「彷徨、ちょっといい?」
「ああ」と言った返事から障子が開けられ、そこからひょこっと未夢が顔を覗かせた。
真夜中の9時。
こんな夜遅くに男の部屋に来るなよなぁ…と思うが、きっと未夢としては勝手知ったる西遠寺…なのだろう。
しかも同じ敷地内だという事で、いつの間にか両家共々無言の了解が出来ていたりするから困ったものだ。
確かに未夢が来るのは凄く嬉しいことだが、それでも少しぐらいは考えて貰いたい…と本気で思う彷徨であった。
「なんだよ」
彷徨はそっぽを向いたまま、視線だけを未夢に向けた。
「あのね…実は彷徨さんに折り入って頼みたい事があるんですけど…」
と、未夢はニッコリと笑顔を彷徨に見せた。
しかし、その笑顔は余りにもぎこちなく、彷徨は疑いの眼差しで未夢を見た。
(…これは…また何か仕出かしたな…)
未夢がかしこまった言い方をする時は、お節介が度を越えて収集がつかなくなった時か、ドジを踏んでどうしようも出来なくなった時だ。
どっちにしろ、未夢のやりそうな事は想像がつく。
彷徨は座ったまま未夢を上目で見、そして軽く溜息をついた。
「…また学校に教科書忘れたとか言って、一緒に来て欲しい…なんて言うんじゃないだろうな……」
そして軽く睨む。
うっ…と、未夢はうめき声を上げて、そしてガックリと頭を下げた。
「流石彷徨さん。そのとおりでございます…」
(やっぱり…)
未夢は突如ストンと正座をすると、彷徨に向かって手を合わせて拝みはじめた。
「お願いッ彷徨ッ!一緒に学校へ行って!?教科書がないと宿題が出来ないのよぉ〜!!ねっ!一生のお願いっ!!」
いったい何度未夢の『一生のお願い』を聞いたことだろう。
確かに未夢にお願いされると、断われないのは事実だ。
甘やかせてしまったのは自分のせいかもしれない……。
困ったもんだと、彷徨は呆れ顔で未夢を見た。
半分は自分自信にでもあるのだが。
(一生ね…はいはい。近い将来俺の『一生のお願い』を聞いて貰うからな)
「ったく…この甘ったれ」
へへ…と笑う未夢のオデコを、ペシッと中指で軽く弾いた。
「痛ったぁ〜!なにすんのよっ!」
オデコを手で押さえて、未夢は頬を膨らませて彷徨を睨んだ。
「そんな顔していいんですかねぇ〜」
「な、なによ…」
「夏の夜の学校はさぞかし恐いぞぉ〜。学校には怪談が付きモノだしなぁ〜。実はあの学校は昔……」
手をダラリと下げて、幽霊の真似をするように未夢の前でユラユラと動かす。
「やめてやめてやめてぇーーーーーーーーーーーーーーーっっっ!!!」
恐がりな未夢は、彷徨の話しを聞きまいと耳に手をあてて、声を張り上げた。
案の定な反応に、あははと彷徨は笑った。
「ばーかっ。作り話しで恐がるなよな。そんな話しあるわけねーじゃん」
「もうっ!いっつも馬鹿にしてぇーっっ!!」
怒る未夢を尻目に、彷徨は立ち上がると、薄手のシャツを羽織った。
「いつまでそこで拗ねてんだ?学校に忘れ物取りに行くんだろ?」
キョトンとした表情で、未夢は彷徨を見上げた。
「一緒に行ってくれるの?」
「…嫌ならいいけど?」
横目でチラリと見る。
「ま、待って!行くからっ!行って頂戴っ!!」
慌てて立ち上がる未夢に、彷徨は隠れてくくくっと笑った。
◇ ◇◇
緑色に灯る非常口の光りが、冷たい壁に反射し、異様な雰囲気を醸し出していた。長い廊下は闇に包まれて、行き止まりになっている先が真っ暗で見えない。
昼間は生徒達で賑わう教室も、今はシーンと静まり返っている。
熱帯夜の日々が続いているというのに、この学校だけが冷えびえとした空気に包まれている。まるで学校ごと別空間に移動させたような、奇妙な雰囲気にヌルリと落ちていくようだ。
コツーン…コツーン…
突如、廊下に響き渡った足音。
一つは一定の音を出し、もう一つは躊躇うかのように乱れた音を、廊下中に響き渡らせた。
未夢と彷徨だ。
未夢は彷徨のシャツをギュッと握り締め、後ろからピタリと寄りそうように彷徨と歩いていた。瞳はキョロキョロと落ちつきがなく、不安そうな表情だ。
「やっぱ恐いよぉ〜」
「お前が忘れ物するからいけないんだろ?」
「そうだけどぉ〜。ああ、やっぱり彷徨と一緒の選択科目にすれば良かったよぉ…」
「理数系は嫌だと言ってさっさと文系にしたの、お前じゃん」
「う…返す言葉もございません…」
さっさと忘れ物を取りに行きたい彷徨であったが、後ろにへばりつく未夢のスピードが邪魔をして、思うように先に進めない。
先に行こうとすると「置いてかないでよ…」と言って、涙目で訴えるのだ。
ハッキリ言って未夢の泣き顔に弱い。
