作:杏
「あ、もしもし、おじさま? 未夢です。 彷徨、帰ってますか?」
のぞみに彷徨が会いに来てくれていたことを聞いた未夢は、家に帰ってずっと、進まない時計の針と睨みあっていた。
こんなときの時計はすごく意地悪。秒針のリズムは遅く、何度見上げても針は僅かにしか動いていない。学校へ行く前なんかは、この3倍速で働いているのではないかと思う。
何十回と睨み上げては、まだ早いかな、と呟く。これでもかと。待って待って、ひたすらに待って、彷徨が家に着いたであろう頃を見計らって、電話をとった。
夏には何度も押し直したボタンが、今回はすんなりと指が進む。呼び出し音を聞きながら、高鳴る心臓の音は変わらない。
『いやぁ、まだ帰っとらんが…』
「そうですか…」
『帰ったら電話させるから、待ってやってもらえんかの?』
「…いえ、またかけますね」
「もう少し、かかるかな…?」
また、時計との睨めっこが始まる。
『すまんのう、さっき電話があって、友達と夕飯を食べて来るって言うてなぁ…』
「そう、ですか…。 また、明日かけますね。 すいません、何度も。 おやすみなさい…」
もうすぐ21時。宝晶が言った、“友達”というフレーズがひっかかる。宝晶が知らない相手だから彷徨がそう言ったのか、未夢が知らないだろうから宝晶がそう濁したのか。
三太でないことは、確か。他に友人がいない訳ではないけど、一緒に食事にいくような友達なんて思い浮かばない。
「外食なんて珍しいな、しかも……急に、なんて……」
「へへ、ダメだなぁ……。 …お風呂、入ってこよっと」
こんなときは長風呂に限るよね、なんて自分自身に言い訳をするように。
2時間後、留守電に残されたメッセージ。昨日聞いたばかりの懐かしい声を未夢は何度も再生しながら、理由のわからない涙をこぼした。
『未夢? ごめん、電話くれたのに…。 また電話する。 …おやすみ』
玄関の戸を開けるなり、仁王立ちで待ち構えていた宝晶が彷徨に子機を突きつけた。未夢が何度も電話をくれたから、今すぐに電話しろと。
怒っているような自分が焦っているような、無駄に目に力を込めた真剣な表情の中に、からかうようなほんの少しの含み笑い。
誰と一緒だったんじゃあ?女の子か?などと食事の相手を勘繰りながらも、早くと電話を押しつける。
未夢を気に入っていたのかと思えば、このクソオヤジは一体何がしたいんだろうか。実に愉しそうな父親を一瞥して無言で電話を奪うと、ボタンを押しながら自室に向かう。
『留守番電話ニ 接続シマス―――』
未夢が電話をしてくるかもしれないとは、思っていた。…そうして欲しいと、願っていた。
そう思いながらも、乗り換えの駅のホームでアキラと会い、誘われるがままに食事に行ってしまっていた。
遅かったんだね、何してたの?なんて、言われようものなら。別段悪いことはしていないのだけど、何故か言いづらい。
そこまで行きながら、会わずに帰った理由も、今は言葉に出来ない。
明日は学校がある。丸一日ほどの猶予を与えてくれた機械の音声に、正直ホッとしていた。
けれど。
たった一日では、その言い訳も理由も組み立てられず、“また”の機会を逃してしまうとは、そのとき彷徨は思いもしなかった。