作:杏
「――――彷徨っ!」
未夢がそう叫んで駆け出したのは、玄関の戸が閉まる音を聞いてからだった。
「待って」と叫んでいるのに、その名を呼んでいるのに、声が出ない。
靴を履くこともせずに飛び出して、見下ろした石段は真っ暗。走り去る人影を見つけることは出来なかった。
「未夢ちゃん! ど、どうしたんじゃ!」
「…おじさま……。 彷徨が…かなたが、……っ、あたしのせい、で…」
騒がしさに気付いた宝晶が、傘を片手に未夢の元へ駆けつけた。パジャマ姿の未夢が雨に打たれて震えている。足元は裸足。
雨音に紛れた小さな声は、彷徨が帰ってきたらしいことを告げるが、未夢の目線は、そのまままた出て行ったことを示していた。
「とっとにかく、風呂に入り直しなさい! このままじゃ風邪をひくぞい!
なに、あれなら男じゃ、心配ない! 放っておいても、じきに帰ってくる!」
促されるまま、ふらりと玄関に足を進める未夢から、返事はない。
未夢と言葉を交わすことなく、彷徨は玄関へ戻った。
彷徨がいつからそこに居たのかはわからない。けれどきっと、聞かれてしまったんだろう。そして、背を向けられた。
それは、…そういうこと。
「受験、しなくてよくなっちゃった…」
静かな浴室、外の雨音が響く。未夢の寂しい呟きも、響く。
身体は温まっているのに、心が凍りつくようにかじかんでいる。
黒い空から真っ直ぐにうち付ける雨は、未夢の心のよう。
なぜだか瞳から流れることをしない涙を、胸の奥で流していた。彼にとっては不要な想いを刺していた。
「…やっぱり、帰ればよかった……」
◇◇◇
翌日早朝。
台所に宝晶宛の起き手紙を残して、未夢は西遠寺をあとにした。
宝晶が用意してくれた彷徨のスウェットに、袖を通すことなんて出来るはずもなく。
持ってきていた自分の服に身を包んで布団に入ったけれど、一睡も出来なかった。
明け方までずっと彷徨のことを考えていて。それからふと、気がついた。
泣いていないこと。
あの留守電ではあんなに泣いたのに。それよりも、強烈な出来事だったはずなのに。
あのときほど、思っていないのだろうか。“好き”が小さくなってしまったのだろうか。
涙も出ないその現実に、未夢は悲しい笑みを浮かべた。