作:杏
「彷徨ぁ〜…ねぇ、ノート見せてくれない?」
「ノート? 何の?」
そろそろと襖を開けた未夢を、振り返った彷徨が見上げた。
「えっと、数学と理科…」
「午後の分? 寝てたのか?」
まぶたを半分落として、ニヤリと口角を上げる。向かっていた机の傍らには今日はなかった英語の教科書。
「違うわよっ! …ちょっと、追い付かなかっただけ」
頬を膨らませた未夢は噛みつくように肩をいからせて、それでもすぐに目線ごと肩を落とした。
「…? ほら」
「ありがとっ! …宿題、なかった…よね?」
ノートを胸に抱いた未夢が、彷徨の陰に見える、英単語が並んだルーズリーフを指差した。滑らかな筆記体はパッと見では読めなくて、先日の授業で何か宿題が課されていただろうかと慌てる。
「あぁ、これはただ予習を…」
「ふあぁぁっ、ふみゃあぁぁぁ〜〜〜…まんまぁ〜〜〜…」
「「…………」」
「……最近おまえにべったりだな」
声の方に揃って目を向けた。泣き声の隙間に聞こえる声の主は、いつものずんぐりむっくりではない。
彷徨には見慣れた、未夢の目には違和感のある人影が、薄明かりの障子に映っている。
「うん…ワンニャーがわたしに変身してあやしてるくらい…。 うちにいる間中ずーっと抱っこで…最近肩が重いんだよぉ〜」
「お疲れ。 俺、見てくるから、未夢はそれやっとけよ」
「あ、うん…」
立ち上がって未夢の頭をぽんぽんと撫でた彷徨が、パチンと灯りを消して廊下へ出る。
生返事の未夢の気配は、彷徨の後ろに続かずにそこに留まっている。
「…どーした?」
「彷徨にとられたって思ってるんじゃない? ルゥくん」
駆け寄って、じっと見上げて。
事もなげにそう言った未夢に、彷徨は目を瞬かせて。ふっと吹き出した。
「……よく自分でそーゆーこと言えるよなぁ。 自意識過剰なんじゃねーの?」
込み上げる笑いを肩で堪えながらからかうと、未夢はかぁっと赤くなる。
だって、と口先を尖らせるその前髪を乱暴に撫でて。
「ばぁか。 早く終わらせて、助けに来いよ? どーせ俺やワンニャーじゃ寝ないんだから」
「……うん、ありがと」
とられている、なんて。こっちのセリフだ。
我ながら大人気ないとは思うけど。
気持ちが通っても、ルゥには敵わなくて。
小さなルゥに嫉妬している自分に自嘲しながら、今だけ貸してやるよと、毎日心のうちで最大限の譲歩。
幸せそうに未夢の胸で眠るルゥを羨ましいなんて。思わない訳がない。
◇
「ふい〜〜〜〜〜〜やっと寝たよぉ〜〜〜〜…。 さっ、続き続き!」
眠ったルゥはワンニャーに任せて、未夢と彷徨は音をたてないように部屋を出た。
居間のテーブルに広げたままのノートと向き合って、未夢はまたシャーペンを握る。
「終わってからでいいって言ったのに…」
「だってぇ、呼ばれてると集中できないんだもん〜。 可哀想になっちゃって…」
台所でお茶を淹れてくれている彷徨と、ちょっと大きめの声でやりとり。
「…彷徨はいいの? 英語の…」
「ちょうど終わったところだったし。 片付けるのはあとでいいだろ? どうせそれも一緒にカバンに突っ込むんだから」
ここに居る必要も特にないけど、ただ、なんとなく。
ここのところ毎日、未夢の取り合いだから。ルゥが寝たあとくらい…未夢はそんなことまで思っていないだろうけど。
彷徨がやきもきしているのを知ってか知らずか、未夢もこの時間を嬉しく思っているのか。
テーブルに湯呑をふたつ並べた彷徨が向かい側に腰を下ろすまで見届けて、未夢は嬉しそうに笑う。
