作:杏
「あ、おっはよー彷徨!」
彷徨が身支度を整えて再び台所に戻った頃には、未夢しか居なかった。
遅い朝食を終えて、洗い物をしていた未夢が、振り返って泡のついた手をひらひらさせる。
「はよ…オヤジは?」
「ナントカって会合があるから〜って出掛けてったよぉ〜。 遅くなるから夕飯は先に食べていいぞ〜って」
「ナントカって…まぁいいけど…」
冷蔵庫から牛乳を出し、そのまま口をつけようとしていた彷徨に、はいっとグラスが渡される。
「そのまま飲まないでって前から言ってるでしょ?」
「………」
しぶしぶグラスを受け取って、牛乳を注ぐ。
(オヤジとふたりなら、気にしないのになぁー…)
口から出かけた言葉を噛み殺す。些細な不便さより、ここに未夢が居ることを嬉しく思うから。
「彷徨っ、朝ご飯は? パンでも焼こうか?」
「真っ黒じゃないなら」
「トースターくらい使えますぅ! それに、家では頑張って作ってるんだから!」
トースターのタイマーを回す未夢、食器棚から皿を出す彷徨。
「へぇー…じゃあ夕飯はお手並み拝見、だなぁ?」
「やってやろーじゃないっ! メニューはっ?」
「決まってんだろ?」
せーの、と音無き掛け声が二人の息を揃える。
「「かぼちゃ」」
間合いもトーンも、仕草も一緒。互いに、右手の人差し指を立てて。
「わかってんじゃん」
「とーぜんっ」
得意げに眉を上げる未夢に、口元だけで笑う彷徨に、二人で、声をあげて笑った。
―――プルルルル、プルルルル…
「あ、電話…」
音の方に目をやれば、着信を知らせて光るディスプレイ。
彷徨が動かないでいれば、未夢がさも当然に受話器をとって、「はい、西遠寺ですぅ〜」と他所行きの声。
(…なんか、やな予感…)
不意に、電話の相手と話しながら勢いよく振り返った。未夢を眺めていた彷徨が、驚いて「俺はいないぞ」と首を振る。
三太なら、その声は絶対聞こえているし、未夢の声も普段通りに戻るはず。それ以外でわざわざ日曜に電話してくる友人なんて居ない。
となれば、これは十中八九、“休日出勤”の要請。
その意が伝わっているのかいないのか、彷徨に返事を返すことなく慌てた表情で未夢が指差したのは、トースター。
「…やべっ」
すでに香ばしいを通り越して、黒っぽい匂いがほのかに香る。顔を出したパンは、余熱で見事に真っ黒。
「…ちょっとお待ちくださぁい」
後ろから、保留のメロディーが流れる子機が突きつけられた。
「……だから、俺はいないって」
「そんなこと言われても、なんか大変そうなんだもん」
「つーか、なんで日曜に学校にいるんだよ…。 はい…」
(学校…?)
黒焦げのパンを出しながら、電話に出た彷徨。皿にのせたので、食べるんだ、と未夢はバターを塗る。
(何かのせるものあるかなぁ〜)
冷蔵庫をあさりながら、彷徨の会話も耳に入れる。行くとか行かないとか。
(居留守使うほど、行きたくないんだ? まぁせっかくの日曜日だもんね〜。 でも、電話の人は学校にいるわけだし…)
「あっ! いーものみっけ!」
案の上、電話は生徒会仲間からの呼び出し。
(なんだって未夢がいる今日に限って…)
「今日は無理だって! 俺はオフ! 行かねーよ!」
『そんなぁ〜会長いないと終わりそうにないんですよぉ〜〜〜』
「明日でいーだろ、あした、で…」
トントンと肩をつつかれた。振り返って、未夢になに?と目で訊ねると、差しだされた皿。
真っ黒のトーストの上に、ケチャップで『いっておいでよ』。
「…なんだよ、これは…」
通話口を塞いで訊けば、「ん? トースト」とあっけらかんとした返事。
『お願いしますよぉ〜会長〜〜〜』
耳には情けない仲間の声。
「……わかったよ、行くよ」
『あ、ありがとうございますっ!』
彷徨の負け。その返事に、そばで聴いていた未夢も嬉しそうに笑う。
「その代わり、明日は出ないからなっ!」
『は、はい〜〜〜っ!』
ただ、お人よしで言ってるのか、それともここで過ごす時間、自分がいなくてもなんとも思わないのか。
前者であることを願いながら、彷徨は大きなため息。
「…着替えてくる」
「うん。 って、えっ、トーストは!?」
「黒焦げだけならまだしも、そんなケチャップまみれにしたのを誰が食うんだよっ!」
「はは、ですなぁ〜…」
たっぷりのケチャップで書かれたひらがな7文字は、トーストをほぼ覆い尽くしている。
未夢の失敗作は今までほぼ食べてきたけれど、これはさすがに…。
「…余分なケチャップ、落としといて」
「え、あっ、うんっ!」
捨てるのは勿体ないから。トーストも、未夢の厚意も。