作:山稜
水道水をはじく、やかん。
そっと手を、ふれてみた。
もう、あつくない…かな。
「未夢、甘茶…」
台所のはしから、彷徨が声をかけた。
「あっごめん、すぐ持ってくから」
取っ手に手をかけた。
「いや…もう、いいぞ」
「へ?」
「みんな、帰っちまったからな…オヤジが見送りに行ってる」
手から力が、急に抜けた。
「な〜んだもう、それならそうって、はやく言ってよっ」
花祭り。
降誕会というのが、ちゃんとした言い方らしい。
お釈迦さまの誕生を祝う日で、どこのお寺も法要をする。
で、どこの寺でも来るのはだいたい、檀家のおじーちゃんおばーちゃん。
ふるまいの甘茶が熱いと、やけどしちゃいけない。
わざわざ水でさましてみた。
…のに。
「おまえがナベまちがわなきゃ、そんなにあわてることもなかったけどな?」
彷徨はあさっての方へ、ペロッと舌を出してみせた。
「ちょっとまちがえたぐらい、しょーがないでしょっ、いそがしーんだからっ!」
未夢は肩をいからせた。
「まぁ…、昼からもお参りのひとはくるから、本堂の前に出しといてくれ、それ」
気にもしてない、と言わんばかり。
彷徨はふらっと、行ってしまった。
その、ふらっと…の感じが、妙に義父に似て。
なんだかちょっと、おかしかった。
◇
ろうかの先をわたると、本堂。
静かだった。
赤ん坊の釈迦像が、本堂の前で立っているだけ。
…ちょっと、さびしそうかな。
みんながするように、自分も甘茶をかけたくなった。
やかんが重くて、急げないけど。
表の入り口の前まで来た。
降りようとした。
ガタン、と音がした。
本堂の、中からだ。
―だれか、まだ残ってるのかな。
それにしては、静かだ。
いや、よく聞いてみると、ガサガサ。
―ねこ…かな。
こないだから、お供えを荒らしに、よくくるし。
えーいもうっ、こんなときにっ。
未夢は腹たちまぎれに、障子をひいた。
「こらっ!!」
「ニャーッ!!」
とびあがったのは、細身の男。
…どっ…―
「ドロボーっ!!」
大声をあげた。
やかんを、ほうりなげた。
「あぶないっ」
おもてから、飛び込んできた少年。
くるくると宙を舞う、やかん。
ひっくりかえって、中身が少年の頭から、ざぶん。
男は少年にかけよった。
「ルゥちゃまっ」
それでも少年は、男に向かってかまわず言った。
「だめだろっ、ワンニャーっ!!」
男の顔からは、ねこのようなヒゲがのびていた。
おしりからは、しっぽも出てた。
「あわわわ、ごめんなさい〜っ…あまりにもおいしそうな、おだんごだったもので、つい…」
未夢はぼぉっとしていた。
ルゥちゃま…?
ワンニャー…?
声をあげようとした。
後ろから、ろうかを走る音がした。
「未夢っ、どうした…」
彷徨は目の前のふたりを、見た。
一呼吸おくと、そっと、言った。
「ルゥ…だな?」
少年は、しっかりうなずいた。
「ってことは…こっちは…ワンニャーかっ?」
「彷徨さん…ってことは、こちらは未夢さん!」
やっと、飲み込めた。
ルゥくんと…
ワンニャーなんだ…。
未夢は目から涙がこぼれるのを、押さえ切れなかった。
かけよったのは、彷徨と同時だった。
「ワンニャーっ!」
「未夢さん彷徨さん、ごりっぱになられて…」
「おまえはあいかわらず、みたいだけどな」
「そんな〜、ひどいですよぉ」
ようやく涙がおちついた。
おちついたら、笑えてきた。
「だってやっぱり、おだんごを前にしたらわれを忘れてるじゃない」
「あっ、あれはですねぇ、あのおだんごは特別だからなんですよ、なにせひさしぶりの『みたらしだんご』、しかもひとつの串におだんご5つついて、最初の1コがあとの4コと間があいてるっていう、ちゃぁんと伝統にのっとった作り方なんですよ、」
ワンニャーは、こぶしに力をこめた。
「そういうおだんごがですね、ひさぁしぶりにやってきた地球で、目の前で『ほ〜らおいしそうでしょう、おいしいんだぞぉ』って手まねきしてたら、わたくしじゃなくたって、だれだってとびつくじゃありませんかっ」
未夢が苦笑いをする。
「ワンニャーだけだと思うよ、それは…」
ヒゲを隠しもせず、ワンニャーはさらに、こぶしに力をこめた。
「このおだんごを見ていないから、そんなにあっさり言えるんですよ未夢さん、見てくださいこの色つや…」
さしだした手には、何もない。
「あ…れ…?わたくしのおだんごが…」
ワンニャーは我が目をうたがった。
ついさっきまで、その手ににぎっていた、2本の串。
夢のような、完璧なおだんごが、ない。
ない…。
「ないーっ!!わたくしのおだんごがぁ〜っ!!」
彷徨がため息を、ひとつ。
「いや…だいたい、おまえのじゃないって、もともと…」
「そんなぁっ、彷徨さぁんっ」
ルゥが、プッとふきだした。
「ワンニャー…ほら、そこと、そこ」
両手で指さす、天井と床。
「うわぁぁぁぁ、ど〜してあんなところにっ」
きっと、びっくりしたときに飛ばしたのよ。
そう言おうとしたときだった。
「なんじゃ、さわがしいのぉ」
宝晶の、姿。
にぎやかだった本堂が、水を打った。
顔からひげ、おしりからしっぽを出した男。
天井と床にささる、みたらしだんご。
それを両手でゆびさす、笑顔の少年。
…ぜったい、見られた。
すずめの鳴き声だけが、きこえる。
「こっ…」
宝晶が口を開いた。
「これは…」
じりじりと、ルゥに進み寄る。
彷徨が割って入った。
「あのなオヤジ、これは…」
「彷徨、どきなさい…わしはこのひとと話をしたいんじゃ」
近ごろめずらしい、父の気迫。
気おされる、というのは、こういうことだろうか。
彷徨はだまって、ひき下がった。
ルゥはあげていた手を下ろした。
近よる宝晶に、向きなおった。
背すじを伸ばした。
宝晶はルゥの一歩手前で、立ち止まった。
じっと、ルゥの目を見た。
両ひざをついた。
頭を下げて、言った。
「こんなへんぴなところまで、ようお越しくださった」
未夢はただ、口をぽかんと開けていた。
まったく何がなにやら、さっぱりわからない。
それは他の3人も、同じようだった。
彷徨は眉間にしわを寄せたまま、動かない。
ワンニャーは顔を手でかくそうとしたまま、動かない。
ルゥは苦笑いのまま、動かない。
すずめの鳴き声だけが、きこえる。
宝晶が頭を上げた。
ルゥのシャツを見て、言った。
「未夢さん、すまんがこちらに、着替えを出してさしあげてはくれんかの」
そうだった。
甘茶をかぶってしまったのを、すっかり忘れてた。
「あっ、やだ、ごめんルゥくんっ」
「ルゥさんとおっしゃるか…わたしはこの寺の住職、西遠寺宝晶と申しますでな、気軽に『宝晶ちゃ〜ん』とでも呼んでくだされったらええです」
宝晶はさぁさぁこちらへ、こちらへと、住居のほうへルゥを案内していた。
「どう…なってるの?」
「さぁ…な…」
彷徨は腕を組みながら、ルゥのあとをついていった。
だまって未夢も、したがった。