「―――っ! か、彷徨…っ」
「どうかしたのか? …熱持ってるぞ」
「う、うん……。 ときどき、痛むんだよね…」
コトンと湯呑を置いたのを待っていたように、ペンを持った右手の手首を掴まれた。
不安定に右奥の湯呑に左手を伸ばしたのを、本に目を向けながら彷徨は、それでも見逃してはくれなかった。
「腫れてはないけど…。 ひねったとか、筋違えたとか…?」
心配そうに覗く彷徨に、未夢は観念して小さく首を振ってみせた。全く心当たりがない。
「授業中とか、ルゥくん抱っこしてたりとか…」
「授業中? …ノートもとれないほど?」
ハッとして口元を手で隠した。せっかくさっきはごまかしてノートを借りたのに、たった一言でこの人はその理由に辿り着いてしまう。
「あっ、でも、そのときだけだし! うちに着く頃にはひいてたから、平気」
持ったままだったシャーペンが攫われて、コロンとテーブルに転がされる。
「痛かったら言えよ。 そこは触らないけど」
(ひゃあ〜〜〜〜〜〜っ!)
指を絡ませるように挟み込んで、親指の腹で手のひらがほぐされる。
肘より少し先、そこから親指の付け根にかけての痛む場所を避けて、揉むと言うより撫でるように滑る彷徨の指。
(あ…でも、痛くないし、気持ちいい…かも)
その感覚に陶酔するように、未夢はいつの間にか目を閉じていた。
―――ぺしっ
「!」
「あんまり負担かけるなよ? またすぐに痛み出すぞ」
「うん、…あ、ありがと…」
おそるおそる、指を折ったり伸ばしたり。
(…わぁ、さっきより痛くなくなった……)
心なしか重かった腕が軽くなった気がする。ちょっとだけ感動に浸って、思い立つ。
「ね、彷徨っ?」
「んー?」
「ついでに、肩ももんでくれない?」
「はぁ?」
「最近抱っこが多くて、肩凝ってるんだよねぇ〜。 ねぇ〜ちょっとでいいからぁ〜〜〜」
一番に辛いところが楽になると、他の場所が気になってくるもの。
甘えた声は意識してだけど、思っていたよりも甘くなった。上目遣いに、おねだりしてみる。
「……。 ったく、…ほら、あっち向けよ。 髪、よけて」
「やったぁ〜! はぁ〜いっ!」
「――――…!」
(細い…)
今まで、何気なく掴んだりしてたけど。改めて触れると、細くて、柔らかくて。
その華奢なラインを壊しそうで、力加減がわからなくなる。
「もーちょっと、下……あ〜そこそこ! 気持ちいい〜」
「………」
キモチイイ、とか。特に他意がないのはわかってるけど。
(…んなこと、言ってくれるな……)
「…? おまえ、これどーしたんだ? 赤いぞ?」
「えっ、どこどこ!?」
つーっと撫でた、肩の薄く小さな赤み。
「あっ、さっきルゥくんがその辺で指しゃぶりしてて…、いつの間にかわたしの肩吸ってたのかな?」
「………は…?」
ルゥを抱える右の手首が悲鳴を上げていて、それが伝わらないように、ルゥのリズムを崩さないことに必死で。
気付かなかったな、とケロッと言ってのけて鏡を確かめる未夢と目が合った。自分がどんな表情をしているのか、瞬時に頭を巡ったことがそのまま顔に出ていそうで、ふっと目線を逸らして。
未夢はきっと、その跡の名前を知らない。
◇◇◇
「あっち〜〜〜〜! いや〜〜やっぱオレら最強コンビだよなぁ〜」
体育の授業が終わるまであと10分ほど。
最後の試合が始まる頃、入れ替わりに今まで試合をしていた彷徨や三太たちが、体育館の渡り廊下がつくる日陰に集まっていた。
ドドォォォォン! ガシャ――――ン!