かと言って、ゆっくりと歩くのも未夢を恐がらせ続ける事になる。
相変わらず未夢は、彷徨のシャツを握り締め、眉間を寄せて泣きそうな顔だ。
暫らく考えて、彷徨は自分のシャツを掴んでいた未夢の手を握ると、自分の腕に絡めさせた。
「かっかっかっ、彷徨っ?!」
一瞬にして頬が真っ赤になる未夢。
そんな未夢の表情を斜め横でチラリと見て、ぶっきらぼうに言った。
自分でも恥ずかしいのだ。
「少しは…安心だろ?」
ビックリして目を丸くし彷徨を見ていた未夢だったが、暫らくすると、握られた手にそっと力を込めて、ピッタリと寄りそうように体を預けていった。
そして、頬をほんのり染めながら照れ臭そうに答えた。
「うん…少しは…ね……」
心臓の鼓動が、一瞬トクンと高鳴ったような気がした。
腕を掴ませたせいか、歩く歩調が一緒になって楽になったのは言うまでもないが、未夢の胸が腕に柔らかく当たるのを、彷徨は困惑した表情で受け止めていた。
(参った…)
腕に絡ませたのは他ならぬ自分で、企んでやった訳ではなのだが、どうも罪悪感を感じでしまう。
男なら単純に喜ぶべきだろうが、未夢に関してはそうもいかない。
大切にしたい…たった一人の恋人なのだ。
「胸が当たる」などとストレートに言ったら、未夢を怒らせるのはオチだ。だが「離れろ」とは言えない自分も不甲斐ない。
所詮……彷徨も健全な男のコだ。
「彷徨?どうしたの?」
下から覗き込むように、未夢が見つめていた。
彷徨は慌てて未夢に微笑み返す。
「え?なんで?」
「だって…急に喋らなくなったから…」
「わりぃ…」
お前のことを考えていたなどと、口が裂けても言えない。
彷徨は未夢の手をゆっくりと離すと、未夢との間を気が付かないように少し空けた。
だがそれに気がついた未夢は、慌てて離れまいとぐいっと自ら密着させた。
「こ、こらっ未夢っ!」
「駄目!」
上目で一喝された彷徨は、困惑した表情で未夢を見つめた。
どきまぎと慌てた様子を未夢に感づかれはしないか、それがやけに心配になった。やぱり男としては無様な自分を見られたくない。
冷静だと言われているが、未夢に関しては全く別なのだ。
「駄目って…あのな…」
「駄目だったら駄目ッ!」
未夢としては、離すまいと必死なのだろう。
ぎゅっと腕を絡ませて、彷徨の腕にしがみ付く。
(ば、馬鹿ッ!そんなに引っ付くなっ!む、胸が……)
「でもな未夢…その…だからな…」
一体なんと言えば判ってくれるんだ?
いくら考えても未夢を怒らせてしまいそうで、彷徨の思考は支離滅裂になった。
すると。
未夢が彷徨の肩に頭をコツンと当てて、そっと呟いた。
「……だって…恐いんだもん……」
その一言。
それだけで玉砕。
(か、かわ……)
彷徨はぷいっとそっぽを向いて、渋々答えた。
「しょ、しょうがねーなぁ…」
「へへ…ありがと彷徨」
ニッコリと笑う未夢に嵌めれらたかな?と一瞬思ったが、それでも良いかと微笑み返した。
今日だけは未夢の奴隷になってやろうじゃないか。
だけど今日だけだぞ…と、自分に言い聞かせながら。
◇ ◇◇
教室についた二人は、すぐさま未夢の机に向かった。
「取ったか?」
「うん」
そして再び掴まれる腕。
またか…と、未夢をじっと見つめていると、不意に顔を上げた未夢が微笑んだ。
「行こ、彷徨」
「…ああ」
彷徨は小さく溜息をつくと、未夢と教室を後にした。
恐がりな未夢だから仕方ないとは思うが、彷徨にとってはかなり心臓に悪い。
横にいる未夢は、相変わらず不安そうな表情を見せているが、それでも先ほどよりは和らいでいるようだ。
腕をぎゅっと絡まれて、柔らかな胸の感触にアタフタと狼狽してしまっていた彷徨も、少しは余裕が出来たようだ。
その証拠に、彷徨は先ほどから未夢の横顔に見惚れていた。
闇に映える白い頬、白い襟元。
透明な新緑色の瞳が、まるで星のようにかキラキラと輝いて見える。
未夢の金色の髪が、歩く度に彷徨の腕にサラリと当たる。
腕に絡まる未夢の肌はヒンヤリと冷たく、やけに心地いい…。
昼間では決して見ることの出来ない未夢の姿に、彷徨の心臓は動揺を隠せないくらい高鳴っていた。
(俺…今、すっげーヤバイかも……)
未夢に自分の感情しれたらどうなるかな…と、思考を巡らしていると、すっと未夢の腕が彷徨から離れた。
え?…と、口を半開き状態で立ち止まる彷徨の前に、未夢は立った。
「もう大丈夫。ありがとね、彷徨」
そして未夢はクルリと背を向けると、玄関に置いていた靴に履き替える。
呆然と立ち尽くす彷徨。
(…いったい…なんなんだ?)
