作:山稜
未夢はひとつ、小さなくしゃみをした。
もうだいぶ、朝は寒い。
彷徨は自分の首からマフラーを取った。
「ほらみろ、マフラーぐらいしてこないからだ」
そう言いながら、そのマフラーを未夢にかける。
「いーよ、だいじょうぶだからっ、これぐらい」
「っておまえ、顔赤いじゃねーかっ」
そう言って、まじまじと顔を近づける。
長いまつげの1本1本が、目の前でゆれてる。
余計に赤くなるのが、わかる。
「こっこれはっ…」
あわてる未夢を見て、彷徨は笑う。
しまった。からかわれてる。
「なによっ、わざとでしょっ」
舌先を出して、彷徨はそっぽを向いている。
「もうっ、とにかくだいじょうぶだからっ」
「そりゃおまえ、ナントカは風邪引かないっていうけどなっ」
こういうこと言ってると、すごく楽しそうだね、この人。
「どーせわたしはバカですよっ、だから毎晩苦しんでるんでしょっ」
昨日の晩も、西遠寺の茶の間だった。
ここのところ毎晩、彷徨に勉強を教えてもらっている。
受験が近づいても、彷徨は本当に余裕たっぷりだ。
某有名私立高の推薦も、ことわったらしい。
それでも、先生も全然心配していない。
「別にムリしなくても、あそこでいーじゃん」
彷徨はずっと向こうの、わりと易しい公立高の方角を指した。
「だって、それだと彷徨と一緒に通えないじゃない…」
口をとがらせる未夢に、彷徨はあさっての方を見ながら言う。
「おれがそっちへ行けばいーだけだろっ?」
「それは…」
彷徨には才能がある。
せっかくのそれを、自分のために無駄にして欲しくない。
「やだ…よ…」
わたしだって…、
がんばってみたい。
ふぅ、と彷徨がため息をつく。
その息が、白く広がっていく。
「まっ…もうあと3ヶ月ちょっとだし、がんばろーぜ」
そう言って彷徨は微笑んだ。
この笑顔に、いつも勇気付けられる。
「うんっ…ありがと」
ふと、背後から、不穏な空気を感じる。
「まぁ…ふたりとも、朝から仲がおよろしいんですのね…」
それを聞いて、未夢は彷徨のそばから跳んで逃げた。
アルトからソプラノへ、クリスは声色を入れ替えた。
「いやですわ、冗談ですわよ、じょ・う・だ・ん」
クリスが彷徨を追わなくなってから、もう1年ほどになる。
それでもあの強烈なイメージは、みんなに条件反射として残ってしまっていた。
それを知っていて、クリスは時々悪い冗談を言う。
―それだけ、ふっきれているということなのだろうけど。
「いけないなぁ〜マイ・ハニーぃ」
そのふっきれた原因は、この気の抜けそうな言葉の主、望にもある。
このふたりがけんかをしているところを、見たことがない。
むしろ―
「…ごめんなさい」
望に言われると、クリスは気まずそうな顔をする。
「いいんだよ、そういうお茶目なところがまた、きみのかわいいところさっ」
「まぁっ」
クリスは両頬に手を当てて、少しうつむいた。
「さぁっ、この薔薇できみの美しさにいろどりを添えておくれっ」
望は肩口のオカメちゃんから、1本のバラを受け取ると、それをクリスの髪に差した。
「…うれしい―…」
しばし見つめあう望とクリス。
毎朝、これだもんねっ、はぁ。
クリスは超名門女子高に推薦入学が決まった。
望は私立高校―今年から共学に変わったらしい―を受けるという。
そんなところだから、入試も簡単だといううわさだ。
このふたりも、進路にあまり心配はないらしい。
だからというわけではないだろうが、毎日この調子だ。
「おまえら、遅れるぞっ」
彷徨のひと言で、望とクリスは我に帰った。
「そ、そうですわね」
「ん〜、じゃあ行こうか〜」
毎朝この調子だが、それでもパターン化してきたのか、だいたい道中のどのあたりで誰に出会うかというのは決まってきている。
もう少し進んだ、この角を曲がったあたりで三太が現れるはず…。
確かに三太はいた。
しかし、となりに、女の子。
4人とも、言葉が、ない。
「だれだ、あれ?」
誰に言うともなく、彷徨はつぶやいた。未夢もクリスも、見た覚えがない。
「2年2組の佐倉涼子ちゃんだねぇ〜」
望は即答した。
彷徨は苦笑いをした。
未夢は感心して言った。
「光ヶ丘くんって、カオひろいんだね―…っ」
「ちがうよ未夢っち、」望は得意げにバラを掲げて言う。「ぼくは校内の女子すべての名前とカオを暗記しているのさぁ〜っ!」
聞くんじゃなかった。
望は時として、場所と場合をわきまえてくれないことがある。
いま、この瞬間も、そうだった。
「望くんが校内の女子すべてを覚えてる…
やぁ涼子っち、今日もかわいいね…
そう言ってバラの花を差し出された女子は、もう望くんに夢中…
それもひとりやふたりじゃなくて…」
「おい、なんか声がまた太くなってきてるぞ…」
「ちょっとクリスちゃん?悪い冗談はもういいよ…っ?」
彷徨と未夢の呼びかけにも、クリスは全く応じない。
「せんぱい、クリスマスのご予定は?…
ああ、一応あるけど、美しい君たちのためなら何とか都合するよ…
そして女子達に囲まれてクリスマスを過ごし…そのまま…
なんて、」
「おいっ、望、なんとかしろっ」
彷徨も焦り始めた。
望はほほえましく見ている。
「ん〜、でも最近クリス、運動不足を気にし始めてたからなぁ〜」
「そういう問題かっ!!!」
「しかたないなぁ〜…」
「いっやぁ」
クリスは最終段階に入りかけていた。いまにも電柱が引き抜かれそうだ。
そんなクリスのあご先を、望は人差し指でそっと持ち上げた。
「ばかだなぁクリス、そんなことあるわけがないじゃないか…
ぼくはクリスマスを、きみだけと一緒に過ごすんだ」
「あっ…あら、わたくし、どうかしておりましたかしら」
毎回の事ながら、未夢は聞いていて、歯が浮いた…が、彷徨の方をちらと見た。
「あ〜、女の子ってああいうこと、言われてみたいよねぇっ」
彷徨は歩き始めると、ひと言で返した。
「単純」
「どーせっ、単純で悪かったわねっ!」
彷徨の頭の後ろで組まれている両手に向かって、思い切り舌を出してみた。
ずっと向こうの三太のほうを見ていて、彷徨は気づいていない。
未夢も、その目線を追ってみた。
ふーん、三太くんも佐倉さんも、楽しそうじゃない。
結構、いー感じかもねっ。
つきあいはじめたのかな?
そんな話、聞いた事なかったけど。
そのとき、彷徨のつぶやきが聞こえた。
「あいつ、いーのか…」
その言葉が気になって、聞いてみる。
「なにが?」
「いや…」としか、彷徨は言わなかった。