夏の日の夕暮れ時・・・。
陽が沈んでから漆黒の闇が訪れるまでの、時間の海のような蒼い時・・・。
しん、と静まり返った校舎の廊下を、未夢と彷徨は歩いていた。あまりにも静かすぎてなんだか居心地が悪く、気を紛らわせるように、未夢は彷徨に声をかけていた。
「すっかり遅くなっちゃったね」
「だから、委員会が終わるのを待ってなくていいって言っただろ?」
返ってきた彷徨の声には、ため息がまじっている。
「べ、別に彷徨を待ってて遅くなったわけじゃないわよ!」
なんとなく、「彷徨と一緒に帰りたかった」・・・なんて言えなくて、赤くなりながら、未夢はいいわけをする。
「だって、綾ちゃん、大変そうだったんだもん。演劇祭の準備がいそがしいらしくて・・・」
それを手伝ってただけで、彷徨のことなんてこれっぽっちも考えてなかったもん!・・・、未夢はそう自分に言い聞かせていた。
「彷徨と帰りたかったわけじゃないわよ! 誤解しないでよねっ!」
・・・本当は彷徨と一緒に帰りたくて、綾の手伝いをしながら待っていたのに。
でも、関係ないと自分に言い聞かせてはみたものの、彷徨の反応が気になって、ちらっと横目で盗み見る。・・・が、彷徨の表情には何の感情もない。まるで、「あ、そう」と流して、未夢のことなんかこれっぽっちも気にしてないぞと言っているように受け取れる。
(待ってること、なかったかな・・・)
少しくらい、うれしそうな顔してくれてもいいじゃない・・・。
でも、こう思うのって、私が彷徨のこと意識してるみたいよね・・・。そ、そんなことないわよ。彷徨のことなんて、なーんとも思ってないもん!
矛盾する自分の気持ちにとまどいながら、未夢は彷徨の後をついて歩く。
(彷徨、歩くの、速い・・・)
うらめしそうに彷徨の背中をにらんで、未夢はふっと表情をくもらせた。
やっぱり彷徨は、私のことなんて、なんとも思ってないんだ・・・
*****
靴をはき替えて校舎の外に出ると、外はすっかり陽が落ちて、蒼い闇がひろがっていた。
「なんか、不思議だね・・・」
暗い気持ちで外に出たけれど、いつもとちがう幻想的な雰囲気に、未夢の心は奪われていた。
「何が?」
「見慣れた校庭なのに、いつもとちがって見える・・・」
不思議な蒼い闇・・・。
「今の時間って、火灯し頃(ひともしごろ)って言うんだろ?」
興味がなさそうに、彷徨が答える。
「火灯し頃・・・」
立ち止まって刻一刻と薄暗くなる空を見上げている未夢を置いて、彷徨はさっさと歩き出した。
「待ってよ、彷徨!」
「未夢がとろいんだよ!」
振り返りもせず、彷徨が言葉を放つ。
むっとして、未夢は彷徨の後を追い、持っていたかばんを彷徨めがけて振り回した。
「なによっ! 彷徨のバカッ!」
そんな未夢の行動はお見通しだったのか、彷徨はひょいと未夢の一撃をかわして、何事もなかったかのように歩き出した。・・・その瞬間、
「きゃっ!」
未夢は体勢を崩してあわや地面に衝突・・・する寸前に、それに気づいた彷徨が未夢を抱きかかえたが、その彷徨もバランスを崩して、二人はどさりと地面に倒れこんだ。
「・・・いった〜い」
体を起こしかけた未夢と、未夢をかばうように、未夢の下敷きになった彷徨の目が合った。
(・・・彷徨?)
一瞬、未夢の目に映った無表情な彷徨は、何故か、知らない人のように見えた・・・。
「・・・未夢、重い」
どいてくれと言わんばかりの彷徨の口調に、未夢ははっとして、あわてて体をよけた。
「ご、ごめん」
「怪我は?」
「え? あ、だいじょうぶ・・・」
制服についた汚れを払い、彷徨はそれ以上未夢に声をかけることもなく、さっさと歩き出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
未夢はあわてて声をかけたが、彷徨は未夢の存在を忘れてしまったかのように、足早に歩いていく。
・・・だんだん、彷徨の背中が遠ざかっていく。
それなのに、未夢はそこから動くことができなかった。
(なんで、知らない人みたいに見えたんだろ・・・)
彷徨がそっけないのはいつものことなのに、今日はことさらそれがこたえる。隣を歩いていても『関係ない』と壁を作られているようだった。そのうち、彷徨はどんどん先を歩き出して・・・
未夢の表情がこわばっていく。
彷徨が知らない人のように見えたのは、きっと彷徨の目が『未夢なんてオレには関係ない』と言っていたからだ・・・。
(わたしが彷徨を待ってても、彷徨にはそんなのどうでもいいことで・・・)
未夢の目に涙があふれてくる。
(彷徨には、迷惑なだけだった・・・?)
