山入水晶

1,

作:あゆみ




いくら鳴らしても出ないケータイに、苛立ちを募らせる。
……ダメだ。電話なんかじゃ。

ちゃんと会って、目を見て、話をしなければ。
言いたいことのひとつも、伝わらない。


なんで、こうも俺は口下手なんだろうと、思う。
傷つける筈じゃなかったのに、自分の都合で二度も傷つけてしまった。

どれ程の速度で走ってるのかなんて、自分ではもう分からない。
ただひたすら、前を向いて、風を切って、走ってる。

2年前、ニューヨークに追いかけていった時よりも、ずっと強い気持ち。
未夢を好きだという、ただその気持ちだけで……。


握り締めた小さな包み箱。
俺は、これを未夢に渡したい。おまえじゃなきゃ、だめなんだ……。
それは、たったひとりの愛する人への、たったひとつの贈り物だから。




―――10年前のこと。


病室のドアを開けた。
入ってすぐに、独特の匂いが鼻孔をつく。
苦い味が広がっていくような、薬の匂いだ。
殺風景な白い部屋に、シンプルな透明の花瓶ひとつ。

そこで、俺の母親はひとり、読書をしていた。
羽織っているカーディガンのピンクの小花の模様が、体調の悪そうな母親の
顔色を、いくらばかりか明るくみせた。

「彷徨、今日も来てくれたのね」
にっこりと微笑み、手に持っていた文庫本を、枕元すぐ側のテーブルへ置く。
俺は、母親の側までいき、目の前の長椅子に寄りかかった。

艶のない髪、痩せこけた頬、白くて細い腕、弱々しい声の音色。
会う度に、衰弱していってるのが、分かる。

いつか来る最期の時を、ひっそりと静かに待っていると伺える空気。
俺には、こうして会いに来ることしか出来ない。

ならば、せめて……。


「キレイな花束。もしかして、エンジェルスノー?」

「………うん」

母親に手渡したのは、天使が幸福を運んでくるといわれるエンジェルスノーの
ブーケ。淡雪のように白い薔薇と可憐なピンクの薔薇が緑に挟まれ、やさしく香る。

ピンクの薔薇は、あたたかな温もり。
そして白い薔薇は、幸福や純粋を、意味する。
花嫁が持つと幸せになれるといわれるブーケだった。

幼少の頃、母親は俺の将来の結婚式を夢物語のように言って聞かせ、
その時にはお嫁さんにエンジェルスノーを持たせてあげたいのだと、話していた
ことがあった。

花屋に入った時に、白い薔薇を見て、ふと、そんなことを思い出した。
迷いもせず注文したエンジェルスノーのブーケは、俺以外にも、その場にいた
買い物客の目を惹いた。

天使の羽のように柔らかで、淡雪のように儚くて……、眩いほど、美しかった。

「懐かしいわね。静ちゃんが、うちに遊びに来てくれたとき、ブーケにして
編んでくれたんだったわ」

瞳を輝かせ、頬をあげて喜ぶ母親を見て、俺の口元も自然と緩む。

「………うん」
「弁護士の仕事は、順調なのかしらね」

「………ああ、頑張ってるみたいだよ」
「そう。それは良かったわ」

にっこりと微笑む母親とは対照的に俺の心が一瞬にして曇る。

「……あの人は、……今日も?」

ふっと溜息を漏らす。
俺以外の来客はしばらくないだろうと、部屋を見れば分かる。

着替えや洗濯などの細かいことは使用人が通ってくれているらしいが。
父親は、一度だって見舞いに来たことなどない。

「………いいのよ、分かっているわ、ちゃんと」
寂しそうに睫毛を伏せて、弱々しく声が掠れていく。

「いくら忙しくても……、一度くらい」

苛立ちが募っていく。
母親は、そんな俺の手をすっと引き寄せて、見つめた。

「………もっと側で、顔を見せて」

――お母さん。
もう、何年もそう呼ぶことのなかった俺。

「あなたは……、若い頃のお父様にそっくりね。背格好もそうだし、その瞳の色も」
「………そうかな、周りは……母親似だって、言うけどね」

「ええ。そうね。それでも……やっぱり二人の子供だもの。どちらにも似るのよ。
私たちの、たったひとりの……大切な子」
ふわりと微笑んで、俺の手を慈しむように握ってくる。

―――お母さん。

喉元まで出掛かった言葉に、切なくなる。
母親の見つめる瞳が揺らぐ。
それが、俺の心をより締め付けた。

「百合香さんと、いいお付き合いを続けているのね」
手元のブーケを目に入れながら、再び俺を見つめる。

「…………はい」
本当のところ、いい付き合いどころか、決められた会食の席以外に
会っていないとは言えない。

遺言書の中に記述してあったことを思い返す。
母親と父親が相談の上で俺の婚約者にと、百合香を選んだことを知って
いたからだ。

「そう、素敵なお嬢さんだもの。結婚式がとても楽しみ、ね?」
にっこりと、母親が微笑む。

「…………………」
俺は、何も言葉を返せなかった。

「………彷徨に、渡したいものがあるの。そこの戸棚に入っているから、開けて
もらえるかしら?」

「ここに?」
ベッド脇の戸棚に手をかけて、母親を仰ぎ見る。

「ええ」
開いてみると、中にはたったひとつの小さな箱が入っていた。
綺麗に整理されて、他には何もなかった。

「………箱?」
「開けてみて」
促されて、小箱を開けてみる。
開けた瞬間の眩い光に、目を細めた。

「………指輪?」
何カラットあるんだろうか、とても大きな粒。
カットの入り具合も絶妙で、陽の光に反射してキラキラと煌き続ける。
ダイヤモンドの両脇には、透明度のあるアクアマリンが添えられていた。

