幾星霜

作:栗田





 未夢は、もう何度めかの寝返りをうった。
 明日は朝早くに家を出て、空港へ向かう予定。
 両親と一緒に、一週間ほどのアメリカへ旅行に行くのだ。
 だから早く寝なきゃ。
 そう思って、必死で目をつぶるのだが、いっこうに睡魔は訪れてくれない。


 う〜んともう一度寝返りを打ったあと、未夢はあきらめてぱちりと目を開けた。
 ぼんやりと天井を見上げたあと、手を伸ばしてベットサイドのスタンドをつける。
 急に明るくなった視界に、何度か目を瞬かせて時間を確認した。

 午前2時20分。
 まだ朝まで何時間もある。
 未夢は、思わずため息をついた。

(眠れないよぉ・・・)

 途方にくれたように、時計を見つめる。
 けれどそれで、張りが早く進むはずはもちろんなくて。


 しばらくぼんやりとしたあと、未夢はむくりと起き上がった。
 布団から抜け出した体に、冷たい空気が襲う。
 思わず派身震いして、パジャマの前をかき合わせた。
 カーディガンを羽織って、そっとベットから下りる。

 はだしの足に、フローリングの床がヒヤッと冷たかった。
 なるべくその冷たい板を踏まないように、爪先立ちをしながら窓辺に歩み寄る。
 カーテンを開けて、そっと窓の外を覗いた。


 冬晴れの夜。
 この家の隣に建つ西遠寺の屋根が、月光を反射して黒光りしていた。
 半月は、冬の木の枝にひっかかって休んでいる。


 未夢はいつものように、視線を巡らせた。
 こうやって、窓を開けるとすぐに西遠寺の方を見下ろしてしまうのは、もう癖だ。
 夜見ると、とても荘厳な感じがする見慣れたその建物。
 視線は、当たり前のようにその一角にある彷徨の部屋を目指す。

 見つけた部屋は暗く、闇に沈んでいた。
 未夢はほぅっと息をついた。

(当然か・・・。もうこんな時間だしね・・・。)

 それでも。


 未夢はなんだか哀しくなってうつむいた。
 自分は彷徨のせいでこんな眠れない夜を過ごしているというのに、彷徨はぐっすり眠っているなんて。
 彷徨にとって自分は、しょせんそれだけの存在だということ・・・。


 昨日の別れ際だってそうだ。
 彷徨はいつものように未夢を玄関まで送ったあと、
「じゃあな、気をつけてな」
 という、そっけないひとことで、さっさと未夢に背を向けて西遠寺に帰ってしまった。
 遠ざかっていくその背中を思い出すと、今でもじわ〜と涙が浮かんでくる。



 分かってんの? 彷徨。
 私たち、明日から一週間も逢えないんだよ。



 未夢は、暗闇に沈む部屋に向かって問いかけた。
 月が、無言で未夢を見守っていた。





☆☆☆





 年明けの休みを利用して、アメリカに行こうと言い出したのは母親の未来だった。
 なんでも、NASAにいるときの友人から、遊びに来ないかと誘われたらしい。
 一も二もなく賛成した、父親の優。彼も、久々にアメリカの知り合いに会えると喜んだ。

 二人に「「未夢も行くよね」」と詰め寄られ、未夢は少し考えてからこう答えた。


「彷徨も・・・・一緒に行こうって誘っていい?」



 未夢は、この冬休みは本当なら、せっかくなんだから、めいいっぱい彷徨と一緒にいようと思っていた。
 高校は一緒だけどクラスは別々で、生徒会なんかに所属している彷徨はいつも多忙で・・・。最近、なかなか二人でゆっくりする時間がなかったのだ。
 だから、冬休みくらい、時間の許す限り二人でいようと・・・。
 彷徨が一緒にいるなら、日本でもアメリカでも、休日を過ごすのはどこでもよかった。


 母親の未来はからかうような笑みで、父親の優は渋面をしていたけど、未来に睨まれてしぶしぶと、うなずいてくれた。
 未夢は破顔して、急いで彷徨に知らせに行った。


 だが、西遠寺の居間で本を片手に話を聞いた彷徨は・・・・、
「わり。オレ、行けない」
 と、ひとことで断った。

 どうして〜?と詰め寄る未夢に、生徒会の集まりがあるからと、いつものように涼しい顔で答える。
 3月にある3年生を送る会、卒業式等の準備を、もう始めなければならないから。ということだった。


「お前だけでも楽しんで来い」と笑って言う彷徨を前に、未夢は顔をゆがめた。
 彷徨の笑顔を前に、“彷徨が行かないなら私も行かない”という、言うつもりだった言葉を飲み込んだ。

 全然気にしていないような彷徨。
 彷徨にとって、自分との時間はそれほど大切なものじゃないのかもしれない。

(それどころか・・・いつもうるさい私がいなくて・・・せいせいすると思ってるのかも・・・)