「彷徨?どうしたの?」
小首を傾げて、覗き込むように彷徨の前に立つ。
さっきまで恐がっていたのが、嘘のように晴れ晴れとしている。
「別に」
彷徨はブスッとした表情でぶっきらぼうに答えると、乱暴に靴を履き替え、未夢を追い越してスタスタと先に玄関を出た。
何怒ってんだ?俺は。
別に学校内が恐いから腕を掴んでいただけであって、外に出たら別にどうしようが未夢の勝手だ。関係ない。
……だけど、どこか、ムシャクシャする―――――
彷徨自信も何故こうも苛立っているのか、判らずにいた。
未夢は今も横にいて、「どうしたの?」と不安そうに覗き込むが、腕は掴んでいない。
僅かに離れている二人の間。
数センチしか離れてないというのに、その距離が彷徨にはやけに遠くに感じて、切なく感じた。
でももう、自分から近付こうとはしなかった。
男の意地…なのかもしれない……。
暫らく二人は黙ったまま、歩道を歩いていた。
西遠寺から学校へ向かってから、もう1時間以上は過ぎていた。
帰ってお風呂に入って、それから宿題などをしていたら、あっという間に深夜0時を過ぎるだろう。
「ゴメンね…」
未夢がポツリと呟いた。
彷徨は手をポケットに突っ込んで、ポンッと地面を蹴った。
まるで拗ねた子供のようだ。
「…何が」
「だって、私の忘れ物をしたせいで、彷徨の時間潰してしまったんだもん…」
別にそれが原因で不機嫌になっているわけではない。
だがそれを言うのも億劫で、彷徨は「別にいい」と言葉を止めた。
自分でも大人気ないと感じながら。
未夢は彷徨の後ろ姿を見ながら、うーん…と唸った。
そして何を思いついたのか、タタッと小走りに駆け寄ると、彷徨の腕にガバッとすがり付いた。
「かーなたっ!!!」
「うわっっっ!!!な、何すんだよ、未夢っ!!」
ぎょっと驚く彷徨に、ニッコリと未夢は微笑んだ。
「コンビニ!」
「…コンビニ?」
訳が判らないと言った表情で、彷徨は未夢を見た。
「そ。コンビニに行こ、彷徨。今日のお礼にアイス奢ってあげるよ」
「そんな甘ったるいのは…」
「コーラならいいんじゃない?」
「そうだな…」
「じゃあ決定ね!レッツゴーーッ!」
「お、おいっ…!」
彷徨の否定も聞かずに、未夢はぐいっと彷徨の腕を引っ張って歩き出した。
再び繋がった腕と腕。
ひんやりとした肌の感覚が直に伝わる。
胸の奥でどこかほっとする安心感が、彷徨の心を包んでいた。
苛立っていた感情もいつの間にか消えて、今はスッキリとしている。
(俺って…もしかして単純?)
なんだかんだ文句を言いつつも、結局は未夢の全てを聞き入れてしまう。
それでも良いと彷徨は思った。
『自分だけ』なのだという優越感が、彷徨の心を満たしていた。
こうやって側にいるのも。
こうやって腕を絡ませるのも。
全て。
自分だけのものなのだ。
外灯の光りが、ゆっくりと歩く二人を照らす。
夏独特の生暖かい風が、二人の頬を霞める。
コンビニが近くなると、人通りも多くなるだろう。
それまでは…。
未夢が彷徨に向かって、そっと呟く。
「このままでいたいね…」
(…こ、コイツ……)
未夢が自分と同じ事を考えていたことを知った彷徨は、思わず照れ臭さの余りにコホッと咳をした。
そして、やっぱり単純だと心の中で自嘲気味に笑った。
END
|