作:あゆみ
長く、長く、続く廊下を歩いて行くといつもの場所にたどり着く。
清潔な室内、消毒液のにおい、机、そして椅子…
長かった研修医時期を経て、配属されたこの場所で
西遠寺彷徨のいつもの一日が始まろうとしていた。
これまでと変わったことといえば
白衣の中身がトレーナーからシャツとネクタイに
医学が勉強から仕事になったことだ。
風立市立総合病院。
ここで彷徨は昨年度の春から小児科に着任していた。
小児科から、脳神経外科まで、様々な医療科が存在するこの病院では
風立市で最も大きな病院として、様々な年齢、病状の患者が利用している。
彷徨は、大学の6年間、医学を学び主席で卒業。
2年間の研修期間を経て、現在に至る。
始めは、幼い頃病気で無くした母を自分で治そうと医者を志したものだが
いつしか、病気に苦しんでいる子供を自分の力で治したいという思いに変わり
何度も進められた他科への勤務を断り現在の小児科勤務となった。
一日のスケジュールは
午前は入院中小児達の回診。
午前中の半分を外来患者の問診。
午後は外来患者の問診。
そして、外来の受付が終わると同時に雑務を含む内勤となる。
まだ、医者として若年の分、色々な雑用が回ってくるため
はっきりいって休む暇も無いほどだった。
しかし、彷徨は希望した職場で、医療に従事でき充実した日々をすごしていた。
*****
彷徨は回診の準備を終えて、カルテを持ち入院患者の待つ総合棟へ向かうため
ナースステーションを出た。
白衣の胸元にかけてあった眼鏡をとり、装着する。
最近、近眼気味になってきたため、購入したものだ。
視界がクリアになったことを確認して。
歩き出す。
「西遠寺先生。まずは203号室です。」
隣で一緒に回診に向かっていた看護主任 水野ナースがいった。
「はい。」
こうして、彷徨の一日が始まろうとしていた。
****
203号室
ここには彷徨が始めて受け持った5歳の女の子が入院している。
病名は先天性心臓疾患。
生まれつき心臓が悪く、幼い頃から、病院のベッドで生活を行っている。
彷徨が担当する患者で最も重病人である少女だった。
ドアをスライドさせると入ってきた、彷徨と看護主任に気づいた少女が言った。
「あっ!カナタおにぃちゃ…じゃなかった。カナタ先生だ!おはようございます。」
すでに起きていたのだろう、ベットから起きて絵を描いていた。
「どっちでもいいよ。かほちゃん。気分はどうかな?」
彷徨は、若干ずれた眼鏡を戻し、微笑みながら言った。
かほは研修医時代から見ていた、患者だった。
そして、生まれながらにして心臓に病魔を宿しているとは考えられないほど明るかった。
かほは病院で多くの大人と接している性だろう5歳の割には、
妙に大人びた発言をするのも特徴だった。
しかし、生まれたてのときから何かと病院で接する機会の多かった
彷徨に対してはかほの態度も違っていた。
彷徨を兄のように、時には父のように慕っているところがある。
そして、兄弟のいない彷徨もかほのことは実の妹のようにかわいがっていた。
「うん。元気だよ!」
かほは持っていた色鉛筆を置いてにっこりと笑った。
本当に今日は体調がよさそうだ、顔色も良い、彷徨は思った。
「そっか、それじゃおなか見せてね。」
彷徨は首にかけていた聴診器を耳にかける。
トク・・・トク・・・
心臓欠陥特有の「雑音」がやや聞こえるものの、心拍には特に問題ない。
その他、呼吸音など総合してみても今日のかほは本当に元気のようだ。
彷徨は兄とも、父親ともいえぬような笑みをかほにむける。
そして、少し寝癖ではねているやわらかい髪をなでながらいった。
「うん。元気だ!かほちゃんがいい子にしているからだね。」
かほは少し照れたのか頬を赤らめてうつむいたまま言った。
「ありがとうございました。」
カナタおにいちゃんが先生でよかった。
とってもやさしくて、かっこよくて、隣の病室のエリちゃんがうらやましがっていた
『カナタせんせいがかほちゃんの先生でうらやましいな。』
そういわれてかほはカナタ先生が自分の先生で誇らしくなったものだ。
大好きなカナタお兄ちゃんがずっといてくればいいのになぁ
かほは彷徨に頭をなでられながら思った。
****
ガッシャーン
背後で何かが落ちが音がした。
彷徨は驚きカルテを取っていた手を止め、後ろを振り向いた。
「すみません。すみません・・・」
遠くで、二人の看護師が慌てふためいて
落としたトレイの中身を拾い上げている姿を見かけた。
