珪孔雀石

2,

作:あゆみ



珪孔雀石 (クリソコラ) Chrysocolla  信じる心





未夢は、俺の元に駆け寄って、行かないでと叫んだ。
俺は一瞬、抱きしめてしまいたくなった。

だけど……だめなんだよ……未夢。


「お願い、未夢……聞いて……」

何を言っても、「嫌」だって、「行かないで」って言う未夢の顔を見て
俺はまた、呼吸が止まりそうになるくらい、窒息しそうなくらい、苦しくなった。

でも、だめだ……戻れない。


「未夢……」
「やだ……一緒にいる」

「未夢!」
俺は思いっきり怒鳴った。

未夢はビクッと体を震わせて、やっと大人しくなった。
どうしたら分かってもらえるんだろう。傷つけたのは俺なのに。
だけど、これ以上傍にはいられないよ。

「ごめん、未夢……勝手だって分かってる。でもこうするしかないんだよ」

「や……だ」
それでも涙を流しながら、懸命にしがみついてくる。

「未夢、そのスケッチブックの最後見た?俺は愛してた、って書いた。
過去なんだよ?分かる?」

「いや……行かないで……」
俺がそう言っても、俺にしがみつくようにして離れない……お願いだよ……分かって。

「未夢、俺はもう、あんたと一緒にいたくない。振り回されたくない。疲れたんだよ、俺は」
こんなこと言いたくなかった。
だけどそう言うしか納得してもらえる言葉が見つからない。

「どうして……」
未夢は涙をボロボロこぼしながら俺を見る。
俺は本当に……その場で身が滅んでしまうんじゃないかと思うほど、……辛かった。

「だから、もう一緒にいれない。それに未夢だって、寂しかったから一緒にいたんだろ」
「ちがう――!」

お願いだから、分かってほしい……。
俺はもう未夢が泣いても、悲しんでも抱きしめてあげれない。そんな権利なんかない。

「さよなら……」
「やっやだ……行かないで」

俺は、しがみついた未夢の腕を思いっきり振り払った。そうでもしないと……離れないから。
後ろを見ることが出来ない。未夢の泣き顔を見れない。なんで俺はこんなことしてるんだろう。
あの夜はやっぱり間違いだった――

俺は、ものすごく後悔をした。最初からあの夜がなければこんなことにはならなかったのに。
俺が振り払って後ろも見ずに歩き出すと、未夢の嗚咽混じりの泣き声だけが、こだましてきた。


これでいいんだよ……これで……ごめんな、未夢。

俺はそのまま飛行機に乗った……。




******




どんなに嫌だって言っても、どれだけ行かないでって言っても、抱きしめてくれなかった。

「未夢、俺はもう一緒にいたくない。振り回されたくない。疲れたんだよ、俺は」
そう言われてあたしはショックを受けた。

それでもしがみつくあたしの腕を思いっきり振り払って、怖い顔をして「さよなら」
そう一言だけ言って去っていく彷徨を、あたしは見送ることしか出来なかった――
そんなにあたしが邪魔なのかな……そんなにもう嫌いになったのかな。


あたしはただ、その場で泣くことしか出来なかった。
ずっと遠のいていく、愛する人の背中を見送って――


空港が嫌いになりそう――


あたしはしばらくその場で泣き続けると、本当に涙が枯れてしまったんじゃないかと
思うくらい、からからに喉が渇いた。心の中にも冷たくからからの風が吹き抜ける。
大事なものがなくなった。からっぽの心のまま、あたしはどうやって生きていけばいいんだろう。


いつも空港で、あたしは大事な人を見送った……辛い思い出しかない。
どんな時も……前だって、もういいや……どうでもいい。



******



―――どうして、あたし達はあの時、再会してしまったんだろう。

出会わなければ、こんなに苦しい別れもなかったのに。
別れる運命にあるのならば、出会わなければ良かった。

会いたい想いのまま……、会えない時間の方がよかった……こんなことなら。

あたしは、そのまましばらく空港で時間をつぶした。帰りたくなかった、動けなかった。
それから、家に帰ってくると、瑞樹さんはまだ帰ってきていなくてほっとした。

スケッチブックと、ワンピースを眺め、またベランダでひとりでポツンと月を見上げた。


彷徨……寂しいよ……。

全部、幻だったのかな。一緒に過ごした時間。
こんな気持ちのまま、忘れることなんかできないよ――



******



それから1ヶ月、2ヶ月……、無気力のまま時間だけが過ぎて行った。
来る日も来る日も、あたしはスケッチブックとワンピースを眺めた。

ベランダの星空の下……。

つまらない毎日、会話のない家族、窮屈で息苦しい。
あたしはもう本当に死んでしまおうかと思った。

「お前のためだったら何でもしてやるから」
と、言って、瑞樹さんもあたしのそんな様子に最初は元気付けてくれようとしたり、
時には苛々して怒鳴ったり、それでも何も言わないあたしに、愛想を尽かした。

