日が沈み始め、辺りが夕焼けで赤く染まり始める頃。
彷徨は家への帰り道を急いでいた。
早く帰りたい。そして、未夢の顔を正面から見て、ちゃんと話したい。
頭の中は、もうそれだけでいっぱいになっていた。
本当は、こんなに遅くするつもりはなかったのだ。
昼休みに望との会話を終えてからすぐに未夢の元に行こうとしたのだが、タイミング悪く休み時間終了のチャイムが鳴ってしまった。
仕方なく彷徨は未夢と話すのを放課後まで引き伸ばした。どうせ帰る時間にはたっぷり時間があるのだから、大丈夫だろう。そう思っていたのだが・・・・
「まさか、今日が委員会だったなんてな・・・。」
こんな基本的なことを忘れるなんて、今日の自分はよっぽど動揺していたのだろう。
初めてのサボりをやってしまおうか、というクラス委員にあるまじき考えが浮かんだ瞬間、委員長に会議室に引っ張り込まれ、結局終わったのは未夢はおろか、全校生徒が下校してしまった後だった。
「なんでよりによってこういう時に委員会があるかな・・・。」
未夢にひどいことを言ったバチが当たったんだろうか。そんなふうにまで考えてしまう。
寺の息子にであるにも関わらず、彷徨はそういう迷信深いことをあまり信じない。
その自分がこんな愚痴めいたことを思い浮かべるなんて、
(弱気になってるな・・・)
自嘲気味な笑みを浮かべていたことに気づき、気合を入れなおすために顔を思いっきりパンッと叩く。
とにかく、急がなきゃ。
そう思い足を速めながら角を曲がった時、誰かの影が急に視界に入ってきた。
「!?」
とっさのことで避ける間も無く、まともにその人物にぶつかってしまう。
「うわっ!!」
相手は声を上げると後ろに大きくよろめく。転ばなかっただけでもすごいことだが。
「す、すみません。」
前を注意して見ていなかった自分にも責任がある。彷徨は謝罪した。が、その人物の顔を見た瞬間、彷徨はあっと声を上げて固まってしまった。
ぶつかった拍子に相手の掛けていたサングラスが落ち、顔が見えている。
彷徨の目がおかしくなったのでなければ、その人物は、昨日見たばかりのハリウッドスターだった。
「あの、あなたは・・・。」
彷徨が口を開くと、相手はなぜかまずそうに辺りを見回すと、いきなり彷徨の手を掴む。
「おっ、おい!!」
彷徨が文句を言う暇もあらばこそ。
彼は華奢な見かけとは裏腹の強い力で、彷徨を脇の道に引っ張り込んだ。
「Sorry。」
誰も居ないことを確認すると、青年――トットは申し訳なさそうに言った。
「今、やっとのことでホテルから脱走してきた所なんだ。憧れの日本にやっと来たって言うのに観光もまともにさせてもらえなくってね。抜け出すのも一苦労だよ。」
お手上げ、という感じで両手を上げるトット。その様子は、ハリウッドスターという言葉には似合わないくらいの親しみやすさがある。
彷徨は納得した。なるほど、要は日本をゆっくり見たいと思ってもマネージャーやらなにやらの監視がうるさく、ようやく隙を見て逃げてきたというわけだ。
同時に、昨日のことの謎も解けた。イベントが終わった直後、なぜ彼があんなところに居たのか不思議だったが、多分、あの時はちょうど抜け出そうとしていたところだったのだろう。
「ところで・・・。」
トットは彷徨を見て、困った様子で言った。
「昨日から、と言うよりアメリカで初めて会ったときからだけど・・・ずっとボクのことを怖い目で睨んでいるね。なにか気に障ることをしたかな?」
彷徨は驚き、そして同時に恥ずかしくなった。
初めて会ったとき、というのは言うまでも無く未夢の代わりにサインをもらいに行ったときだろう。
だが、いくらファンへのサービスがいいとはいえ、あれだけのファンを毎日目にしている人間がたかだか一度会っただけの人間を覚えているなど、普通は考えられない。
つまり、それだけ殺気立っていたのだろう。自分の顔が。
彷徨は情けない思いで頭を掻いた。さっきまでの決意が一瞬揺らぐ。
が、気力を振り絞ってそれを奮い起こした。
悩むのはもう十分。今は行動あるのみだ。
「あの!!」
彷徨は真剣な目をして声をかけた。目を丸くしている彼に、意を決して歩み寄る。
「頼みがあるんです!!」
西遠寺の台所では、既にワンニャーが夕食の準備を始めていた。
台所に、いい匂いが漂ってくる。
食堂の椅子にぼんやりと座っていた未夢は、台所のワンニャーに声をかけた。
「ねえ、ワンニャー。」
「なんですか?」
「彷徨、まだかな?」
ワンニャーは振り向いて答える。
「もうすぐ帰っていらっしゃいますよ。」
「うん・・・そうだよね。」
未夢は頷くと、また宙を仰いでボ〜っとし始めた。
ワンニャーはチラリと玄関を見る。
もうこれで、五回くらい同じ質問を受けた気がする。
