西遠寺の石段に桜が咲き乱れ、風が通り過ぎる度に花弁が舞う季節が訪れた。
屋根から見る平尾町の家々からも、桜の淡いピンクに覆われた木々がちらほらと見え、街全体が春の到来を喜んでいるように見える。
心地よい春の午後。
彷徨は西遠寺の屋根に登って、一人の時間を楽しんでいた。
「彷徨ぁーっ?!そこでなにしてるのぉー?」
下のほうで彷徨を呼ぶ未夢の声が聞こえ、彷徨は町並みから視線を外した。
「桜見」
「はあ?」
怪訝そうな表情をする未夢に彷徨は小さく笑うと、
「未夢もこっち来るか?」
と誘う。
「え?うんっ!」
未夢は近くに掛けてあった梯子を使って、屋根に這い上がって来た。
「ほら、手」
「…ありがと」
危なっかしく近寄る未夢に、彷徨は手を差し出して自分の隣へと引き寄せる。
未夢が彷徨に近付くと、不意に柔らかな香りが彷徨の鼻を掠めた。
(…これって…未夢の……だよな…)
時折風呂場でこの香りに気がついてはいたが、そんなに良い香りだとは思わなかった。
だが未夢から香るそれはとても優しげで、思わず抱き締めたい感情に駆られる。
(な、何考えてんだよっ!俺はっ!!)
「ん?なに彷徨」
少し首を傾げる未夢を見て、顔が火照る前に慌てて視線を逸らし「いや、別に」と手を離す。
(どうかしてるな…)
彷徨の横に未夢は座ると、ほっそりとした足を前に出し腕を上げて伸びをした。
未夢の楽しげな表情を見ながら、彷徨も口元が上がる。
「すごーい!平尾町全体が見渡せるよぉ〜」
「なっ!スゲ-最高だろ?よく登ってるんだ」
「私がココに来てからも?」
「ああ」
「彷徨ずるーい!私も誘ってくれてもいいのに〜っ!!彷徨だけ見るなんてズルいっ!!卑怯よっ!!」
「別にいいだろ?俺んちなんだから」
「それでもズルい!!」
「…はいはい」
ぷっくりと頬を膨らます未夢に苦笑いしながら、視線を逸らす。
未夢も諦めたのかクスッと微笑むと、同じように視線を遠くに向けた。
「景色も凄く綺麗…あ、学校の桜が見える!。あの桜の列は公園だね。きっと夜桜も綺麗なんだろうなぁ」
「夜店も出るようだから、明日にでも皆して見に行こうか?」
「ホント?!ルゥくん達喜ぶだろうなぁ。特にワンニャーみたらしの店があったら飛んで行くだろうね」
「「みたらしです〜♪」ってか?」
二人は苦笑いするかのように笑いあう。
春といっても少し冬の名残があるのか、風の中にヒンヤリとした冷たさがあったが、日差しの心地好さが二人をいつまでもその場に留めさせた。
他愛のない会話さえも、今日は気持ち良い。
「桜ってなんでこんなに綺麗なんだろうね…」
「ん?そうだな…」
「昼間でも凄く綺麗だけど、夜は花一つ一つ光りが灯ったように見えて、ふわぁーと白く輝いて見えるよね?」
「お前な…恥ずかしくねぇーか?そんなこと言って…」
「別にいいじゃない?そう見えるんだから。…彷徨には見えない?」
少し間があって、そして照れ臭そうに答えた。
「いや…そう見えるよ……」
(未夢が側にいるだけで、何故こんなに素直になるのだろう……。)
彷徨は未夢を盗み見ながら、そう思った。
春風が未夢の髪をふわりと躍らさせる。
サラサラと流れる髪からあの甘い香りが漂う。
未夢がすっと目をやる。
「何?彷徨」
「あ?何が」
「何がって…見てたでしょ?私の事」
自分でも判らない内に、未夢を見詰めてしまっていたようだ。
(なんで、今日はこんなにも気になるんだ?)
「見てねーよ…」
「絶対見てた!」
「お前の勘違いだ、絶対見てない」
「うむむ…」
怪訝そうに彷徨を除き込む未夢を、彷徨は困った表情で恥ずかしさを悟られないよう視線を逸らす。
すると。
「こらっ!逃げるなっ〜!」
未夢が彷徨の頬に手を当てて、無理やり自分のほうへと向きやった。
「いっ!…」
「…あ…」
振り向かせたは良いが、余りにもその距離が近すぎて、お互い驚きの目で見詰め合っていた。
未夢の瞳に彷徨の姿が映り解け込む。
バッと彷徨は慌てて手を振り払って離れる。
その突如、未夢の身体がぐらりと揺れて、座っていた瓦から滑べり落ちた。
「きゃあっ!!!」
「未夢っ!」
未夢が驚きの悲鳴を上げたのと同時に、彷徨は咄嗟に手を伸ばして未夢の腕を掴んだ。
辛うじて未夢の身体がそれ以上下に行かず、二人はほっと胸を何故下ろした。
しかし、そこからが大変である。
未夢を元の場所まで上げないといけないのだ。
「…未夢、身体を動かして、俺の腕にしがみ付けるか?」
「…う、うん…」
怖る怖る未夢は身体を動かして、彷徨の腕に掴まった。
「くっ…」
彷徨の態勢は前のめりになっていてかなり辛かったが、それでも腕一本で未夢を強く引き上げる。
その表情には少し苦痛の色が伺えて、未夢は不安そうに彷徨を見つめた。
「彷徨…大丈夫?」
「ああ、しっかり掴まってろよ」
「うん」
彷徨に身体が近付いた未夢は、勇気を振り絞って彷徨の首にしがみ付いた。
そのほうが彷徨の腕に余計な負担を掛けないで済むかと思ったからだ。
未夢の髪が彷徨の前でサラサラと揺れて、再びあの柔らかで甘い香りが漂う。
(うっ…)
思わずうめき声を上げ力が抜けそうになるのを、彷徨は必死に堪えた。
形はどうあれ二人は抱き合っているのだ。
男としては喜ぶべきなのだろうか・・・それとも……。
(これがこんな状況じゃなかったらな…)
彷徨は苦笑いしそうになったが、今はそれどころではない。
腕が軽くなったと同時に未夢の腰に腕を廻して、ぐいっと引っ張った。
元の位置に戻って、お互いほっと胸を撫ぜ下ろす。
彷徨は深く深呼吸すると、未夢の耳元で囁いた。
「未夢…大丈夫か?」
少し、間があって、
「…うん…だ、大丈夫…。少し…まだドキドキするけど・・・・・・…」
途切れ途切れに未夢が答える。
彷徨の少し苦しそうに肩を上下に動くのに身を任せながら、未夢はしがみ付いたまま離れない。
よっぽど恐かったのだろう。
彷徨のシャツを掴む未夢の手が微かに震えているのが判り、泣いているかと思った。
彷徨は未夢の腰に廻している腕にそっと力を込めた。
「もう大丈夫だからな…」
「…うん…」
「ゴメンな、その……」
「彷徨が悪いんじゃないよ、お互い様だよ……」
「もう安心しろな…俺が―――――」
(――――な、何を言おうとしてるんだ?俺は?)
