逃水

作:栗田



 気温35度。
 通りすがりの家の窓から漏れ聞えてきた、テレビのニュースの声。
 体温に近いその温度に、くらりとめまいを覚えて、流れ落ちてきた汗を手の甲で拭った。

 どうしても借りたい本があって図書館へ行き、そして西遠寺に向かう、帰り道。
 普段からこの道は通行が多い方ではないが、今はこの暑さのせいか人通りがまったくない。
 行く道々に建ち並ぶ家の庭先から、ジリジリと蝉の鳴き声が聞えていて、余計に暑さを感じさせる。


(・・・帽子をかぶってくればよかったか)


 軽い後悔とともに、手をかざしながら空を見上げた。
 今は真昼に近い時間。
 真上に燦然とたたずむ太陽の光は、容赦がない。
 木々の木陰も今は陰が短く、日よけにはならない。
 今、自分がたたずむ路面には、ただ灼熱の光と熱が踊るばかり。

 ゆらり。

 視線を道路に戻し、見つめる道の先で陽炎が揺れた。
 遠く、道路と町並みを区切る線には、逃水も見える。

 逃水。
 熱せられた空気の揺らぎ。
 路上や草原で,遠くにあるように水があるように見える現象。
 蜃気楼。


 暑さで上手く回らない頭で、ぼんやりとそれを見ているうちに、ふと未夢のことが頭によぎった。


 太陽と同じような・・・それでいて太陽よりずっと柔らかい色の、長い髪をした彼女。
 少し前まで何をするにも一緒だった、同じ年の同居人。
 この春、同居していた異星人たちが帰ると同時に、未夢も自分の町へ帰っていった。

 今度逢う約束も、何も残さず。
 ただ、何か忘れ物をしたような、そんな気持ちだけを残して・・・。


 そこまで考えて、自分がなぜ逃水を見て未夢を思い出したのか理解した。
 苦笑いが浮かぶ。
 遠くを見つめる瞳をさらに細めた。
 かざした指の隙間に見える、逃水。

 近づくとまた遠ざかる。
 決して手の届かない。
 追うと逃げてゆく水。
 幻の水。

 それはまるで未夢のようだと。
 未夢を思う、自分のようだと、
 そう思ったのだ。


 砂漠でさ迷う旅人は、暑さに眩んだ瞳で、心の求めるままに、オアシスの蜃気楼を見る。
 灼熱の路面で人は、ジリジリと焼け付く太陽に騙されて、心の求めるままに、幻の水を見る。

 そんなふうにして、自分の心は、未夢を求めているのかもしれない。


 何も告げずに離れてしまったことを後悔していないといえば嘘になる。
 ただあの時は、離れて過す日々がこんなにもつまらない・・・こんなにも色あせたものになるとは実感できていなかっただけ。
 ふとした瞬間に、ひどく“会いたい”と思ってしまうようになるとは、思わなかっただけ。
 自分の中が、こんなに未夢でいっぱいになっていたとは・・・。
 知らなかっただけだった。


 太陽は照り続けている。
 日差しはさっきよりも暑くなるばかり。
 このままだと、干からびてしまいそうだな・・・なんて思いながら、足を動かす。
 逃水を追いかけて・・・。

 追いかけても、そこに本当の水がないことを知っているのに。
 彼女がいないことを知っているのに。
 それでも追いかけてしまう。
 こころ。


 ふと。
 ゆらゆら揺れる陽炎の向こうに、人影を見た気がした。
 ほどなく、それはしっかりとした姿に浮き上がってくる。
 その人影の正体に、彷徨はまた苦笑する。


 とうとう・・・本人の幻まで見えるようになったかな?


 それほどまでに求めていたのか?と思う。
 けれど。
 自嘲する気持ちとは裏腹に、その姿はドンドン大きくなっていった。
 そして・・・。。

 とうとう、目の前まで来て。



「・・・遊びに来ちゃった」



 立ち止まって笑う。
 幻が口をきいた。。
 ・・・いや、これは本物の未夢。


 逃水だと思ったら、本当の水だった。



「彷徨、久しぶり。・・・元気だった」



 少しはにかみながら、そう言う未夢。
 ちょうど民家の庭先からせり出した木枝の影の下。
 木漏れ日が未夢の顔や肩に、濃淡をつけて舞う。

 ゆらゆら揺れる、光と影。
 それはまるで
 水の中にいるよう・・・。



「彷徨?」



 呆然としたままでいると、未夢が不安そうな顔をした。
 それを見ながら、どさりと、手に持っていた本を落とす。
 蝉の声が遠ざかった。


 本能のままに手を伸ばす。
 未夢に。



「ちょ? かっかなた!?」



 抱きしめる。
 確かめる。
 本物の未夢。
 幻じゃない、未夢。



「かなたってば!!?」



 焦ったような声。
 腕の中で体を硬くする彼女。
 そんなことは気にしない。

 砂漠の中でオアシスを見つけた旅人が、一心不乱に、ただ無我夢中で、水源に手を伸ばすように。
 その水に手を浸すように。

 ただ、それを確かめる。

 自分より少し低い体温。
 それが、すぐに同じくらいに・・・それ以上に熱くなっていく。



「・・・ねぇ・・・・あついよ、かなた・・・。いったいどうしたの?」

「・・・・・・・」

「なんで? ・・・・なにしてんの? かなた」

「・・・水分補給」

「へ?」



 ワケがわからないといった感じの未夢。
 腕を緩めて、少し体を離すと、未夢の顔を覗き込む。

 ぎゅっと口を結んで。
 不安そうな表情で。
 それでも、顔を真っ赤にしている彼女。

 ・・・だから。
 だから、いいかな?と思う。

 拒まれないから、いいかな?と思う。。



「知ってた? 水がないと人は生きていけないんだぜ?」



 舌を出しながら言えば、未夢はますますわけが分からなくなったのか、目を白黒させた。
 思わず、笑った。

 可愛いから、笑ってしまった。


 名残惜しく体を離して、落としたままの本を拾い上げる。
 そうして、まだうんうんと、自分のセリフの意味を悩んでいるらしい未夢の背に手を当てて、促した。



「帰ろうか。西遠寺へ」



 未夢はその言葉に顔を上げ、思考のふちから戻ってくると、パッと顔を輝かせた。



「うん!」



 うなずいて、鮮やかに笑った未夢。


 そのまま、以前のように並んで歩く。
 流れる会話。
 懐かしく・・・けれどもずっと歩いてきたような、よく慣れ親しんだ感覚。
 生き返ったような気分。

 “自分”に帰れた気がする。


 歩きながら、今度は簡単に手放さないと心に誓った。

 隣りで笑う君。







 手に入れるよ。

 君を。









 夏はまだまだ、これからだった。














テーマが「水」と聞いて、最初に思い浮かんだのが「逃水」で。
思いつくままに書いた小話。(所要時間30分)
タイトルもそのままで芸がなく。
内容は・・・さてもさても、わけわかめ。(笑)
賢明な皆様にあられましては、いつものことよと、見逃してくださいませ。

お目汚し、失礼しました。
皆様、よい夏をお過ごしください。


2005.08.01 栗田





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