作:山稜
「望っ!」
彷徨は叫んでいた。
次の瞬間、望は倒れていた。意識がない。
「おまっ…」彷徨はふるえていた。「もういいかげん、こういうことやめろよ!」
言われた相手は青ざめていた。どうしていいかわからず、その場に座り込んでしまった。
とうとうやってしまった―…そして、決定的に嫌われた。
クリスは泣くしかなかった。
いい勝負だったのだ。
彷徨が先攻で、左隅にシュートを放つ。望は瞬時に反応して、それを止める。
後攻の望は右上を狙った。彷徨はそれを読み取って、弾き飛ばす。
相手の心が読めるかのように、ふたりとも1点も取らせなかった。
教室からグラウンドを眺めていた未夢は、うらやましかった。
わたしより付き合いの短い光ヶ丘くんですら、彷徨のことがよくわかっているんだ―…。
しかし次に未夢が目にしたのは、そのゴールポストを高々と振り上げるクリスの姿。
止めに入った望。
その望の上に、ゴールポストが襲いかかった―
彷徨の声は、離れているここでも聞こえるぐらいだった。
未夢は急いで教室を出た。
「三太、手を貸してくれ」
彷徨はクリスの方をひと目、見はしたが、とりあえず望を保健室へ連れて行くことを優先した。
クリスはもう、どうしていいかわからなかった。
自分の手で、人を傷つけてしまった―…あの時と同じだ。
「クリスちゃん…」
声をかける女の子がいた。振り返ると、未夢の姿があった。
「未夢ちゃん…」
未夢の顔を見た。心配そうな目だ。
でも姿がにじんできて、よく見えなくなっていく。
「わたくし、わたくし…」
未夢はクリスの傍らに座り込んで肩を抱いた。
「きっと大丈夫だよ―…」としか、言えなかった。
「そうじゃありませんの、わたくし、わたくし、―…西遠寺くんに、西遠寺くんに―…」
どうしようもなかった。未夢は、そっとクリスの肩を抱いているしかなかった。
◇
午後の授業は何も頭に入らなかった。
自分がやってしまったこと―大切な友達を傷つけてしまったこと、そして憧れの人から言われてしまった言葉…。
望の顔が目の前に浮かぶ。
≪美しい薔薇は、美しい女性にのみ与えられるものだよ…さぁ、花小町さん≫
どうしてこうなってしまったのだろうか。
≪いいかげん、こういうことやめろよ!≫
なぜ、自分はこんなにも普通でいられないのだろうか…。
ちょうど授業も終わった。
教室では、周りの目が痛い。
憧れの人は、いつもにもまして自分に関心を向けないようにしている気がする。
いたたまれなくなった。
風に当たりたい―
のぼせてしまった頭を冷やそうと、クリスは屋上に向かった。
雨燕が、南の空へ飛んでいく。
自分も鳥になって、飛んでいってしまいたい…。
鳥達を追いかけてフェンスに近づいたそのとき、後ろから強く抱きとめられた。
「クリスちゃん、早まっちゃだめ!」
未夢だ。
「たまたまだったんだよ、事故だったんだよ!光ヶ丘くんだってきっと大丈夫だよ!彷徨だってきっと―」
クリスは自分に巻きついている、未夢の腕に触れた。
あたたかかった。
「未夢ちゃん…」
涙がこぼれた。
◇
「ごめんね、でもクリスちゃんにもしものことがあったら」
フェンスの手前で、未夢はクリスと並んで立った。
「うぅん、気になさらないで」クリスは落ち着いていた。そして、南の空を見上げて言った。「こんなに心配してくださるなんて―…ごめんなさい、軽率でしたわ」
「そんなことないよ、わたしがいつもの早とちりをしちゃっただけなんだから」未夢はあわてた。早とちりはいつものことではあるが、あまりにも勘違いが過ぎたように思って、はずかしかった。
「未夢ちゃん―聞いてくださる?」
「…うん」真剣な眼差し、切羽詰った声色。聞かずには、いられなかった。
「以前にもお話しましたけど、わたくし、髪の色が赤いってことでいじめられたことがありましたの」
「うん…おぼえてる」それでルゥの気持ちがわかる、と言ってくれたのだから、未夢には忘れようがなかった。
「でも、そのときにはわたくし、だまっているしかなかった―
だって、そのことを父や母に話そうとしても、なかなか会えなかったんですから。
忙しく世界を走り回っている両親は、帰ってくるとこう申しましたの。
『クリス、友達と仲良くしているか?』
父母に心配をかけるのは嫌でしたから、そう尋ねられても『はい』としか答えることはできなかった…。
そんなわたくしの遊び相手は、小さな赤ちゃんの格好をしたお人形でしたの。
自分の弟か妹かのように可愛がりましたわ。
自分だったら、両親にこうして欲しい、ああして欲しいと思うことを、お人形に言わせながら、わたくしは想像の世界でだけ自由になることができたから…。
でも、想像の世界と現実の世界は全然違う。
わたくしのクラスメートは、わたくしに嫌がらせをするようになって…。
あるとき、暗い顔をしたわたくしを執事のひとりが見かねて、とある病院に連れて行ってくれたんですの。そこで、お医者様はわたくしに、こう言いましたわ…『やられっぱなしでなくて、やり返しなさい』と。
思い切って次の日、わたくしはクラスメートに言いましたわ。『もう、やめて』と。でも、聞いてはもらえなかった。どうして、という気持ちと、思い通りになってくれない悲しさとが入り混じって―…気がついたら、クラスの何人かは倒れていて、みんながわたくしの方を、おびえた目で見ていて…。
次の日から、クラスのみんなは優しくなりましたわ。でも、何か違って…。
それはそうですわね、本当に優しくしたいのではなくて、怖いだけなんですもの。
わたくしはやっぱり悲しかった…自分にそんな恐ろしい部分があることが、悲しくて…。
ですからわたくし、そういう部分を自分から無くしてしまいたくて、それ以後はゆったりと過ごす訓練をしたんですの…でも、やはり…本当のお友達と思えるお友達は、できなくて…」
未夢は泣いていた。
自分は両親が忙しくても、かまってもらえなくても、それで悲しくても…怒ることもできたし、泣くこともできた。
でもクリスは、あまりにも優しいがゆえに、両親にすら甘えることができなかったんだ。そのために、自分自身を追い詰めて―…。
「あんまりだよぉ」
未夢は泣いた。
「クリスちゃんひとり、そんなのってあんまりだよぉ」
「未夢ちゃん…」
かつて自分のために、こんなにも泣いてくれた人がいただろうか?