そう思えば思うほど、悲しい気持ちになる。
まるで深まっていく夜の闇のように、未夢の心も、暗く、重く閉ざされていく。
分からない。・・・自分の心が、分からない。
彷徨のことなんて、なんとも思ってないはずなのに。
だけど、彷徨に冷たくされることが、どうしてこんなに悲しいのだろう。
彷徨の心のなかに、自分の存在なんてこれっぽっちもないのだと、そう思えば思うほど、未夢はそこを動くことができなかった。
もう、彷徨の姿は、見えない・・・。
*****
「あれ? 光月さん?」
はっと振り返ると、三太が首をかしげて立っていた。
「さ、三太くん、遅かったんだね。陸上部の練習?」
何事もなかったかのように、とっさに未夢は明るく三太に声をかけた。
「陸上部の後、新聞部にも顔出してたら遅くなったんだけど・・・。大丈夫? 手、かそうか?」
座り込んだままの未夢を不思議そうに見ながら、三太は手をさしだした。
「あ、あはは、ころんじゃって。私ってほんとドジだから」
ありがとう、と、未夢は差し出された手をとろうとして、三太の不審な行動に目をとめた。
「どうしたの、三太くん? きょろきょろして・・・」
「・・・? 光月さん、彷徨は?」
「か、彷徨なら先に帰ったんじゃないの?」
関係ないわよ!と言わんばかりの未夢の言い方に、三太はまた首をかしげる。
「おっかしいな〜。どう見たって光月さんを待ってるみたいだったのに・・・」
三太の言葉に、え?と未夢が目をみはった。
「そ、そんなわけないわよ、三太くん! 彷徨なんか一緒に住んでるってだけで、別に何の関係もないもん! それに、私、待っててほしいなんてひと言も言ってないわよっ!」
そうよっ! なんだかだんだん腹が立ってきた!
なんで彷徨に冷たくされなきゃならないのよ! そ、そうじゃなくてっ、私、なんでそんなことに怒ってるのよ・・・。か、彷徨なんか関係ないわよっ!
『ぷんぷん』という効果音が似合いそうな未夢の口調に、三太は未夢の手を取ったまま、未夢と同じように座り込んで反論を始めた。
「間違いないって、光月さん。ぜったい彷徨は光月さんを待ってたんだよ!」
「ど、どうしてそんなふうに言い切れるの?」
「じゃあさ、委員会が終わってるのに、彷徨のやつ、なんで帰らないで教室に残ってたんだ?」
「・・・忘れ物でも取りに戻ったんじゃないの?」
つーんとして言い放つ未夢の言葉に、三太はさらに反論する。
「自分の席に座って本を読んでたんだけど・・・」
それでも忘れ物だと言い張る?・・・三太の目はそう言っていた。
「で、でも、私がかばんを取りに教室に入ろうとしたとき、ちょうど彷徨が教室を出ようとしてたのよ? だから私を待ってたわけじゃないわよ」
「それはきっと光月さんの様子を見に行こうとしてたんだよ」
「な、なんで三太くん、そう言い張るの?」
「だって、新聞部による前に廊下で彷徨に会ったとき、光月さんがどこにいるかきかれたんだ」
「・・・え?」
「帰ったんじゃないのかって言ったら、かばんがあるからまだ校内にいるはずだ・・・って」
「・・・」
「光月さん、ちゃんと彷徨のこと待ってるなんて、なんかうらやましいよな〜って言ったら、『ほんとうに待っててくれたのかな』なんて言うからさ・・・」
「・・・」
「彷徨を待ってる以外に、学校に残ってる理由なんてないだろ?って言ったら、『そうかな?』って照れてたんだよな〜、あの彷徨が!」
「・・・」
「おれ、彷徨とはつきあい長いけど、あんな顔した彷徨を見たの、初めてかもしれない」
・・・未夢の胸がきゅんとなる。
「だからさ、彷徨のやつ、光月さんが戻ってくるまで待ってるんだろうな〜って思ったんだ。それに、おれ、新聞部によってから忘れ物に気がついて、いちど教室に戻ったんだけど、そしたら彷徨が本を読んでた」
「きっと光月さんを待ってたんだよ。だから、彷徨のやつ、ぜったい光月さんをおいて帰ったりしないって!」
真剣なまなざしでぎゅっと手をにぎられて、未夢は三太の言葉を信じはじめていた。
「でも・・・」
だったら、彷徨は、なぜあんなに不機嫌そうだったのだろう。
だったらどうして、あんなに冷たい態度をとったのだろう・・・。
「でも、彷徨は、ほんとうに先に帰ったのよ・・・」
ぎゅっと未夢の手をにぎる三太の手に、涙がつっと落ちた・・・。
*****
「泣くなよ・・・」
はっとして、未夢は声がするほうを見上げた。
「彷徨・・・」
「彷徨〜、おそいよ〜」
慌てて走ってきたのだろうか? 彷徨は肩で息をしていた。
「てっきりついて来てると思ってたら・・・。まったく、オレをここまで慌てさせるなんて、未夢くらいなもんだけどな・・・」
目の前にいるのは、ほんとうに彷徨なのだろうか・・・、未夢は、ただただ彷徨を見つめるばかりだった。
「・・・もしかして、邪魔した?」
未夢の手をにぎる三太をちらりと見て、彷徨が冷たく言い放つ。
「ご、誤解だっ、彷徨っ!」
あわてて未夢の手をはなし、三太は彷徨に詰め寄った。
「彷徨! 光月さんが泣いてるのは、おまえのせいだからなっ!」
「な、なんでオレのせいなんだよ・・・?」
言い返す彷徨を無視して、三太は未夢を振り返り、にっこり笑った。
「ほらね、光月さん。彷徨が光月さんをおいて帰るわけないだろ?」
こくん、とうなずいた未夢を見て、三太はほっとしたようにかばんを持ち直した。
「じゃ、おれ帰るよ」
「お、おい、三太、おまえ未夢に何を話してたんだ?」
「何って、見たまんまのこと。じゃあなっ」
これ以上はかんべんと言いたげに、三太は猛ダッシュでその場を去っていった。
あとには、まだ座り込んだままの未夢と、困惑した表情を浮かべる彷徨だけ・・・。
・・・気まずい雰囲気にたえきれず、半ば祈るような気持ちで、未夢は口を開いた。
「・・・心配、してくれたの?」
未夢の問いかけにため息をつきながら、彷徨が腰を下ろす。
「なんで心配しないなんて思うんだよ?」
「だ、だって・・・」
(彷徨は、私のことなんてどうでもいいんでしょ?)
