作:英未
月を見て、未夢がため息をつく。ルゥとワンニャーが西遠寺を去ってから、幾度となく目にした姿。
「そうやって月を見てため息ついてるなんて、まるでかぐや姫だな」
そう言った彷徨の声も耳に届かないようで、未夢はぼんやりと月を見上げている。
そんな時の未夢は要注意だと、彷徨は思った。
(また、そうやってひとりで抱え込むんだ・・・)
長い・・・とも言えないが、短い付き合いでもない。出会った頃は、未夢が何をどう感じ、どう考えているのかなんて、想像もつかなかった。けれど今は、なんとなく分かる。いつもめちゃくちゃ元気がいいけれど、本当はさびしがり屋。いつもおせっかいばかりやいているけれど、それはやさしさがそうさせている。明るくてよく笑う、あたたかい少女。それが未夢。でも時折、こんな風にふっとさびしげな表情を見せる。きっと本人には自覚がないのだろう。みんなの前では、いつも明るく笑うのだから。どんなときでも、無理をしてでも、未夢は笑ってみせる・・・。それが未夢のやさしさだから。でもそのやさしさが、時折鋭く胸を突き刺している。彷徨の胸も、未夢自身の胸も・・・。
未夢は今何を考えているのか・・・。多分、それは彷徨が今もっとも聞きたくない言葉。
『さよなら、彷徨―――――』
覚悟はしている。もとの生活に戻るだけだ。・・・でも、本当にそうだろうか? あの頃は知らなかったことを、今では知っているのに・・・。
『信じらんないっ! 彷徨って本当にデリカシーがないんだからっ』
(・・・今じゃ少しはマシになっただろ?)
『彷徨って、どうしてそうイジワルなのっ?』
(・・・少しは女の子の扱い方に慣れたと思うけど?)
『離れたくないっ、離れたくないよっ!』
彷徨の胸が痛む。初めて、未夢が彷徨の腕の中で泣いた。それまで未夢が、誰が見ても分かるくらい無理して笑っていたことが、彷徨にはつらかった。けれど、自分の腕の中で肩を震わせて泣く未夢に、なんと声をかければよかったのだろう。どうすれば、未夢の心からの笑顔を見られるのだろう。もしこのまま何も言わず別れの時を迎えたら、未夢はまた無理に笑顔を作るだろう。きっと、さよならを言うその瞬間さえ、無理して笑おうとするのだ・・・
「バカ未夢・・・」
(彷徨とお月様を見てからって思ったこと、やっぱり良くなかったかな・・・?)
月を見上げて、未夢は何度目かのため息をついた。満月の日に、ルゥとワンニャーはオット星へ帰って行った。そして自分も、帰る時は彷徨と月を見てからと決めていた。でも、それはつらい選択ではなかっただろうか。この先、月を見るたびに、別れを思い出すのではないだろうか。本当の家族のように過ごした自分たちの別れを・・・。
大丈夫。きっと大丈夫。温泉に入ろうとして山の中で動けなくなった時だって、二人で月を見上げた。あの時の彷徨の存在は、未夢をどんなに安心させたことか。それは今でも変わらない。変わらないからこそ、笑って彷徨にお別れを言うのだ。自分の心の中に、いつもそんな彷徨がいるから・・・。
『大丈夫。お月様が彷徨の代わりに守ってくれるから―――――』
そう彷徨に告げることで、自分自身の心を決めるつもりだっだ。そうでもしなければ、心を決められないから・・・。
『離れたくないっ、離れたくないよっ!』