クリスは涙がこぼれてきた。
「未夢ちゃん、ありがとう…」
そこから先は、言葉にならなかった。
やがてクリスは再び、口を開き始めた。
「わたくし、本当にうれしかったんですのよ…
未夢ちゃんが転校していらっしゃってから、何でも聞いてもらえて…
あの西遠寺くんと一緒に暮らしてらっしゃるのは、正直言って嫉妬しましたけど、でもそんなことより、心を許してもいいお友達が初めてできたと思いましたの…未夢ちゃんだから、こんなことも話せるのかもしれませんわね」
ようやくクリスは少し微笑んだ。そして続けた。
「未夢ちゃんって、本当にうらやましいわ…心の底から優しくって、屈託がなくて、素直で…わたくしなんかとは大違いなんですもの」
「…でもおっちょこちょいだし、お料理へたくそだし、それに―」
未夢は顔を曇らせた。
「素直じゃないよ、わたしっ」
「うぅん、そんなことありませんわ」
うつむきながら、クリスは穏やかに言葉を続けた。
「未夢ちゃんって、本当に大切なひとには大切にまごころで接してらっしゃるもの…そういうところを、ルゥくんは感じ取ったのでしょうね…そして、西遠寺くんも―…」
はじけるように、クリスは未夢に向き直った。
「未夢ちゃん、西遠寺くんのこと、…好きだと思ってらっしゃるのでしょ」
未夢は心臓が飛び出るかと思った。次の瞬間、胸の中から血という血がなくなっていくかと思った。胸が痛かった。
「でも、彷徨がどう思ってるか、ぜんぜんわからなくて―…」
クリスはさらに続けた。「未夢ちゃんは西遠寺くんが好きではありませんの?」
いつもなら、彷徨のことを、という話をしようものなら、クリスは手を付けられないほどあばれるのがわかっていた。でも、今は―
「ごめんクリスちゃん、わたしやっぱり、彷徨のことが―好きなの」
未夢は座り込んでいた。泣いた。
なぜ、こんなにも大切な友達と、同じ人を好きになってしまったんだろう―こんなにすてきな女の子と、同じ人を好きになってしまったんだろう?
自分の気持ちに、悔しくて泣いた。
クリスは落ち着いていた。未夢のかたわらに、座り込んでいた。
「ごめんなさい未夢ちゃん、わたくしにも気を遣っていただいていたのでしょ…
わたくし、おふたりの様子をずっと見ておりましたのよ。
西遠寺くんは未夢ちゃんがいらっしゃってから、随分変わりましたもの。
以前から格好いい方でしたけど、最近の方がもっと魅力的ですわ…。
それまでは学校で笑うことなんて滅多にありませんでしたけど、最近はすごく屈託のない笑顔をされるんですもの…」
また、うつむいてしまう。
自分ではないことの悲しみに、
自分がしてきたことの罪深さに。
「未夢ちゃんの明るさと優しさに触れて、西遠寺くんも変わったのですわね…わたくしには到底、真似のできないこと―…。
わたくしなんて、さっきのように、西遠寺くんが未夢ちゃんのために闘っているっていうだけで…あんなことをしでかしてしまうような…」
クリスは大きくため息をついて、顔を上げた。そして未夢に向かって微笑んだ。。
「気がついてらっしゃらないかもしれませんけど、未夢ちゃん、西遠寺くんは未夢ちゃんのほうを見るときだけ、目つきが変わりますのよ。何と言うか、大切なものを見る目つきをされるんですの」
未夢は信じられなかった。
今朝もあんなに冷たくされたところだったのに、そんな目で自分を見てくれていたなんて―…。
「未夢ちゃんと西遠寺くんの間に割り込むことなんて、もうかないませんわ―…それはもう、随分前からわかっていたことなんですけれども、なかなかあきらめがつかなくて…」
クリスはまた、少し涙ぐんでいた。しかし、その涙を振り払った。
「でも、今日のことであきらめられましたわ。わたくし、もう西遠寺くんにまとわりつくのはやめにします」
未夢は何と言っていいかわからなかった。突然のことに、意外なことに、ただ呆然と立ち尽くしていた。
ようやく出た「でも、クリスちゃん―」の言葉も、クリスに止められた。
「もういいんですの、それ以上おっしゃらないで。―かえって、つらくなるから…」
クリスはそう言うと、未夢に抱きついた。
肌寒くなりつつある季節の中、クリスの体温と、次に出た言葉が、未夢の涙を誘った。
「それでも、こんなわたくしでも、未夢ちゃん、わたくしの―お友達でいてくださる?」
未夢は思い切り泣いた。泣きながら、何度もうなずいた。
受け入れられたと知って、クリスも思い切り泣いた。
南の空へ、雨燕がまた、渡っていった。