作:山稜
玄関先で、ふと息をついた。
彷徨の声がした。
「ふぅん、絶対ないんだ」
「なにが?」未夢は反射的に聞いた。
あえて彷徨は言葉を短く抑えた。「ふたりっきり」
その瞬間、未夢の頭には先ほどのクリスの言葉が浮かんできた。
≪そうね、これからはふたりっきりだもんね、彷徨…≫
そうだった。
もうすぐこの生活が終わるとはいえ、あと何日かは彷徨とふたりぐらしなのだ。
それに気がついたとたん、急に手足の先まで血液が早く回っていくのを感じた。
つい今しがた、目の前の、一番気になっている人は、星空の中でこう言った。
≪おれが先にゆーよ…好きだよ≫
その言葉から、まだあまり何も話せなかった―そんなに時間が経っていないということよりも、思いがけないことと恥ずかしいのと…あと、何だろう?
とにかく、何を話せばいいのか判らなくなってしまったのだ。
ふたりっきり…
その言葉が浮かぶたび、胸の中で心臓があばれる…
「未夢」
すぐ後ろから不意に声をかけられて、その心臓の中に血液がなくなるかと思えた。
「なっなっなっなに?」
たぶん自分の顔は真っ赤だろう。その上、慌ててしまって何をどう返事したものかすら判らなくなっている自分が、さらに恥ずかしい。
もうすぐ宝晶おじさんも、私のママとパパも帰ってきて…
そしてわたしは、ママとパパのところに帰らなければいけない。
でも、ほんのしばらくは、彷徨とふたりぐらしだ。
彷徨はふたりっきりなこと、どう思ってるんだろ。
ふたりっきりだと、どうなっちゃうんだろ。
このまま、この人としばらくふたりぐらしなんかしていたら、心臓が破裂しちゃうかも…
そんなことを考えている未夢には、彷徨のしれっとした言葉は鎮静剤になった。いや、別の意味で興奮剤だったかもしれない。
「テレビ、みるぞ」
…
……
………なによ、彷徨ったらいつもいつもこんな調子で…さっきあんなにドキドキさせるようなことしといて、もうこんなフツーの調子なわけ? 声かけられるたびにドキドキして、わたし、バカみたいじゃない!!!!
そんな気持ちが一言に出た。「あのねぇ、あんた」
その言葉はぶっきらぼうに返された。
「お前の母さん、シャトルに乗ってるとこの中継あるらしいけど、見ないのか?」
違った。
やっぱり、彷徨はいろいろ気をかけてくれてるんだ…
やさしくてやさしくてやさしくて、でもすごく不器用で。
怒った自分が恥ずかしくなった。「見る」とだけ言うのが、精一杯だった。
「…で、なんだよ」
「なにが?」
「『あのねぇ、あんた』の続き」
またやってしまった…わたしの勝手な早とちり―
いつもそうだ。それでそのまま素直になれなくて、いつも本当の気持ちと裏腹なことばかり言ったりしたりしてきたんだ…でも…
―もう少し、素直になりたい。
「ありがと」
素直に言葉が出た。
自分の気持ちに素直になれる…
気がつくと、安心していた。ドキドキも収まっていた。
ドキドキもいいけど、この方が、気持ちいい…
彷徨は少し微笑んだ。言い返しもせず、「はじまるぞ」とだけ言って、居間に入っていった。そんな彷徨に、未夢は心地よい胸の痛みを感じながら、後を追った。
◇
「こんばんわ、初めまして」白髪交じりのひげをたくわえた名物キャスターが、いつもの早口で挨拶をする。「…と申しますよろしくお願いします」
相手は中継のタイムラグに戸惑いながら、それでも丁寧に挨拶を返していた。
「こんばんわ、よろしくお願いします、光月です」
「あ、でてるでてる」
洗い髪をタオルで拭きながら、未夢の視線はテレビに向かった。広げていた文庫本を閉じながら、彷徨は言った。
「おばさんもホントにサービスいいよな」
「滅多にやれないようなことやらせてもらってるんだから、ちょっとぐらいサービスしないと」娘は少し誇らしげでもあった。
「時間が余りありませんので早速で失礼なんですが、あの、今回宇宙遊泳なさってますよね?これ本来予定に無かったってことなんですが、そのあたりはどうなんでしょう」
中継のタイムラグが長い。日本から、衛星でアメリカにつながって、そこからはるか軌道上のスペースシャトルへ電波が届き、さらにアメリカへ戻ってきてから衛星で日本に返されるのだ。それを実感させられる。
「”たまたま”です」
「”たまたま”?」この答えには意外だったのか、それともパフォーマンスか、キャスターはひっくり返らんばかりにのけぞった。笑いながら言った。「”たまたま”で宇宙遊泳ってできるもんなんですか」
「いや、逆にたまたまじゃないとできなかったんですよ」キャスターに合わせたのか、未来は中継のタイムラグを無視して続けた。「私の研究テーマだと、本来は自分自身が船外活動することって無いんです」