あたしは、瑞樹さんの腕を振り払い、無理やり、この家を飛び出した。

「別れないからな!」
そう言う声も無視して。

突然、あたしが実家に帰ると、ママもパパも進も、進のお嫁さんもびっくりしていた。
そしてしばらくして追いかけてきた瑞樹さんのことをあたしは追い出した。
どうしていいか分からないママ達の様子を無視して……。

あたしは自分の運命を恨んだ。やっぱりあの時、選んだ道は間違いだった。
全部そこからはじまってる。それともこれがあたしの運命なの……?

それでも、瑞樹さんの顔を見たとき、悲しそうな顔をしていてあたしは少しだけ胸が痛くなった。
瑞樹さんは、何か言いたそうな顔をしていた。それでも、あたしは追い返した。

―――あれだけ……、愛していたはずなのに。


結局、あたし達は離婚届けも出さないまま、別居する形になった。
まさか進のお嫁さんがいるというのにママ達と一緒に暮らすわけにはいかない。

ママ達は心配して、いてもいいって言ったけど、あたしは1人でアパートを借りた。
必死で働くところを見つけた。ぎりぎりの生活だったけど、それから心配して優紀が
遊びに来てくれたりした。

西門さんや美作さんも大変なことになったと聞いて、あたしに電話をかけてきた。
それでも、あたしは何もしゃべりたくなかった。彷徨には連絡が取れないと言っていた。

きっとあたしが追いかけられないように誰にも言わなかったんだと思う。
それだけあたしは嫌われてしまったんだ。

お義母さんは役立たずがいなくなってせいせいするって言っていた。
離婚も時間の問題だと思う。瑞樹さんさえ、離婚届けに判を押してくれたらもう……。

もう恋なんていらない……家族もいらない……。
あたしの心はもう真っ暗で、何の希望もなかった。

何度もあのスケッチブックを捨てようと思っただろう――
それでも捨てようと思うたびに彷徨の顔を思い出しては泣いた。

どんなに想ったって……もういないのに。
あたしの心は暗くすさんでしまった――



******



一方、瑞樹さんは――

彷徨はずっと未夢のことが好きだった……。もう、6年も、7年もずっと。

俺はずっと彷徨が言った言葉を思い出していた。
それでも、許されることじゃない……どうしてこんなことになったのか。
怒りがこみあげる。それでも俺は大人になったと思う。

許したい……つくしのことを守れなかった俺の責任でもあるんだ。そう思った。
それに、彷徨がどれだけ必死に頑張っているのかも風の噂で聞いていた。
大事な親友だ。許せなくても、身を引いた彷徨のことを思えばこの位のこと。

だから、努力もした。少しでもつくしが元気になるように……。

それでも――

俺が抱こうとすると嫌がる。ずっと暗い顔をしたまま笑わない、しゃべらない。
もう俺はうんざりした。そのうち、触れることもなくなった。

俺が間違っていたのか……?

つくしは、それからも家で塞ぎこむようにしていた。
俺がどう励ましても、何を言っても、怒鳴っても……無反応。まるで、人形みたいに。

それでも、いつかはきっと、そう思って俺は見守っていた。
でも1ヶ月経っても、2ヶ月経っても……、笑顔が見れることがなかった。
そのうち、つくしは俺が止めるのを無理やり飛び出していった。