一人は黒髪の短髪ナース。
確か名前は天地といった。
もう一人は見たことの無い金色の髪をまとめたナースだった。
なかでも特に通行人に謝っているのが金色髪のナースだったことから
彷徨はこの騒ぎの張本人が彼女にあるだろうと思った。
「申し訳ありません。先生。」
背後で体温計をしまっていた水野主任が言った。
「あれは?」
彷徨は視線を再びそちらの向けると
拾い終わったのだろう、二人組みが再度頭を下げていた。
「彼女は今年から、この病院に転属になった、光月未夢さんです。
ご・・・ご覧のとおり、すこしおっちょこちょいですが、子供達には人気者なんですよ。」
「へぇ。そうですか。どうりで見たことが無いと思った。」
「確か彼女は、看護学校を卒業した後、姉妹病院の風立国立病院に勤務していて
今年付けで、こちらに赴任してきたんですよ。」
「へぇ。」
きっと、シフトの関係ですれ違っていたのだろう。
彷徨は子供に好かれているという看護師をみてそんなことを思った。
****
未夢は落ち込んでいた。
これで何度目の失敗だろう。
ひとつのミスが、大切な命を落としてしまうこの現場で
自分のドジにはあきれてしまうものがあった。
看護学校で同期だった天地ななみがグループで心強かったが
これでは迷惑のかけっぱなしである。
「やっちゃった。」
先ほどもトレイに乗せていた消毒セットを落として
迷惑をかけてしまったことを反省していた。
気持ちを切り替えるのよ未夢!
未夢は戻ったナースステーションの机の上でガッツポーズをした。
「ドンマイ。未夢。」
そばでその様子を見ていたななみが言った。
「ごねんねななみちゃん。」
「大丈夫。大丈夫。」
ななみはヒラヒラと手を振ってその細い体からは考えられないほど
大量の点滴バッグを担いで病棟へ歩いていた。
私も、頑張ってカルテを整理しなくっちゃ
未夢がそう思って、机に向かおうとしたとき、背後から声がした。
「あいかわらず天地さんは、力持ちね。
他のナースなら何度も往復するところでしょうけど、彼女は一回だものね。」
「水野主任!」
未夢は、後ろの声の主が小児科病棟の看護チーフ水野と分かり、
慌てて立ち上がり振り向いた。
すると、隣には自分と年がほとんど変わらないだろうドクターが立っていることに気づいた。
糊の効いた白衣を身にまとい、黒の細い縁取りの付いた眼鏡をかけ、私達ナース同様に
聴診器を首から提げていた。
未夢は、思わずその人物に見入っていた。
一瞬にして彼がドクターであることが分かったが、何より驚いたのが
これまで一緒に仕事をしてきた、ドクターの誰よりも美男子であることだった。
未夢はすぐに目の前のドクターのことを思い出した。
同僚ナースがよく噂しているのを聞いていた。
ここに赴任してから2ヶ月だが、その名前を聞かなかった日は無かった。
自分は、変則シフトなのであうことが無かったが
確か・・・名前は・・・・
「西遠寺先生。ご紹介します。小児科病棟看護師の光月未夢さんです。」
そうだ。西遠寺先生だ。未夢は思い出した。
「そして、光月さん、こちら、昨年から小児病棟に勤務されている西遠寺先生。」
水野は二人の間に立って互いを紹介した。
「はじめまして。よろしく。」
彷徨は、未夢に向かっていった。
「あ!始めまして。よろしくお願いします。光月です。」
未夢は慌てて、頭を下げた。
「光月さん。今度から受け持ってもらう、203号室のかほちゃんと506号室の健君
だけど主治医は西遠寺先生だから、ご迷惑をおかけしないようにね。
西遠寺先生もどうぞよろしくお願いいします。」
水野主任はペコリと頭を下げた。
未夢もそれにつられて頭を下げる。
「よろしく、光月さん。・・・プッ!・・・あはは!」
彷徨は突然笑い出した。
「西遠寺先生?」
未夢は突然笑い出した彷徨を恐る恐る見た。
「さっきのドジナースだ!」
「なっ!!み・・て!!」
「あははは。」
「ちょ・・笑いすぎです。先生。」
未夢は先ほどの出来事を目の前の彷徨が見ていたことを知り
恥ずかしさがこみ上げてきた。
そして、ムラムラと反逆心が芽生えるのを感じた。
なによ・・・人があんなに落ち込んだ失敗を、そんなに笑わなくても・・・
未夢は頬を膨らませて目の前で笑っている彷徨をにらみつけた。
「悪い、悪い!」
そして、未夢は初めて見た。
彷徨の不適な笑みを・・・
「よろしく。光月さん。」
未夢に向かって彷徨はニヤリと笑った。
(続く)