月の海のある日

(下)

作:山稜

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 ほっぺたにほ乳ビン、おしつけて。
「こんなもんか?」

 それを、受けとる。
 自分も、ほっぺたに。
「いーんじゃない?」
「むずかしーもんだな…ひと肌のあたたかさ、っていっても」

 彷徨が腕を組む。
 いかに頭のいい彷徨でも、こーゆーところじゃわたしといっしょ。

「だって彷徨、熱湯で作るんだもん」
「おまっ、ちゃんとビンだってなんだって、わかして消毒しなきゃいけねーだろっ」
「えっ、そうなの?」

 はぁ…と声をあげて、彷徨が右手を顔にやる。
「だいたい、ルゥが置いてったやつなんだから、かなり古いんだぞ」

 あ〜、と手が伸びてきた。
「はいはい、いまあげまちゅからね〜、パパのおこごとは、ほっときまちょうね〜」
「あのなぁっ!」

 おこったような言い方の、ひびきの楽しそうな声。
 …うれしいな。
 このまま…。

 …わたし、いま、なに考えた?

「そういや…」
 彷徨の声で、引きもどされた。
「もう夕方だってのに、警察から何の連絡もないな…」
「そう…だね…」

 このまま…。

 むこう向いてた彷徨がこっち、ふりかえって。
「…未夢?」

 そんなこと、いっちゃ、いけないことなんだよ…。
 子どもは、ちゃんと親のそばにいるのが、いちばんいーんだよ…。
 わかってるよ…。
 でも、わかんないよ…。

 彷徨は、いじわるだ。
「言ってみろよ」
 なんて、言うんだから。
 そんなこと言われたら、言っちゃうよ…。

「彷徨、この子、わたしと―…っ」


 助けは、電話のベル。
「ごめん、ちょい待ち」
 彷徨が立った。

 ほっとしたような、しないような。
 うつむいたら、赤ちゃんの顔。
 飲むのをとめて、じっと見て。

「あれ、もう?」
 そんなわけない。
「え〜と、げっぷ出してあげないといけないんだよね…」

 たてにだっこして、体重をあずかって。
 背中をかるく、とん、とん、とん。
 …でないな……。
 もう1回、とん、とん、とん。

「けふ」

 抱きなおして、おでこくっつけて。
「うんうん、いいげっぷ出たねっ」

 わらった?
 まだ、わらうほど育ってないんだっけ?
 でも…わらった…よね。

「さ、残りも、のんじゃいまちょーねっ」

 なんで、幼児ことばで話してるんだろ。
 思いながら顔、わらってる。

 彷徨がゆっくり、もどってきた。
 すぐとなりに、腰かけた。

「未夢…、あのな…」


 すっかり、暗くなって。

「ホントに、ありがとうございましたっ」

 頭を深々と、下げる夫婦。
 なんでも、ダンナさんのおばーちゃんが連れ出したらしい。
「ちょっとボケかかってて…」
 なんて、言ってたけど。

「親父にちゃんと見とけって言っといたんですけどね、んとに」
 赤ちゃんのパパの、そのことば。
 胸がつまった。

「あの…」
 そろり、ひとこと言いかけた。
 びしゃり、彷徨がさえぎった。
「でも、子どもさんはやっぱり、ご両親が一番なんですから」

「そう…ですね…、ホントに…」
 赤ちゃんのママ、うなだれて。

「あ〜」
 声が、あがる。
「よしよし、ごめんねトオル」

 泣きそうな、笑顔。
 見てられない。

「あ…そうだ!」
 茶の間に。
 走った。
 取ってきた。
 ママさんに、さしだした。
「これ、つかってくださいっ」

 おむつと、ミルク。

「え、でも…」
「だって、うちにあってもしょーがないですからっ」
「そうですか…お世話になった上に、こんなものまで…ホントにすみません」
「いーんですよ、わたしも…」
「え?」