未夢はそう答えようとしたが、この言葉を言ってしまうと、自分はもう一生このまま動けないような気がして、黙ってしまった。そして、彷徨もまた、未夢に何と言葉をかけていいのか分からなかった。
二人は口をつぐんだまま、目を合わせることもなく、校庭に座り込んでいた・・・。
どれくらいそうしていたのだろう。
あたりはすっかり暗くなっていた。
そんななか、静かに灯る街の明かりが、なんとなく安堵感を与えてくれる。
(ちゃんと、言わなきゃ・・・。私、ずっとこのままなんて、いやだもん・・・)
黙ったままでも、彷徨がそばにいてくれることが、未夢にはうれしかった。
(ほんとは彷徨を待ってたんだって、言わなきゃ。でないと、私、このままずっと彷徨の前で素直になれなくなってしまう・・・)
決心して、未夢は彷徨に向き直った。
「彷徨、あの、あのね、私・・・」
彷徨の目が、緊張したように未夢を見た。
「私、ほんとうは・・・」
言葉にしていいのだろうか・・・。未夢はためらった。自分の気持ちが分からないまま、言葉にしていいのだろうか。でも、言うなら、今しか・・・
「私・・・、私、ほんとうは・・・」
すっと、彷徨の手が、未夢の口をふさいだ。
「!」
「待ってて、くれたのか・・・?」
真剣な、どこか緊張した彷徨の目を見て、未夢は不思議と素直にうなずいていた。
その瞬間、彷徨の目からすっと緊張の色が消えた。
そして、彷徨の手が、そっと未夢の頬をつつみこんだ。
「・・・彷徨?」
ふっと彷徨が目を伏せた。落ち込んでいるようでもあり、あやまられているようでもあり・・・、ほっとしたようでもあると、未夢の目には映った。
そっと、彷徨は未夢から手を離した。
「彷徨・・・?」
ふいに彷徨が立ち上がった。
「帰ろう、未夢」
うながすように差し出された彷徨の手に、ためらいがちに未夢の手が重ねられる。
「きゃっ!」
ぐっと未夢の体がおこされる。
立ち上がったもののバランスを崩しそうになった未夢を、彷徨が支えた。
その瞬間、二人の目が合った。
彷徨の未夢を見る目は、もう他人ではなかった。
「ごめん・・・」
「ごめんなさい・・・」
どうして、あんなに意地を張っていたのだろう・・・。
ほんとうは彷徨を待っていたのに、そのことを素直に言えなかった・・・。
「けっこうショックだったな・・・」
彷徨のつぶやきが聞こえた。
「オレのことなんか、どうでもいいって言われてるみたいで・・・」
「・・・!」
「お、おい、未夢っ?」
同じだった。彷徨も未夢と同じだった。同じことを感じていたと知って、未夢はおもわず彷徨に抱きついていた。
そんな気持ちが通じたのか、安心したようにふっと笑うと、彷徨もそっと未夢を抱きしめた。
未夢の心に灯された、「彷徨」という明かり。彷徨の手が自分の前に差し出されたあの瞬間、未夢は暗く沈んだ自分の心に、明かりが灯ったのを感じていた。決して消えることのない、心のなかの「彷徨」という明かり・・・。
そして、きっと彷徨の心にも、「未夢」という明かりが灯っている。
だって・・・
未夢を抱きしめる腕がやさしいから・・・。
未夢の髪をなでる手がやさしいから・・・。
未夢を見つめる目が、やさしいから・・・。
どうして、こんなにうれしいのだろう。
どうして、こんなにあたたかい気持ちになれるのだろう。
彷徨の腕の中は、どうして、こんなに、安心できるのだろう・・・。
今なら、自分の心のなかも分かる気がする。
きっと、この明かりが灯った瞬間に、私は・・・
いとおしむように、未夢は「彷徨」を抱きしめた。
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