作:山稜
ことばの意味が、把握しがたい。
そう宝晶の顔には書いてあった。
とりあえず、きいてみんとわからんな、とも。
「もうしばらく預かれないかって、なんじゃ」
「だから…半月あとになったら、未夢の父さん母さん、帰ってくんだろ」
扉のすき間から、そっとのぞいてみる。
彷徨が真剣な顔をして、宝晶に向かっている。
宝晶はいすに腰掛けて、いま取り出したビールびんの栓をぬいた。
「ああ、そうじゃな」
あいづちを打つ宝晶に、彷徨はさらに言う。
「でも、そうなったらあいつ、また転校だし」
宝晶はグラスにビールを注ぎ、コクリと一口飲んで言った。
「そりゃそうなる。光月さんとこからじゃ、こっちの中学には通えんだろ」
さすがに今の時期では夜中にビールは寒いの、とぶつぶつ言っているのを気にも留めず、彷徨は続けた。
「だから、もうしばらく未夢をうちで預かれないかって」
残りをグッと飲む。まだ半分ぐらいは残っている。宝晶は言った。
「そうじゃな、その方がよかろう」
あまりにもカンタンな返事に、彷徨は絶句した。
「なんじゃ変な顔をしおって、お前が言い出したんじゃろうが」
「いや、そうだけど…」
彷徨の口は開いたままふさがっていない。
「いいのかそんなこと、カンタンに決めちまって」
宝晶は彷徨の顔をまじまじと見つめた。
「かまわんじゃろ、どうせもう2学期も終わる。
年内一杯はこっちで過ごして、年明けぐらいから帰ればちょうどキリもいいしのぉ」
彷徨は肩を落とした。
「オヤジ…そうじゃなくて…」
「そうじゃなくて、なんじゃ」
またひと口、グラスの中身を口に運ぶ。彷徨は宝晶をじっと見つめた。
「そうじゃなくて、その…」
宝晶は何も言わず、じっと聞いている。
確かに台所は少し寒かったが、それにしても彷徨の顔は赤い。
「もっと先…中学卒業するまでとか…それが無理なら、せめて2年生が終わるまで、うちで…っ」
宝晶はビールをまた注いでいた。
泡がこぼれそうになって慌てた。
きーてんのか、と言う彷徨。
泡がおさまるのを待っていた。
ちょうど1センチ。
うむ、よかろうとうなづいた。
そして…彷徨の目を、じっと見た。
「なぜじゃ」
ふだんは見ない、父の眼光。
言葉がうまく出てこない。
「なぜって…そりゃ…」
床に視線が落ちる。
「未夢だってこっちに友達、いっぱいできたし…中途半端に転校転校じゃ、勉強だって…」
「そうじゃなかろう」
宝晶はグラスをとった。
またひとくち運んだ。
息子をじっと見る。
息子が見つめていたのは、父の手の中のあわ立ちだった。
その立ちのぼるのを、もったまま。
「未夢さん、そこにおるんじゃろう?寒いからこっちにお入りなさい」
とつぜんだ。
おどろいた。
とびらを開けた。
手をそれにぶつけた。
ガン、という音。
いたいっ、という声。
「あはっ、あはは、ごめんなさいっ」
手を押さえながら入ってくる未夢に、目を丸くしていた彷徨は尋ねるともなく言った。
「きーてたのか…」
「ごめん…立ち聞きするつもりじゃ、なかったんだけど」
小さくなる未夢に、ふぅとため息をついて、頭をかく。
「まあまあ」宝晶が声をかけた。「ええから、ふたりとも座んなさい」
言われて、小さくなったまま座る。
となりに彷徨が座った。頬杖をついて、あさっての方を見ている。
未夢はちらっと彷徨を覗き見た。気がついて、彷徨も視線を未夢に向ける。
目許、口元、指先、眉。
視線が泳ぐ。
再び目許に流れ着いたとき、彷徨の視線も同じところに漂着していた。
「未夢さん」
不意に宝晶が声をかけた。
「はっ、はいっ」
また小さくなってしまう。
「未夢さんも、そう思っとるんじゃな」
何も言えなかった。
彷徨を見た。
彷徨は未夢の目を見ている。
優しさと、とまどいをいり混ぜて。
でも、それになぜか、安心してしまう…。
そのまま、うなづいた。
「そおか…」
宝晶はため息をひとつつくと、言葉をひとつひとつ、碁石を置くように言った。
「しかし、お前さんがた、優さんと未来さんの気持ちを考えたことは…あるかの」
未夢の耳に、昼間の優の嬉しそうな声がよみがえった。
≪クリスマスには、また一緒に暮らせるな…≫
ルゥの両親の姿が浮かんだ。
やっと手許に子供がもどったときの喜びを、目の当たりにした。
そういうの、よくわかってるじゃない…。
彷徨は黙っている。
目を閉じて、口をゆがめていた。