 あ〜、と、ひと声。
「よかったね、トオルくんっ」
 しぜんに、笑顔が出る。
 やっぱり、わらってくれた気がする。

 ママさんを向いて、言いかえた。
「わたしも、楽しかったし」
「そうですか…



「ホントにありがとうございました」
 夫婦は西遠寺の石段を、おりていった。
 何度も何度も、頭を下げて。

 すがた、見えなくなった。
 ぽっかり、穴があいた。

 ふぅ…。
 それが、聞こえたらしい。

「バカ未夢」
「なっ…なによっ」

 わかってる。
「どーせ『もっと言ってやりゃいーのに』とかなんとか、ゆーつもりでしょっ」
「よくわかってんじゃん」

 わかってる。
 けど、そんなこと。

 だまってたら、「来いよ」って彷徨、すたすた行った。
「ちょっと、ドコ行くのよっ」
「出よーぜ、たまには」


 銀色のバイクが、月あかりに光る。
 わたし用のヘルメット、ひさしぶりにかぶる。
 彷徨の背中、おおきく見える。

「行くぞ」
 しっかりつかまると、舟はすべりだした。



 どこへ行くのか言いもせず、
 どれだけ走るか聞きもせず、
 それでも、不安はぜんぜんない。
 背中を見てさえいれば、いい。

 小高い山の、大きな道。
 バイクのスピード、落ちてきた。
 ここ…そういえば、いつかの…。

 とまった。
「ついたぞ」
 ヘルメットをぬぐと、ひんやりとした風。
「ふわっ、まだ冷えるね…っ」

「寒いか?」

 …上着でも、かけてくれるのかな?

「ぶ厚いの、だから着てこいっていったろ」

 …それで、おわりっ!?

「ちょっと彷徨っ!?」
「…んだよ」
「んだよじゃないよっ、こーゆーときはさぁっ…」
「あとだ、あと」

 ん〜っ、ムカツクっ!

「あのねぇっ」
「おこってないで見ろよ、ほら」

 指の先、おおきな、まるい月。

「月ってな…母親、なんだってな」
「母親?」
「星占いじゃ、そーらしいぜ…」
「ふうん…」

 そういわれてみれば、やさしい光。
 なんとなくママに見えてくるのが、ふしぎ。

「おれにはオヤジのハゲ頭にしか、みえねーけどなっ」

 それ反則。
 ふきだした。

「やっと笑ったな…おまえ」

 …そう、なんだ。
 ずっと、考えてて。

「おまえさ…ちょっと、考えすぎ」
「だって…」
「トオルくんだっけか…育てられたら、また楽しくなるかとか思ってたろ」

 ばかだと思う。
 また彷徨と、ルゥくんみたいにできたらいいって、そう思ってた。
 でも、いつかは…

 月を見上げたままで。
 彷徨が、口を開いた。

「ずっと言おうと思ってたんだけどな」
「はいはい、また『おまえってバカ』とかでしょっ」
「そーゆーとこがまたおまえ、バカ」
「なによそれっ」
「きけよハナシを…」
「彷徨がバカバカ言うからでしょっ」
「1回しか言ってねーだろ」
「1回言えば十分よっ」