「きしゃあぁぁぁぁぁっ!」
「………」
「体育で暴れるなんて珍しいなぁ〜。 なぁ、彷徨? 何かしたのか〜?」
「……なんで俺に聞くんだよ」
今まで一緒に試合をしていた三太に呆れた声を返す。騒動の発端がいつだって彷徨にあるのは、認めたくないけど皆が知る事実。
その場にいない彷徨じゃないとなると、間接的にそれは“彼女”ということになるのも、当然の公式で。
(…怪我とかしてなきゃいーけど)
目を向けるのはあくまでグラウンド。鈍くさい彼女を心配するのは、声には出さない。
「あ、彷徨っ。 男子はサッカー? 試合待ち?」
渡り廊下へ登る数段の階段に腰掛けていた彷徨と三太の上から、降ってきた声。見上げると未夢がいた。
「いや、今俺らが終わって、あれが最後。 女子は?」
「器械体操だよぉ〜」
「器械体操、っておま…」
「何があったの〜? 光月さん」
彷徨を遮って体育館を指差した、三太。そちらではまだいつもの騒動が続いているようだ。
彼女を止めてくれる着ぐるみ執事も、学校にはいない。
「う〜〜〜ん…わたしもよくわかんないんだけど、突然…。 たぶん今頃、平均台振り回して…」
彷徨がいない体育の時間。自分が原因であることはわかるんだけど、なぜかはわからない。クリスとは別の列に並んでいたし、他の子と彷徨に関する話をしていた訳でもない。
「――それより! おまえ、その手で平均台なんかやってたのか!?」
「う、うん…ちょっと無理しちゃったみたい…。 そ、それで、保健室行こうと思って…」
悲鳴と騒音が、ドリルやら電動ノコギリやらの機械音に変わっていた。まだチャイムのなっていない今、未夢ひとりが出てきたことに合点がいく。
しゅんとすくめた未夢の肩から、さらりと髪がひと房流れて。彷徨には、騒動の原因がわかってしまった。
「…………」
未夢を隠すように立ち上がって、その手を掴む。涼むだけで特にやることもない男子たちの視線はさっきから感じていた。
遠目に見るヤツらからは遮れたけど、堂々と隣にいる三太だけはどうにもならない。
「…おまえ、このあとは体育見学だよな?」
「やっぱり、そうなるかなぁ? まぁどっちにしても、再開もあやしいけど…」
未夢は自分のやってきた方を振り返って、右手をじっと確かめる彷徨から意識を逸らした。
「じゃー髪、解いとけよ」
「え…っ?」
不自然なのは承知。鈍い未夢ですら、首をかしげている。それにも構わずに、彷徨は結われた髪の結び目に手を伸ばした。
「ちょっ、痛いじゃないっ」
「あ――――っ! あんなところにUFOがぁっ!」
「「え…っ!?」」
普段ならこんなのには絶対騙されない彷徨が、三太の指差す空に目を向けてしまった。
それが宇宙に関連するワードじゃなければ、つられない自信があったのだけど。
「見〜つけたっ」
三太の目が目聡く光った。
「ゆっ、UFOなんてっ! いないじゃないっ! ねっ、ねぇ彷徨っ!?」
「あっれぇ〜気のせいだったかなぁ〜?」
(……ヤバい)
「…早く! 保健室、行ってこいよ! 次の授業も間に合わなくなるぞっ」
「か、彷徨?」
明らかに様子のおかしい彷徨に驚いて、それから少し不安そうに未夢は見上げた。解放された髪をくしゃりと首のところで掴んだのは、偶然なのに。
それを隠すように、三太には見えただろう。
「……? じゃあわたし、保健室行ってくる、ね…?」
「お、おう…」
「行ってらっしゃ〜い、光月さぁん」
未夢を見送ったあと、うまい具合に集合がかけられて、三太の追及は避けられたのだけど。
「かぁ〜〜〜なったくぅ〜〜〜〜ん?」
「………な、なんだよ?」
こーゆーことは忘れてくれないのがこの悪友である。
未夢が心配だったのもあって、更衣室に足早に逃げかえろうとしていた彷徨。しかし、そのドアを目前にして。後ろからがしっと肩を掴まれた。
「さぁ、西遠寺クン! 光月さんの肩にあったアレは、キミの仕業で間違いないね!? 素直に吐くんだぁ〜!」
尋問さながらの質問。なんだなんだと、友人たちが通り過ぎては、ドアの向こうに消えていく。
「………ちげーよ」
「ウソつくなって! おまえ以外に誰がそんなことするんだよ!?