未夢が見ているのに気がつくと、視線をそらせた。
また少しだけ、未夢を見る。
結局、視線を落とした。
彷徨…。
彷徨はテーブルに、手で言葉を押し付けた。
「…寝るわ、おれ」
立ち上がった。
未夢の肩に手を伸ばしかけたが、ほんの10センチも手を動かさないうちにやめた。
「…おやすみ」
ひとり、出て行った。
かなた、と声を出そうとして、背中に押し戻された。
押し付けられた言葉が、テーブルの上でしおれている。
宝晶はその様子を見て、言った。
「未夢さん、冷えてしまったじゃろ。ミルクでもあたためてあげよう」
冷蔵庫から牛乳のパックを取り出すと、手付鍋に入れた。チッチッチッとコンロが音を立て、青い炎が広がる。それを少し絞り、鍋をかけると、宝晶は、ぽつ、と言った。
「未夢さんには、本当にすまんことをしたのぉ」
「えっそんなっ」未夢は慌てた。何と応えていいか、わからない。
親指で出て行ったほうを差しながら、宝晶は続けた。
「あれの顔を見ると、あれの母親を思い出すで、なかなかまともに話す事はできんのじゃが…
あれの母親が亡くなってからもう10年になろうかというのに、まだ悲しゅうてなぁ。
わしは僧侶としては失格じゃと思っておったんじゃ」
「それは…でもっ」
未夢は言葉に困った。そんな話があるものか…と漠然とは思うのに、うまく言えない。
「いいんじゃよ、未夢さん。あんたはやっぱり優しいのぉ。
しかし僧侶と言うもんは、この世のひとびとを救わねばならん。
そのためにこの世の迷いを捨てねばならん。
その僧侶が迷うておって、何のための僧侶じゃ、わしゃ何のために生まれてきたんじゃ、と。
世界の人々を救いたいという、瞳の願いも叶えられん、
瞳は何のために生まれてきて、わしのところにやってきて、
そして何のために先立ったんじゃ…と。
修行でそれがわかるかと思ったんじゃ」
宝晶は深々と頭を下げた。
「慌てて出てしもうて、本当にすまんことをした。許してくだされ」
未夢は手をぶんぶん振りながら、あわてて言った。
「おじさんっ、そんなに頭、下げないでくださいっ、わたしホントになんともっ」
沸いてきた。
火を止め、マグカップを取り出し、注ぐ。
それを未夢の目の前に置くと、宝晶は言った。
「しかし…彷徨とふたりだけでは、だいぶ不便も強いたじゃろ」
申し訳なさそうな宝晶に、未夢は応えた。
「でもっ、彷徨のおかげでさびしくなかったんですっ、彷徨はいっつも私のことを…」
はっと自分の言っていることに気がつく。彷徨の親を相手に、何を言っているのだろう。
「…わっわたし、それまでいつも、ひとりだったからっ」
宝晶は笑いながら応じた。
「えぇえぇ、わかっとるわかっとる」
泡のほとんど消えてしまったグラスを一気に開けてしまい、瓶の中身が空なのを確かめながら、宝晶は言った。
「しかし、子供のことを思わん親は、おらんよ」
わかっている。
わかっているから、余計にどうしていいかわからなくなった。
「さ、もう遅い。今晩はもう寝なされ」
そう言うと、宝晶は自分のグラスとビール瓶を流しに持っていった。ミルクを温めた鍋も、流しに入れる。未夢の目の前のマグカップを見て、付け加えた。
「ミルクは、部屋まで持っていきなさるか」
未夢はうなづいて、マグカップを持って立ち上がると、軽く会釈をして台所を出た。
◇
部屋に戻ると、未夢は畳の上にマグカップを置いて、その場に座った。
湯気の向こうから、聞こえてくる。
≪しかし、子供のことを思わん親は、おらんよ≫
わかってる。
≪クリスマスにはまた、一緒に暮らせるな≫
わかってるけど、
≪こぼれるんだ―…≫
わたしは、約束したんだもん―…。
涙がひとつ、大きな瞳から、こぼれた。
グジュグジュと、鼻の奥が鳴る。
静かに襖の開く音がした。
「未夢?」
母の声は、胸の奥にしみて、少しいたんだ。
「ママ…」
見上げると、優しそうな母の顔がある。
ひざを揃えて畳につけて、未来は未夢を見つめた。
少し首をかしげて、顔を覗いている。
どうしたらいいの…。
どうしたら…。
ママを、パパを、悲しませたくない…。
話したら、どう思うだろう…。
でも、ママなら―…。
ママなら、わかってくれるかな―…っ。
未夢は思い切った。
「ママっ、わたし、…」
母の目を見た。
また少し首をかしげて、黙って聞いている。
「わたし、…ここに、いたい―…っ」