 なんでだろ。
 言い合えば言い合うほど、楽になっていくのって。

「だからさ…きけよ、ハナシっ」
「はいはい、で?」
「おまえさ…」

 彷徨は、なかなか言わない。
 じっと、待ってた。

 ようやく出たのは、言いにくそうだった。
「…自分が、母親になりゃいーじゃん」

 へ?
 わたしが…って…。

「そしたら、もう返さなくていーだろ…」

 それってちょっと、ねぇっ、
「いやそれはそーだけどさっ、ちょっとっ、彷徨っ」
「んだよ」
「ちょっと待ってっ、そんなっ、いきなりっ、わたしだってっ」

 なに言ってるのか自分でも。

「…おまえ、わかってる?」
「わかってるわよっ、だってわたしがお母さんになるってことはっ、まず妊娠してですねぇっ」

 はぁっ、と彷徨が、ため息をついた。
 あきれた声で、肩をつかまれた。

「…だからさぁ、するんだよ」

「するって、ねぇ、ちょっと、こんなトコ」
「なに言ってんだ、バカ…」
「またバカって言ったっ!」
「いーからだまってろっ」

 彷徨の顔がおりてきて、
 くち、ふさがれた。

「…彷徨のバカ」
「バカはおまえだよ、ほら、かせっ」

 かせと言われて、とられた左手。
 ポケットから出た、彷徨の右手。
 すぅっと、はまっていく感触。

「…オヤジの手伝いしかしてねーから、3か月分ってもこんなもんだけどな―…」

 母親になりゃいい。
 するんだよ。
 3か月分。

 公式にあてはめて、出た答えが、しんじられない。

「かっ…彷徨っ」
「まだ言わせる気かよっ…するのっ、おまえはおれと、結婚っ」





 月には海があるって聞いた。
 だとしたら、
 いま見えてるのは、月の海…?

 だきとめられた背中の上に、上着のぬくもり、おりてきた。
 あたまのうしろを何度もなでる、彷徨のてのひら、おおきくて。

 もうながいこと、いっしょなのに。
 ちっとも、わかってないのは自分。
 このひとだから、ずっと…。

 ひくひく言うのを、なんとかこらえて。
「よろしくね…パパ」
「ああ…たのむぜ、ママ」

 なかなか、とまらなかった。


 ママが帰ってた。
≪あいさつの都合もあるから、おばさんとおじさんの今後の予定、きーといてくれよなっ≫
 彷徨にそう、言われてた。

「あのね…ママ」
「なに?」
「アメリカ、いつ行くの?」
「あら、言ってなかった?あさって発つの」
「そんな急なのっ!?」
「うん…だって講演が今度の土曜だから、あさってには発たないと」

 なんだか、ハナシがヘンだ。

「…講演?」
「そーよ、向こうの大学でっていったじゃない」
「講演って、それ1回やって終わり?」
「そーよ?」
「じゃ、すぐ帰ってくるの?」
「パパと羽根ぐらい、少しのばしてこさせてよ」
「ずっと行ってるんじゃなかったのっ?」
「講演ぐらいでずっと行ってちゃ、たまらないわよ」
「講師っていってたじゃない」
「講演する人は講師でしょ、なに言ってんの、ヘンな子ねぇ」

 ちょっと、ちょっとまって、

「ってことはママ、行ってすぐ帰って来るのねっ?」
「だからねぇ未夢、1週間ぐらいは羽根のばしてこさせてよ」
「1週間ぐらいすぐのうちじゃないっ、わたし、また何ヶ月も…」
「そんなだったら真っ先に相談するわよ、未夢ももうコドモじゃあるまいし…それぐらいの相談、のってくれるでしょ?」



 きょうは、なみだがよく出る日だ。



「ねぇ、おとっときのワイン、あけよーよ」
「いーけど…未夢、弱いのにだいじょーぶ?」
「だいじょーぶよ、もうコドモじゃあるまいしっ」

 コルクを抜いて、なみなみ注いで。
 あとのことは、記憶にないけど。

 あとからきいたら、寝言で「しあわせ」って言ってたらしい。




 は〜い、そんなわけで「HAPPY FLOWER 春花の無礼講」ちょっと出遅れましたが、テーマは「変化」。ちょっと前のチャットで「みゆかなの結婚話も書かないとなぁ」って予告してたのを、覚えているひともいるかもしれませんね。交際相手から婚約者への、変化。重大なコトなんで(^^;、ついぞ長くなりました。
 この話の構想は、ずいぶん前からあったんです。「まいおうん〜」が書き終わってから書こうと思っていたんですが、あれがなかなか進まなくて(汗) 今回のテーマにちょうどいいかなと、思い切って書いてみたわけです。

 いままでの短編数編のなかで、プロポーズ手前…っていうのは何度も出てきてますが、そこからのきっかけがなかなかつかめずに前へ進めない彷徨。そんな彼を後押しするのは、いつも「迫られた環境変化」なんですね(笑)
 ただ、これですんなり結婚できると思ったら大間違い。書き手は山稜ですからね(^^;、ここから小さな事件がいくつも起こるんですよ…ええ、結婚しようと思ったら大変なんだから(^^;
 そんなわけでこれ、シリーズ「らぷそでぃ・いん・まりっじぶるー」の最初の話になるんですが、続きは…いつ書き始めることやら(@_@;

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