じゃ、なんで…とキャスターが割り込みかけたが、未来の言葉が続いた。
「実はシャトルのロボットアームが故障してしまいまして、その上船外活動専門のスタッフが今回は同乗してなかったんです。今回は何かのときのために、船外活動の訓練を一応うけてましたんで、思い切って行ってみようと。それでついでだから、見えたもののレポートをしようと。ほんとにたまたまなんです」
「シャトルに乗るっていうのは大変なんだね〜、そんな訓練までするんだ」
テレビの前で、改めて感心したように未夢がつぶやく。
「そりゃそうだろ、何千人何万人にひとり、ぐらいの人しか乗れないんだから」
彷徨はさらっと応えては、いた。
「そういえば、」キャスターが質問をする。「その船外活動のときに、何が見えたんですか?何だか天使だとか」聞きながら、ちょっとけげんな顔だ。
「そうそう」未来は顔を輝かせた。「センターにデータも何も残っていませんから、きっと何かを見間違えたんですけど、サンプリングが終わってさぁ何が見えるかなとレポートをはじめようとしたんですね、そうしたら目の前をかわいらしい赤ちゃんが横切ったような気がしたんですよ」時間が無いことを気にしているのか、キャスターのペースに巻き込まれたのか、未来まで早口になっている。
「赤ちゃんですか」苦笑いのキャスターは今度は前へのり出した。
ほんの少し間があいた。次の言葉はこうだった。
「きっと娘のことを思い出したんだと思います」未来は続けた。「結局ね、宇宙へ出ていくっていう滅多に無い、極限の状態に置かれたときに、人間が見るものっていうのは自分が心の中で一番大事にしてたり気になってたりするもんじゃないかなって―…改めて思いました」
「ママ…」未夢は顔を赤らめた。大きな目は少し潤んでいた。そのまま、何も言えなくなった。
少し顔をほころばせて、キャスターは言った。「もうあまり時間も残ってませんけど、じゃあ最後に娘さんに、何か一言どうぞ」
未来はほんの少し悩んで、「ありがとう」と言った。そして続けた。「ママのわがままにつき合わせてごめんね。…帰ったら娘孝行するからね、楽しみにしてます」
「お忙しい中どうもありがとうございました、ご無事のご帰還をお祈りしてます、コマーシャルを1分少々」
テレビを消す。
「…よかったな」彷徨がポンと言葉をほうりあげる。
「…うん」
今まで、母親が自分のことをそんなふうに思ってくれているとは思っていなかった。
いや、思っていなかったことも無い。ルゥを預かって、世話をして、その中で親が子供のことをどう思うか、何となく理解できたから。でも、自分のことを一番大事にしてくれている、気にかけてくれている、そんな風に母のことを考えてみたことは、あまり無かったかもしれない。
心の奥底が、暖かくなった。
沈黙を彷徨が割った。
「…でもひょっとして、あの話―ルゥか?」
「えっ」
一瞬何のことかわからなかった。
さっきの未来の話、天使のことだと気がついて、未夢はちょっと驚いた。
「ママが宇宙に出てたときって、ちょうどルゥくんを帰してた頃?」
「そうかもな」彷徨は続ける。「だとしても、今の話じゃ何も証拠は残ってないみたいだし…」
ふたりは顔を見合わせて、そして声をそろえて言った。
「ま、いっか―…」
彷徨がいたずらっぽい目で続ける。
「それにしても…」
「それにしても、なによ」意味ありげな彷徨に未夢は身構えた。
「親は立派なのに、娘は、なぁ」ぺろっと舌を出してみる。
「なによそれ、失礼ねっ」思い切り顔をしかめて対抗する。「いーだ」
それを見て一瞬笑って、彷徨は知らん顔に戻った。そして、
「まっ、いいけどな」
「何がよ」
「普通で」
「へっ?」答えによっては言い返してやろうと思ったが、想像しなかった言葉に、どう応じていいかわからない。
「普通でいいよ、お前は」
「なにそれ、ほめてんの、けなしてんの」
未夢の言葉を合図に、彷徨は腰を上げた。そして廊下に向かって歩きながら、ちらと肩越しに振り返って、顔を真っ赤にして言った。
「普通のお前がいいんだ」
それを言うのに精一杯だったのか、彷徨はすぐに廊下に出てしまって「寝る。おやすみ」と言い放ち自分の部屋へと行ってしまった。
取り残された未夢は、胸を激しく打つ鼓動に顔をうつむかせていた。
彷徨の言葉が耳を何度も通り抜けて、身動きが取れなかった。
彷徨のバカ―…。
さっき考えていたことの答えが、わかった。
思いがけないことと恥ずかしいのと…あと、うれしいのだ。
今夜も眠れないのかな…。
鷺の鳴く声がひと声、どこからか部屋に、しみてきた。