自分の首にしがみ付いている未夢の表情は、彷徨には見えないが、トクトクと響いてくるこの振動は確かに未夢からのものだ。
そしてじっと動かない。
(――――待ってる?次の、俺の言葉を……?)
自分の心臓が異常に高鳴るのを感じながらも、口が開いていた。
「…俺が――――」
「だぁ!?」
突然ルゥが二人の間に割り込んできた。
「「うわっっ!!!ルゥっっ!(くん!)」」
その驚きで一瞬にして離れた二人の足元で、瓦がバキッと大きな音を立てて割れ響き、同時にズトンと天井が落ちた。
「きゃあーーーーーっっっ!!!」
「うわぁーーーーーっっっ!!!」
落ちていく二人に目を丸くして驚き見たルゥは、くっと眉間に力を込めると一気に力を放出した。
「ちゃーーーーーーーーいっっっ!!!」
床に叩き付けられる寸前、二人の身体がキラキラとした透明な球体に包まれて、身体がフワリと浮く。
それに気がついた二人は、互いに驚いた表情で見詰め合った。
ゆっくりと床に下りたと思うと、その透明な球体はふわりとかき消された。
「「た、助かった・・・」」
「マンマぁーーーっっ!!!」
未夢の元へ飛んでくるルゥの瞳には、今にも涙がこぼれ落ちそうだ。
手を差し出した未夢の胸に、ルゥが滑り込む。
「ルゥくん、ありがとね。助かったよぉ〜」
ルゥをぎゅっと抱き締めて頬ずりをすると、ルゥも嬉しそうに頬ずりで返す。
「ルゥ、ありがとな」
彷徨もルゥの頭を優しく撫ぜると、
「パァパっ」と彷徨のシャツを掴んで、ご機嫌そうに左右に揺らす。
ふと未夢が顔を上げて彷徨を見た。
「?」
「言い忘れてたけど…彷徨も…ありがとね」
ルゥを抱きながら、未夢は照れ臭そうに上目で彷徨を見た。
「あ、ああ…」
彷徨も未夢の表情が映ったのか、妙に恥ずかしくなって目を逸らした。
あの時。
ルゥが現れなかったら、お互いどうしていただろうと彷徨は考える。
突然のアクシデントではあったが、それでも未夢と抱き合ってしまったことに、彷徨はホンの少し惑いを感じていた。
未夢に対する罪悪感と、それに反するかのように響く鼓動の高鳴り――――。
例えそれが仕方が無い事だとしても。
しかし、
隣にいる未夢を見ると、もう先ほどのことなどすっかり忘れたようにルゥとジャレあっていて、彷徨は苦笑いまじりにほっと胸を撫ぜ下ろした。
(気にし過ぎか…って、なんでこんなに気にしないといけないんだ?)
「俺、屋根の修理しないといけないから…」
落ちた時についたホコリを払いながら部屋を出ようとすると、
「私も手伝う!」と未夢が慌てて追い掛けてきた。
「お前はしなくていい」
「なんでよっ!これは私の責任でもあるんだから!」
「お前がくると、余計邪魔……いっ!!」
未夢からバシッと背中を思いっきり叩かれて、彷徨は思わず悲鳴を上げた。
「どうせ、私はお邪魔虫ですよ!!!」
部屋の障子を激しく開けて、ビシャリと閉じる。
ドスドスと廊下を歩く未夢の背中は可也怒っているようだ。
(…怪我させたくないから…なんだけどな…)
自分の言い方も問題あるなと反省して、頭の後ろをボリボリと掻いた。
屋根の上にいた未夢と今の未夢はまるで別人のようで、コロコロと表情が変わる未夢に彷徨は戸惑ってしまう時がある。
だけど同じ…未夢なのだ。
そしてそんな未夢を最近やけに気になるのも確かで。
(今日は未夢に振り回されてばかりだ…)
はぁ…と深い溜息が漏れる。
「さて…修理しますか…」
彷徨は天井を見ながら呟いた。
ぽっかりと空いた穴から見た空が、やけに眩しかった。
END
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