作:山稜
顔を洗いに行こうとして、居間の前を通りかかる。
優と宝晶の笑い声が聞こえた。
「まったくですなぁ」
「ホントに…いつのまにやら」
にぎやかな朝は久しぶりだ。
少しうれしい気もしたが、それよりは昨日のことのほうが気になった。
あのあと、未来は結局何も言わなかった。
一生懸命、自分がどう思ってきたか、ありていに話をした。
最後の方は自分でも何を言っているのかわからなくなって、
声を上げて泣いてしまった。
それで、かえって未来は何も言えなくなってしまったのかもしれない。
あやまろう…。
娘は母の姿を探した。
「わーっ、やめてくださいっおばさんっ!」
台所から彷徨の声がする。
駆け込んでいってみると、未来は醤油のびんを高々と持ち上げて、フライパンに向けている。
「ちょっとママっ、なにしてんのっ」
「なにって…お料理教えてもらってるんだけど?」
娘の抗議を込めた言葉も、母にはそうは届いていないらしい。
「もーママったら、おしょーゆそんな入れ方するわけないじゃないっ!」
「あら、でも適当にだぁっと、って聞いたもんだから」
「考えりゃわかるでしょ考えりゃっ!」
未夢が噛み付いたところで、未来は微笑むばかりだ。
結局、朝食は彷徨が全部作ってしまった。
◇
あやまろうと思ったのにな…。
未夢が怒ってしまったままだったので、両親とはろくに話もせずだ。
未来と優はそのまま、行ってしまった。
「さぁ、ふたりとも遅れるぞ」
宝晶にうながされて、未夢と彷徨は登校の支度を整えた。
「…オヤジ」
彷徨は宝晶の顔を見た。
「なんじゃ」
宝晶も彷徨を見る。
「未夢は…せめて年内いっぱい、あずかるんだよな」
「なんじゃそのことか」宝晶は呆れ顔をして答えた。「気にせんでええから、早く行って来い」
彷徨は深くため息をついてから、奥に向かって未夢を呼んだ。
未夢がごめんごめん、といいながらやってくると、一歩先を踏み出す。
◇
西遠寺の長い石段を降りたところで、彷徨は立ち止まった。
「なぁ未夢」
「なに?」
呼ばれた未夢は横に並んで彷徨の方を向いた。
彷徨は目を合わせようとしない。
「やっぱり、お前、自分ちに帰れっ」
えっ―…。
未夢は不安にかられて、あわてて聞いた。
「なによ急に、なに言い出すのよっ」
彷徨の答えは明快だった。
「家族は一緒に暮らさなきゃだめだ」
そういいながら、歩き始める。
未夢は彷徨の前に出た。
「家族って言っても、いつも一緒になんていてくれないもんっ」
また、立ち止まってしまった。
「彷徨とのほうがいっぱい家族らしいもんっ」
未夢はうつむいて、肩を震わせている。
「いつもそばにいて…さびしくなくって…あったかくって…彷徨がいたから、わたし…」
嗚咽が混じる。それでも言いたかった。
「それに…約束したもんっ、どこにも行かないって…あきらめないって、約束、したもんっ」
彷徨は未夢の頭を抱いた。
「おれだって、あきらめてないっ…」
「でも、でもっ」
顔をあげて首を振る未夢に、彷徨は言った。
「おれ―…中学でたら、どっかアパートかなんか借りて、下宿する」
未夢は驚いた。
彷徨を見た。
力強く、優しい瞳―…。
「1年ともう少し、毎日一緒には…いられないけど、
それでも1年ちょっとだけだと思えば我慢できる―…。
毎日電話するし、土日には会いに行く…っ。
それで、中学卒業したら、お前んちの近くに下宿して、お前とおんなじ高校へ行く」
真顔で言う彷徨に、未夢は転げるように言った。
「そんな、せっかくおじさん帰ってきたんだよっ?それに家賃とか、生活費とか、どーすんのよっ…ご飯だって毎日作らなきゃいけないし、勉強もしなきゃいけないし、そんなのムリだよっ」
「オヤジはほっときゃいい…生活費なんか、バイトでもなんでも、やればできるさっ」
空を見上げていた彷徨は、ぺろっと舌を出した。
「まっ、お前じゃないんだから、なんとかなるって」
「ちょっと彷徨っ、それどーゆー意味よっ」
拗ね顔の未夢を尻目に、彷徨は早足で歩き出した。
「ほらっ、遅れるぞっ」
彷徨って、ホントに…
バカなんだからっ―…。
未夢は大きく見える彷徨の背中を、追った。
◇
「ふ〜ん、なるほどねぇ…」
屋上で三太はため息をついた。
「おれにはそんなことできねーなぁ」
「ん…」彷徨は空を見上げた。
「ぼくにはその気持ち、よ〜くわかるよっ」
望は薔薇の花の香りを嗅ぎながら言った。
「ぼくだって、クリスと遠く離れてしまったら―…ああっ、考えたくもないっ」
ほっとくか、そうだなと言葉を交わし、三太と彷徨は空を見上げた。
辛抱強かったのか、まだ残っていた黒鶫が、南の空へ向かっていく。
「光月さんのお別れ会、やろーぜっ」
三太は笑顔で言った。
「ん…」
彷徨は表情も無く、空を眺めていた。
「こないだのPKの決着、まだついてないよねぇ〜」
望が薔薇を振りかざす。
「ん…」
飛んで行く黒鶫を見つめて、彷徨はつぶやいた。
「早く、おとなになりてーな…」
三太も望も、黙っていた。