・・・あの時、初めて彷徨の腕の中で泣いた。我慢するなと言われて、涙が止まらなかった。仕方がないこと。もとの生活に戻るだけ・・・。何度自分に言い聞かせても、耐えられないと叫ぶ自分がいた。あの頃と違って、今ではもう彷徨のやさしさもぬくもりも知っているから・・・。だから心を決められないのだ。
たしかに、自分の心の中の彷徨の存在は安心感を与えてはくれるけれど、離れ離れになってしまったら、彼のやさしさもぬくもりも、肌で感じることは出来ない。そんな感覚を忘れたくない。そして自分のことも、忘れてほしくない。いつもそばで見ていたい。彷徨と、離れたくない―――――。
「未夢、いい加減にしないと風邪ひくぞ」
彷徨の声に、未夢は元気よく答える。
「うん、もうちょっとだけ、ね?」
思い悩んでいると思ったのは気のせいだったかと思わせるような明るさに、彷徨は未夢の心を量りきれないでいた。でも、心なしか、声が震えているように感じる。このまま放っておいたら、また一人で泣くのではないだろうか・・・。
「ルゥたちも、こうやって夜空を眺めているんだろうな」
そう言いながら、彷徨は未夢の隣に腰を下ろした。
「お月様を、じゃなくて?」
「オット星に月ってあるのか?」
「・・・きっとあるよ。きっと・・・」
そう、思いたい・・・、そんな未夢の気持ちを汲んで、彷徨は何も言い返さずにいた。
・・・沈黙が続く。こんなに近くにいるのに、交わす言葉がみつからない。
こんなこと、今までなかったのに・・・。
お互いの心に、不安ばかりが広がっていく。
「こうやって、何度も彷徨と一緒にお月様を見たよね」
ふいに、彷徨にむかって未夢が笑いかけた。
「西遠寺に来るまでは、お月様を見たって単に見てるだけだったけど・・・」
ちょっと考えるように未夢は彷徨から視線をそらすと、また月を見やった。
長い髪がさらさらと揺れる。月に照らされた未夢の肌は抜けるように白い。愁いを帯びたその横顔は、見ているこちらまでもが切なくなる・・・。そんなふっと消えてしまいそうな儚さに、彷徨は思わず未夢を抱き寄せた。
「ちょっ、ちょっと、彷徨っ・・・」
「・・・るかと、思った」
「え?」
彷徨の腕に、力がこもる。
「未夢が、このまま消えるかと思った・・・」
「彷徨・・・」
お互いに黙ったまま、目を閉じていた。お互いの鼓動が聞こえる。お互いのぬくもりを感じる。いつも近くに感じていたい・・・。それは願ってはいけないことなのだろうか。
((離れたくない!))
「彷徨・・・」
「ん?」
「私、ちゃんとママたちのところに帰るね・・・」
彷徨の腕の中で、未夢が淡く笑いかける。
「・・・そうか」
覚悟はできているはずだったのに、いざその言葉を聞くと、どうしようもなくうろたえてしまう自分が情けない。 未夢が自分に心配をかけないようにと懸命に笑おうとしているのに、これでは未夢のやさしさを無駄にしてしまう。
「さびしくなったら、いつもお月様を見るから・・・」
「お月様・・・?」
「ん、西遠寺に来て、彷徨やルゥくんたちとよく見てたでしょ。離れ離れになっても、お月様がちゃんと見守ってくれるから・・・。彷徨の代わりに、ね?」
「未夢・・・」
痛々しく笑いかける未夢を見るのが、彷徨にはつらかった。
「もうすぐ、『さよなら』なんだね・・・」
一瞬、彷徨は息が出来なかった。
(『さよなら』・・・? ちがう、絶対ちがう!)