「俺は別れないからな!」
そう叫びながら、それでも今度は追いかけた。

それでも、あいつは俺を拒絶した。もう終わりなのか、そう思うほどの勢いだった。
それでも俺はどうしても離婚したくなかった。今はせめて見守ろう……、そう思った。

いつかはつくしにも笑顔が戻る。そしたらまたやり直そうって声をかけよう。
そう思って、俺は、別居することを渋々納得した――

「厄介者がいなくなってせいせいするわ」 
そうババアが言ったことに俺は久々にぶちきれた。
家のものを全部破壊してもいいくらい……。

俺も同じことをつくしに言ってしまったんだと思い返した。

だからこそ何もかも壊したくなった。どうしてもっとあいつの傍で――
抱きしめてあげれなかったんだと自分自身を呪った。自分のことで精一杯で守れなかった。

それとも俺は、あの時、彷徨の元へつくしを渡すべきだったのか?そんなことも考えた。
俺は、つくづく自分の人生が嫌になった。幸せにしてやるといいながらも、結局、家のことで
つくしをだめにした。守ってやれなかった。愛してやれなかった……。

俺は一体何をやってるんだろう。

そんな考える暇も与えてくれない日常……。
俺は何のために生きていけばいいのか分からない

それから数ヶ月……。

俺はそれからもずっと仕事に追われる日々で……つくしに会いに行くことさえも
ままならなかった。せめて苦労しないように金を送金してやったのに――
それも全部、跳ね返ってきた。


俺は結局、離婚届をつくしに送った――



******



それからあたしは必死で働いた。瑞樹さんがお金を送ってくれたけど、あたしは
受け取らなかった。意地でも1人で暮らしていこうと思った。

「つくし、せめて一緒に暮らさない?あんたのことが心配で」
「亜紀ちゃんが、気を遣うと悪いよ。ただでさえ、厄介な家族がいるのに」
明るく笑顔を見せることしか出来ないあたしに、母親が溜息をつく。

「あんたは、どうして自分から苦労を背負うようになっているのかしらね……
せめて理由が分かれば、力になれることもあるかもしれないじゃない」

「ごめんね……今は、そっとしておいてほしい」

ごめんね、ママ。
あたしのしていることは、家族を苦しめている。

何度も心配してあたしの様子を見に来てくれる。
どうしてこうなったのか、と何度も聞かれる。だけどあたしは言わなかった。



そんなある日―――



あたしは急な吐き気に襲われた。
最初は、ただの疲れとか風邪とかそう思っていた。

それでも、この体の感覚――

微熱がずっと続いている。背中がぞくぞくとざわつく。
身体中が火照って、まるで自分自身じゃないかのように、宙を浮いたようで。
ハッとして思ったときには、生理が止まっていることに気づいた。

―――あたしのお腹の中には、新しい命が宿っていた。

考えられるのは、彷徨との子供しかいない。瑞樹さんとはあれから何もないんだから。
なんでこんなことになってしまうんだろう……、神様は何もかも意地悪する。

「もういやだ……」

連絡も取れない、どこにいるのかも分からない、それなのに、あたしは独りで産めるの?
もう嫌だ……どうしてあたしばっかりこんなことになるんだろう――

結局、病院に行くと、やっぱり……、妊娠3ヶ月と言われた。
どう考えても計算をすれば、彷徨との子供としか考えられなかった。
もしも、これが瑞樹さんの子供だったならあたしは何か変われたかもしれないのに。


あたしはどうしたらいいんだろう。神様は何を望んでいるの……?


それからあたしは、ママ達に相談した。

子供が出来たなら、仲直りして元に戻りなさい、と言われた。
でもその子供の父親は瑞樹さんじゃないと告げたら、目を回して倒れた。
それから本当のことを話した。

「つくし……どうするの……旦那さんには……」
ママがどうしていいか分からない様子であたしに問いかける。

「離婚するしかないよ」

一瞬、あたしは、瑞樹さんに言ったら、もしかしたら一緒に育てるって言って
くれるかもしれない、と思ってしまった。そんな事できるわけがない。
あたしはあの時から自分に都合のいいように考えるようになっていた。


あたしがしたことの罪と罰。

きっと、あたしのしたことの償いを求め、神様が審判を下したんだ。

あたしはそう思った。



******



それから数ヶ月――


あれから、あたしは、何ヶ月も瑞樹さんに会っていない。
また瑞樹さんは忙しく世界中をあちこち、飛び回っているようだ。
相変わらずお金だけは送ってくる。あたしはそれを全部拒否した。

そしてそのうち、とうとう一通の離婚届が送られてきた。


ああ、終わったんだ。そう思うと解放された気がした。
それでも、なぜか悲しかった。瑞樹さんのことを想うと、あたしは――

愛していたんだろうか……?
彷徨のことは幻だったんだろうか……?


結局、あたしは何もかも失った。前に優紀が言っていたように……。

家族も、愛する人も、全部――








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