包んだ。
「…俺、は……」
その先の言葉を、すぐには継げなかった。
目の前の模様も飾り気もない壁を眺めながら、これ以上抑えきれない衝動とこれまで培った強靭な理性が俺の中で闘っていた。