彷徨が苦しそうに息をする。
ちがう、ちがう!、ちがう!! どんなに強く否定しても、情け容赦なく『さよなら』という言葉が頭の中をグルグルとまわる。
「・・・じゃない!」
「彷徨?」
「未夢、『さよなら』じゃない。オレたちの別れは、絶対『さよなら』じゃないっ!」
つぅっ、と涙が未夢の頬を涙が伝い、未夢はあわてて顔をそむけた。
「未夢?」
はっと我に返る彷徨を押しとどめるように、未夢はなんでもないと手を挙げる。
「大丈夫、大丈夫だから」
「・・・そんな時の未夢の大丈夫は、あてにならない」
驚いたように、未夢が涙をためた瞳で彷徨を見つめる。
未夢はいつもそうだ。泣きそうになるのを我慢して、必ず言うのだ、『大丈夫』と・・・。
ぽたりと涙が落ちる。
「我慢しなくていい」
ぽたりと、また涙が落ちる。
「オレの前では、我慢しなくていいから・・・」
ぽたぽた、ぽたぽたぽた・・・
「わ、私、ほんとは・・・」
言葉にならず、未夢は嗚咽の声をあげていた。
((心が痛い・・・))
今の未夢の姿も、未夢と離れてしまうという事実も、すべてが鋭い棘となって彷徨の心に突き刺さる。こんなにもろい未夢を見るのは初めてだった。いつもあんなに笑っているのに、一人その笑顔の下で、どれだけ涙を流していたのだろう。
「未夢・・・」
少し落ち着いてきた未夢に、彷徨が声をかける。
「未夢、行っといで」
「かな、た・・・?」
まだ涙が乾ききらない瞳で、真意を測るかのように未夢が彷徨を見つめる。
「未夢、行っといで。そして、またここに、西遠寺に帰って来い」
「ここに、帰ってきて・・・いいの・・・?」
ふっと笑ってうなずくと、彷徨は、ゆっくり言葉をつむいだ。
「未夢、行っといで。だけど、大人になったら、必ず西遠寺に帰って来い。そのかわり、帰ってきたら・・・、もうどこにも行くなよ?」
テレを隠すかのように、彷徨はいきなり未夢を抱きしめた。
「かな、た・・・」
「お、おい、未夢っ」
また泣き出す未夢に驚いて彷徨は慌てて未夢を離したが、逆に今度は未夢に抱きつかれて、普段の冷静さはどこへいったのか、彷徨はめずらしく慌てふためいていた。
「みっ、みゆっっ?」
「うれしいの・・・」
「みゆ・・・?」
「彷徨にそう言ってもらえてうれしいの」
「未夢・・・」
彷徨がやさしく未夢の髪をなでる。
『うれしい』と未夢が言う。その一言が、彷徨の心に突き刺さった棘を、消し去っていく。
(ずっとこうしていたい・・・)
「彷徨、ありがと」
ゆっくりと彷徨から体を離して、未夢が笑いかける。
「『さよなら』じゃないって、『行っといで』って、言ってくれてありがと」
返す言葉が見つからず、彷徨はそっと未夢の髪をなでる。
「『西遠寺に帰って来い』って、言ってくれてありがと」
儚げに映る未夢の姿が彷徨の心に焼き付いて、これから先どれほどの時間をこんな気持ちで過ごさなくてはいけないのかと、彷徨の心に冷たい風が吹いていた。
しばらくおしだまったまま、二人は視線をかわしていたが、お互いの視線に確かな約束のようなものを感じ、少しずつ安堵感を覚えていた。
「彷徨、あ、あのね、え・・・と・・・」
ためらいがちに様子を伺うかのような未夢の視線に、彷徨はいつもの未夢が目の前に現れたように思えて、なんとなく落ち着きを取り戻していた。
「何?」
「あのね、帰って来いって言われるのもうれしいけど、えと、その・・・」
「何だよ?」
「できたらね、その、彷徨の方から・・・」
「オレの方から、何?」
にやりと笑う彷徨を見て、未夢がいつもの反応をする。
「信じらんないっ! わかってるくせにっっ!」
ぷぅとふくれる未夢を見て、おもわず彷徨は笑い出した。
「おまえ、さっきまであんなに泣いてたくせにっ、すっかりいつも通りじゃん」
肩を震わせて笑う彷徨に、さらに未夢はふくれっつらをする。
「もういいわよっ、彷徨になんか頼まないからっ!」
「それは困る」
そう言いつつも彷徨はにやにや笑っている。
「で、お願いは何かな? かぐや姫?」
「わかってるくせにっ/////」
「わかってても未夢の口から聞きたい」
彷徨はいつものごとくいたずらっ子のように舌を出して、しれっと言ってのける。
「・・・信じらんない/////」
(私、一生彷徨にはかなわないんじゃないかな・・・)
未夢はため息をつきつつも、なんとなくうれしい気分で顔を上げた。目の前には彷徨の顔。
「で、な・に?」
あまりの彷徨のアップにめまいを覚えて、未夢の心臓はさらに加速していた。
「・・・彷徨が」
「オレが?」
「・・・迎えに来てくれたら、うれしいなぁって・・・」
意味ありげに、彷徨が未夢を見つめる。
「迎えに来てほしい?」
(え、まだ言わせるつもりっ?)