 そう思ったら、目がしらが熱くなって、あわててうつむいた。

「わ、分かった。・・・私だけ、ついてくね・・」

 勢いでそう言って、その場から走り去った。

 彷徨は・・・。
 追いかけてこなかったし、そのあとも何も聞いてこなかった。



 それでも未夢は、彷徨が少しでも、行ってほしくないとか、ここにいてほしいとか、そういうそぶりを見せたら、アメリカ行きは中止するつもりだった。
 だが、まったくそういう気配は感じられず。
 いつもどおりの日々が過ぎて、今日に至っている。


 考えてみたら、中学の時の、あの突然の同居から数えて・・・、初めてなのだ。
 一週間も離れ離れになるのは。

 そのことに、彷徨は気づいているのか・・・。


 未夢は、彷徨の気持ちが見えなくて不安だった。





☆☆☆




 未夢はとても怖がりで、普段は夜、ひとりで外に出るようなことは絶対しない。
 慣れているとはいえ、西遠寺はやっぱりお寺で、その周辺は、夜になると不気味さを増し怖い。

 だけど、今夜は違った。
 気がついたら、着替えて、コートを着て
 夜の庭に出ていた。


 月と、星灯りがきれいな夜空。
 薄闇の中を、未夢は足のおもむくままに歩いた。
 不思議と怖くはなかった。
 誰も起きていない夜の中。唯一、見守ってくれている半月が、彷徨の部屋までの道を照らしてくれている。
 不思議なあたたかい光。
 未夢は歩きながら、目を細めてそれを見上げた。

 庭の草には、ほの白く霜が降りている。
 歩くたびにさくさくと鳴った。
 マフラーの中に顎を埋めてほぅっと吐く息は白く漂う。
 夜明け前の冷たい空気が、頬に刺すように感じられいた。


 中庭に出て、彷徨の部屋の前に来た。
 未夢はぼんやりと立ち尽くし、暗く静かな部屋の戸を眺める。
 ここまで来たはいいけれど、その部屋に声をかける勇気もなく、ただ見つめていた。
 夜の空気は静かで、彷徨の寝息がここまで聞こえてきそう。


 たとえばこんなふうに。
 自分のいない間にも、彷徨は穏やかな眠りにつくのだろうか?


(私のことなんて、気にも留めないで・・・)


 そのことを思うと、ひどく胸が痛んだ。
 未夢は息苦しさにうつむいて・・・。
 それから、自分自身の感情にはっとして、苦笑した。

(何やってるんだろ?私。・・・彷徨が安らかに眠れるなら、それでいいじゃない・・・)

 眠れなくなることを願うなんて、自分がひどく傲慢な気がした。


 あの日、ルゥたちが帰ったあの日。
 自分たちは恋人になったけれど・・・。
 淡々とした彷徨に比べて、こちらばかりがどんどん想いを募らせている気がする。


 彷徨は・・・こんなふうに息苦しくなったりしないのかな?


 問いかけるように部屋の戸を見ても、沈黙が返ってくるだけ。
 未夢は大きく息をついて、あきらめたように少し寂しく笑った。


 夜風がすぅっと頬をよぎり、ぶるっと身を縮めた。
 いいかげん、こんな馬鹿なことやめて、部屋に帰らなきゃ。

(オヤスミなさい。彷徨)