いや、したいヤツらは腐るほどいるだろうけどさ! おまえが他のヤツにみすみす手を出させる訳がないだろ!?」
「…………」
黙秘。この場合、それは言葉通りに読んでのイエスで、痕跡に対しての否認であることは明白だけど。
「彷徨、おまえ……」
「……」
「まだ殺人犯じゃないよな?」
「………」
「自首しろ、彷徨ぁ! 認めれば罪は軽くなる! オレはおまえを信じてるぞぉ!」
熱くなる三太の言葉はどんどんと意味不明な方向に飛んでいく。
それでも、自分を説明するには尤もなことばかりを言っているのがムカつくところだったりする。
「……どっちだよ…。 いるだろ、あいつが無条件に受け入れるヤツ。 あればっかりは敵わねーんだよ」
さすがに呆れた彷徨が、しぶしぶ真実を白状。子供っぽくふて腐れるのは、三太しかいないから。
「ああ〜〜〜〜なるほどぉ…」
ピンときたらしい三太が、大げさにうんうん頷く。
(……ったく…)
ようやく解放された彷徨が、更衣室のドアに手をかけたとき。
「…でもさぁ、彷徨。 オレはともかく、他のヤツらはそれじゃ納得しないぜぇ?」
「…は?」
ガチャッとドアを開けたら。
「――とりあえず、揉まれて来いっ!」
三太が勢いよく、背中を押した。
「西遠寺ィ! どーゆーことだよ!」
「まさか光月さんを…!」
「ずりーぞ、彷徨ぁっ!!」
「―――な、なんだよ、おまえら!?」
「おまえら、ひっぺがせぇ! こいつにもあるんじゃねーの!? 光月さんのあと!」
「思わず噛みついたアトとか!?」
「ゆ、許せねぇ〜〜〜〜っっ」
「ばっ、ばかやろっ! ねーよ、そんなもんっ! 三太! てめっ、裏切るのか!?」
「ま、真相はあとで発表してやるよ〜光月さんのためになぁ〜?」
「……ルゥにこんなもんつけられてんじゃねーよ」
「…? 彷徨? きゃ…!」
「なななな何するのぉっ!?」
「………昨日のルゥと同じコト」
「おなじ、って…! ルゥくんがするのと彷徨がするのじゃ…」
「これ、なんてゆーか知ってる?」
「……?」
「―――俺の、ってしるし」
☆☆☆
こんばんは、杏です。浮気でスミマセン。
前後編をやめて、長〜い1話にしちゃいました。
しかも思うままにつらつら書いただけなので、おかしなところが多々あるかもしれないです。クオリティレベルアップを放棄した作品です。
このあと、三太くんはどうなったでしょう?生きてるかな?(笑)
ルゥくんに一番をとられた彷徨くん、二回目は死守ですとも!
こんな書き方しか出来なかったのが残念(号泣)
ルゥくんに出来るのかってのがこの作品の一番の突っ込みどころですがw
さて、“指先”の方が行き詰ってます。困った。。。
リフレッシュしたし、もう一回、ない知恵をひねりますw
ご覧戴きありがとうございました♪