にやにやと笑いながらも期待のこもった瞳で見つめ返してくる彷徨を見ると、未夢は体温が急激に上がったように思えた。
(や、やだ、顔がむちゃくちゃ熱い・・・)
「未夢?」
(もうっ、彷徨のイジワルッ!)
はずかしくて彷徨の顔をまともに見られず、それでもなんとか上目遣いに彷徨を見ると、未夢は消え入りそうな声でお願い事を言った。
「・・・む、迎えに来て・・・。お願い・・・」
その言葉を聞くと同時に、彷徨は破顔した。未夢はというと、もうこれ以上は無理だろうというくらい真っ赤な顔をしている。
「未夢っ、手だして!」
ワケが分からず手を差し出すと、彷徨はその手のひらにそっと口づけた。
「大人になってオレが迎えに行くまで、ちゃんと待ってろよ?」
そして、ちょっと甘えるように付け加えた。
「だけど、それまではちょくちょく西遠寺へ遊びに来いよな」
そんな彷徨があまりにもかっこよくてかわいくて、未夢はもう気を失いそうだった。
「・・・未夢、落ち着いたか?」
誰のせいでこんなに心臓がバクバク言ってると思ってるの! そう言いたい気持ちを、未夢は押しとどめていた。こんな時、彷徨には絶対かなわない。彷徨に視線を移すと、思いっきり目が合った。またドキドキしてくる。
(でも・・・)
ふっと未夢の表情が曇る。
(離れてしまったら、こんなふうに目を合わすこともないんだ・・・)
そんな未夢の心を見透かすかのように、彷徨がそっとつぶやいた。
「『さよなら』じゃないから・・・」
「うん」
「絶対迎えに行くから」
「うん」
「ちゃんと待ってろよ?」
「う・・・ん」
また涙が溢れそうになって、未夢はあわてて視線をそらせた。
「しまったな」
「・・・?」
「未夢にもう一回『迎えに来て』って言わせればよかった」
「な、なんでよっ!」
「何度でも聞きたいから」
(か、彷徨って、なんでさらっとこういう台詞が言えちゃうわけ???)
「それに、さっき手にキスした意味、わかってないだろ?」
「え? 意味って、あるの・・・?」
やっぱり、というようにため息をついて、彷徨はちらっと未夢を見やる。
「聞きたいか?」
聞くのも怖い気がするが、気になって未夢はこくこくとうなずいた。
「じゃ、耳かして」
そういって、彷徨はそっと未夢に耳打ちした。え?と未夢の顔が赤くなっていく。
「もちろん・・・」
にやりと笑うと、彷徨は念を押すようにゆっくりと口を開いた。
「ちゃんとオレの迎えを待ってるっていうことは、そのあとのこともOKってことだよな?」
「そのあと・・・って」
「ずっと西遠寺に、オレのそばにいるってこと」
かぁぁぁぁぁ―――――と未夢の顔が一気に赤くなった。
「だから、安心して行っといで、未夢」
打って変わってやさしい表情でささやく彷徨に、未夢は真っ赤になりながらも、安堵に満ちた瞳で答えていた。
「行って来ます、彷徨」
ちゃんと彷徨が迎えに来てくれるから・・・。『さよなら』なんて言わない。
また西遠寺に帰ってきたら、もう彷徨の側を離れない。
あんなふうに彷徨にお願いされたのって、初めてだね・・・。
未夢の脳裏に、彷徨の言葉がよみがえる。
『手の上なら 尊敬のキス
でも手のひらなら 懇願のキス
大人になったら必ず迎えに行くけど、それまではちょくちょくここに遊びに来いよな。』
「・・・うん」
そっとつぶやいて、未夢はいとおしむように手のひらを見つめた。そんな未夢に、彷徨がゆっくり顔を近づける。
『未夢、行っといで』
『行って来ます、彷徨』
それが未夢と彷徨の、別れの言葉・・・。
だぁ!最終回で、「行っといで」と彷徨が言ったとき、彼らしい別れの言葉だと思いました。その言葉を使いたくて書いたストーリーがこれです。
別れのつらさの中にも二人のしあわせな「未来」が見える・・・、そんな雰囲気を感じていただければうれしいです。