(ホントにどうしたんでしょう、未夢さん・・・・)
学校から帰ってきた未夢は、昨日までとはまた少し違っていた。
落ち込み具合はだいぶ軽くなっていたが、その代わりに彷徨の帰りをひどく待ちわびているように見える。
ルゥと遊んでいるときも、やはり気になるのか、玄関のほうをチラチラと見ていた。
(彷徨さん、早く帰ってきてあげてくださいよ〜。)
未夢と彷徨の間に何があったのか、ワンニャーは知らない。けれど、彷徨が帰ってきてくれれば、この状態が良くなるかもしれない。根拠も何もないただの直感だが、ワンニャーは真剣にそう思っていたのである。
「ただいま〜。」
「彷徨!!」
ガラリと扉の開く音とともに聞こえてきた彷徨の声に、未夢は鉄砲玉のように飛び出していった。
後を追おうとするルゥを、背中から抱え込んで引き戻す。
「すみませんルゥちゃま。ちょっとの間、我慢しててくださいね。」
「あ〜、やぁ〜!!」
ジタバタ暴れるルゥにつねられたりヒゲを引っ張られながら、ワンニャーは必死にルゥを抑えていた。
「彷徨!!」
叫んで未夢は玄関に飛び出してきた。
「未夢!?」
彷徨は少なからず面食らった様子で、未夢を見つめたまま立ち止まっている。
両方、言う言葉が見つからずに、しばらく黙りこむ。
(どうしよ〜、何か言わないと、何か・・・)
必死で考え込む未夢だったが、出てきた言葉はこれだけだった。
「おっ、遅かったね・・・・。委員会、長引いちゃったの?」
(バカバカ、違うでしょ私ってば!!)
声が裏返っていないのが不思議なくらいの慌てっぷりで、あたふたと百面相している未夢。
彷徨はそんな未夢の様子に少し笑みを浮かべると、
「ほら、これ。」
手に持ったものを未夢に差し出した。
「!彷徨、これって・・・。」
そこにあったのは一枚の色紙。
赤い文字で『Thank you for coming!from Tot to Miyu』と書かれていた。
彷徨が、彼に頼み込んでもらってきたものだ。
「欲しかったんだろ?これ。」
「ど、どうしたの急に・・・・・。あっ、もしかして、そんなこと言ってまた前みたいに『半分は俺のもの』とか言うつもりなんでしょ!もう、彷徨のイジワル!」
そう言ってプイッと横を向いてしまう未夢。
そんな様子さえもかわいいと思ってしまうのは、やっぱり自分がおかしいのだろうか?
彷徨はそんなことを考えながら、未夢をじっと見た。
未夢はまた後悔の淵に追いやられたらしく、ガックリとなってしまっている。
両手を取ると、ギュッと色紙を強引に握らせた。
「言わねーよ、そんなこと。全部お前のだ。」
「えっ・・・、ホントに?」
「ああ。」
ホントに欲しいもの。俺の望むものは他にあるから。
俺の、目の前に。
彷徨は口を開きかけて、止まった。
それを言うほどの勇気は、まだ自分には無い。
未夢はしばらく驚いた顔のままだったが、やがてぎこちなくではあるが笑顔を見せた。
「あ、ありがと・・・。」
彷徨は一つ深呼吸をした。今なら言える。ずっと言いたかった言葉。
「未夢・・・ゴメンな。」
「!?彷徨・・・。」
未夢の目が大きく見開かれる。
そして次の瞬間、未夢は微笑んだ。今度はふわりと、ごく自然に。
彷徨がずっと見たいと思い続けてきた、眩しくてあったかい、ホントの未夢の笑顔だ。
「ううん、いいよ。私の方こそ、いろいろゴメンね・・。」
「何だよ、いろいろって。」
「何でもない!」
未夢は晴れやかな顔でそう言うと、彷徨の腕を引っ張った。
「ご飯食べに行こ!ワンニャーがもう、準備してくれてるよ!」
「ああ、いいな。もう腹ペコだ。」
奥へ入っていった彷徨を追おうとして、ふと立ち止まった。
手に持った色紙を玄関に立てかける。
彷徨、覚えてくれてたんだ。
それでわざわざ、頼んできてくれたんだね、私のために。
サインそのものよりも、未夢にはそちらの方が何倍も嬉しかった。
彷徨がそこまで自分を気に掛けてくれた、そのことが。
そういえば、ワンニャーが言ってたっけ・・・明日の彷徨のお弁当がまだだって。
「そうだ!」
未夢はパッと顔を輝かせた
明日のお弁当には、私も手伝わせてもらおう。
今日のうちにしっかり準備して、明日の彷徨の弁当箱に、彷徨の好きなカボチャを入れてあげよう。
仲直り記念と、それから、ありがとう、の意味を込めて。
未夢はグッと気合を入れると彷徨を追いかけて食堂に入って行った。
(彷徨、喜んでくれるかな?)
そう、今日自分が本当に嬉しかったのと同じように。
彷徨が明日喜んでくれて、笑顔を自分に見せてくれることを、願いながら・・・・・。
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