 閉ざされた戸に向かって、心の中でつぶやいて、
 そっとその場を離れた。

 ポケットに手を入れて、数歩歩いて・・・。
 ふと気配を感じて、振り返った。


 目を見開いた。
 彷徨が戸を開けて立っていた。



 未夢は棒立ちになり、しばらく声も出せなかった。

 あきらめていたその姿。
 こちらを見つめる瞳に、少し泣きそうになった。


「み・・・ゆ? ・・・本物か?」

 彷徨は、どこかボーッとした様子で、
 もれ出た声も、少しかすれた気味。
 真夜中の。
 こんなあり得ない時間に庭に立つ未夢が、幽霊か幻にでも見えたらしい。

 未夢は、月光の中でフワリと笑った。


「・・・・さわってみてよ」


 逢いたかったその姿に、胸をいっぱいにしながら、
 自分に触れて、確かめてみれば?と、
 未夢は小さく笑った。

 彷徨がわずかに目を見開く。
 夢うつつの瞳で、夜気の中の未夢を凝視した。


 薄い月明かりと、星のまたたきが、
 二人を頭上から見守っていた。





☆☆☆




 彷徨は魅入られたように、未夢の方に一歩足を出した。
 瞳は未夢を見つめたまま。
 未夢もじっと彷徨を見つめていた。

 廊下から、音もなく、夜の庭に降りる。
 素足にサンダル。
 霜で白くなった草が当たって痛いのを、頭のどこか遠いところで感じながら、一歩ずつ歩いた。


 薄暗い、夜の庭に立つ未夢は、マボロシのようで。
 触れれば、消えてしまうんじゃないかと。
 彷徨は恐る恐る、その姿に手を伸ばす。
 

 指先が、頬に触れた。
 未夢が、くすぐったそうに片目をつぶった。
 未夢の白い頬は、ほのめく月明かりに照らされて、かすかに赤く染まっている。


「・・・・熱い」

 少し頬をなでるようにしながら、彷徨が言う。

「彷徨の手は冷たいよ」

 未夢は、彷徨の手に小さく頬ずりをした。
 猫のようなしぐさ。

 彷徨は笑った。
 そのまま手を滑らせて、未夢の顎をすくう。
 そうするのが当たり前のような、自然な動作で、顔を寄せる。

 口づけは、甘く、熱く。

 未夢は、軽く吐息を漏らして、右手で彷徨の服を掴んだ。
 彷徨は未夢の腰を引き寄せて、抱きしめた。


 唇を離したとき、二人とも、軽く息が上がっていた。
 冬の冷たい夜気に、吐息が白く溶ける。
 目があって、二人は照れくさそうに笑った。

 静寂の中の、冷たい空気が、一変して柔らかく二人にまとわりつく。。
 そのまま、じゃれるように、確かめるように、抱き合った。


「お前、なんでこんな時間にこんなところにいんだよ」
「彷徨こそ、どうしてこんな時間まで起きてたの?」

 抱き合ったまま探るように聞きあう。
 お互いの肩口から見上げる星空。
 凍える空気に瞬く星たちは、刺すような光を二人に注いでいる。

「なんだか・・・眠れなくて・・・」
「オレも・・・」
「ホントに?」
「こんなことで嘘ついてどうする」

 彷徨がそっと身を離して未夢の顔をのぞき込むと、未夢は顔を赤くして、少し嬉しそうにして笑っていた。
 彷徨は笑い返して、
 赤くなって寒そうな未夢に耳に、そっと手をかぶせる。
 未夢は、その上から自分の手をさらに重ねて、ぬくもりを閉じ込めるようにそっと瞳を閉じた。
 うっとりとしたその表情に、彷徨は見入る。

 もう一度口づけたくなって・・・、

 彷徨はそんな自分をごまかすように、瞳を伏せた。
 顔を見られないように、また未夢を抱き寄せる。

「・・・一週間、か・・・・」

 未夢という存在を確かめるように抱きこんで、思わずぼそっとつぶやいてしまう。

「彷徨?」

 未夢はため息のようなその声を聞きとめて、小さく身じろぎをした。


「彷徨、淋しいの?」
「・・・・べつに・・・」

 言葉とは裏腹に、抱きしめる腕に力が込められる。
 心地よい息苦しさに、未夢は少し笑った。

 そうだった。
 こういう人だった。

 自分の気持ちを表すのが下手な人。


「・・・やっぱり、行くのやめようかな?」

 彷徨の胸に顔をうずめながら、未夢はつぶやく。
 
「・・・いいよ。行って来い」
「でも・・・・」

 彷徨は少し体を離して、未夢の目をもう一度のぞき込んだ。
 未夢は、どこか不安そうに彷徨を見上げていて。
 捨てられた猫のようなその表情に、彷徨は柔らかく微笑んで見せる。

 こんな未夢を、本当は、彷徨だって離したくはない。
 片時も。

 だけど・・・。


「あのさ。家族水入らずで旅行する機会なんて、もうこの先ないかもしれないだろ? ただでさえ、お前の両親、忙しいんだから・・・」

 彷徨は諭すように未夢に言い聞かせる。
 言いながら、自分にも言い聞かせているのだ。

「でも・・・私は彷徨と・・・」

 それでもまだ、訴えるように彷徨を見上げる未夢。
 彷徨はポンッと未夢の頭に手を乗せた。

「オレはさ・・・・。お前の未来の時間、全部もらうからいいんだ」
「・・・彷徨っ」

 未夢は目を見開いた。
 言葉の意味を考えて、顔が熱くなる。


「お前のこれからを、オレは全部もらう予定だから・・・・。今くらい、少しくらい、お前の両親に分けてやらないとな」


 彷徨はいたずらっぽく笑った。
 未夢は、彷徨を見上げながら、また泣きそうになってしまう。

 嬉しかった。とても。
 誇らしかった。
 自分たちだけでなく、周囲の人間の気持ちも汲み取れる彷徨が。
 “家族”を大事にしてくれる、彷徨が。

 この人と出会えて、
 この人を好きになって
 良かった、と思った。


「予定、じゃないよ・・・・。決定、だよ」


 泣き笑いで未夢が言うと、彷徨はまいったと言うように息をついて、
 微笑んで、
 もう一度、未夢を抱きしめた。


「・・・・そっか。決定か・・・・」
「・・・うん」



 互いの鼓動だけを聞きながら、心から願うこと。



 幾星霜、あなたとともに。



 幾冬も、今日のように霜が降り、
 幾年も、星が天を巡るように。
 私たちは、ずっと一緒にいる。




 霜降る冬が来なくなるまで。

 星が無くなる、その日まで。










2002年、李帆しゃんへのお誕生日祝いの贈呈物。

「星霜(せいそう」・・・星は一年で天を一周し、霜は年ごとに降るということから、
            年月、歳月の意味。幾星霜で、長い年月をいう。


2005.02.24  栗田





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