「アクアマリン……」
「ええ。あなたのピアスと同じ誕生石よ」
「これを俺に?」
「ふふふ、面白いこと言うのね。あなたが填めてどうするのよ。それはエンゲージ
リングよ」
母親は、勘違いしているであろう俺を見て、楽しそうに笑った。

「本当に好きな人が出来て、その人を愛して、一生を共にしたいと思える
ようになったら、その人に渡してあげるのよ」

何を今さら言うんだろうか。
遠まわしに言わなくても、相手は決まっているというのに。

「…………………本当に好きな人、」
そのとき、ぼんやりと未夢の顔が浮かんだ。

「……あなたに、私から最後の贈り物よ」

―――最後、その言葉に、思わず手が止まる。

「成人したら、今度はあなたが、贈り物をしてあげる番なんだから……
それからね、」
と、母親が言いかけて止まる。
そして驚いた様子で、俺を仰ぎ見た。

「………………最後だなんて……言うなよ」
俺の手が、知らずと震えていた。

「………彷徨」

「…………そんな、今から、さよならします、お別れです、みたいなこと
言うんじゃねーよ!俺はそういうつもりで、来たわけじゃない!」

どこから出てきたんだろうって、張り上げた自分の声に驚く。


……苦しかった。
優しい母親の声が、さっきから俺の心を揺さぶって。
どう接していいのか、分からなくて。

「彷徨………、いつも、お見舞いに来てくれて……、ありがとう」
微笑む母親の目から、ぽろりと涙が溢れた。

「………なんで、……」

あなたが、こんな想いをしなきゃいけないんだ。
なんで、俺がこんなに苦しくならなきゃいけなんだ。

胸を引き裂かれそうな痛みが、俺を襲う。
それを受け止めるかのように、ふわりと母親の温もりが俺を包んだ。

「ごめんね………」

俺を抱きしめて、震える声が切なかった。
精一杯きつく抱きしめてるはずのその手も、か細くて頼りなさげで、
元気だった頃の母親を思い出しては、涙が知らずと込み上げてきた。

「………俺は、あなたに謝られるようなことは、何ひとつとしてない」

それしか言えずに、ただ震えるばかりの俺に、
母親は最後、母のその温もりを教えてくれた。


―――お母さん。
数日後、眠るようにして息を引き取るあなたを……。

―――お母さん。
一度も、俺は、そう呼ぶことが出来なかった。

ごめん。お母さん。
謝らなければならないのは、俺のほうだ。



未夢のマンションの前にようやく到着する。
息が切れて苦しくなっても、止まることの出来ない想いを抱えて。


―――本当に好きな人が出来たら、渡してあげるのよ。
俺の鼓膜に、母親の言霊が、宿るようにして蘇る。

―――その人を愛して、一生を共にしたいと思えるようになったら、
渡してあげるのよ



「未夢……、俺」

会いたくて。未夢に、会いたくて。
ドアの向こうにいるっていうのに。あと少しで会えるっていうのに。


「未夢……」
いくら呼んでも、未夢は返事をしてくれない。


「……開けて。未夢」

繰り返し、ドア越しに呼び続ける。
そして聴こえてきた声は、とても小さくて、消え入りそうだった。


「ごめん……。開けれない…………」


「………お願い」


「………、開けられないよ……」


「どうして……?」

はがゆさで、胸の奥がきりきりする。
ドア1枚に挟まれた先が、こんなにも遠く感じて。

「……さよなら……、って……」

未夢が、声を詰まらせる。

涙声でそんなことを言うんだったら、おまえの顔を見せてよ……。
そしたら、抱きしめて離さずに、いくらだって俺の胸で泣かせてやるのに。

「俺はしてないよ。さよなら……だなんて」

さよならだなんて………、言うなよ。
そんな哀しい言葉を聞きたくて、来た訳じゃない。

「私は……言ったの、さよならって言ったんだよ?」

未夢が意地っ張りなことも、きっと気にしてるんだってことも分かってる。
俺のせいで傷つけて、泣かせてしまったんだってことも、分かってる。

だから、会いたくて……。
だから、抱きしめたくて……。
だから、伝えたくて……。


「愛してる……、未夢………、だから、お願い」

―――愛してる。

そう告げたとき、俺の中に説明のしようのない想いが溢れてきた。
好きだけじゃ、伝えきれない。
もうそれだけじゃ収まることの出来ない程……。


いつのまにか、愛してた……。


「……付き合っても……、ないのに、愛してるだなんて、
普通、言わないよ……」


「……じゃあ、なんていえばいいの……?」


「…………………」


「未夢が……、欲しいって、そう言えばいいの?」


「……私は、物じゃないよ」



「帰って……、会いたくないの」


「………どうしても?」


「……………………」


どれくらい、そうしていたんだろう。
玄関ドアについていた手が、凍るような寒さに、霜焼けて真っ赤になっていた。

空を見上げれば、真っ白な粉雪が舞い降りてくる。
何も考えられずに、無気力で……、佇んだままでいた。
そのうち視界を遮るようにして、降り続く粉雪が吹雪き出す。


『この恋を信じて……』

迷う俺の心にも、風が吹く。
止まったままの時間が、ふっと動き出す。

かじかんだ手を振り切って、ポケットから手帳を取り出す。
白紙のメモを破って、走り書きを寄せた。


――EVERLASTING


『……ずっと気持ちは変わらないから』


――AND I LOVE YOU


『愛してる……』






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