作:珠洲川 琉苡
※現代/恋人未満
北風がとても冷たい冬は、ぐずついた空模様が多い。
6時間目の数学が行われている2−1の窓から覗く空も、何とも不機嫌そうな灰色に染まっていた。
学校での最後の授業は眠くなりがちだが、朝からなかなか気温が上がらない今日は眠ろうとしても眠れない。
しかし、未夢は例外らしく昼食後からずっと窓の外を向いたままうとうとしている。
体勢自体は授業中のものと差は無いが、シャーペンを持つ右手は完全停止しており瞼は三重にも皺を刻んでいる。
普段から緊張感に欠けている未夢といえど、今回ばかりはしっかりと理由があった。
2月下旬である今日からおよそ1週間後。第4中学校では、卒業する3年生への送別会が一足早く行われる。
文化祭ほどとはいかないものの、各クラスからの発表やレクリエーションが盛り込まれた送別会は毎年なかなかの盛り上がりを見せている。
と言っても、今年度転校してきた未夢には無論初めてのものだ。
卒業式が終わり春休みになれば、未夢の両親はアメリカから帰国し元居た街で再び3人で暮らすことになる。
散々遊んでいろんなことを一緒に体験した友達や世話になった学校とも、もうすぐお別れ。
それなら、最後のイベントである送別会にはいつもと違った形で参加して、いい思い出を作るのもいいんじゃないか。
転校してきてから実に様々なイベントやハプニングに巻き込まれた未夢だが、思えば行事に積極的だったことがない。
だから、今回は実行委員に立候補し動き回っているのだ。
それゆえに、それなりの重労働や作業が連日して行われているため、昨夜も未夢は寝不足だった。
「・・・―――」
教師の声音はやわらかく、難しい数学の問題であっても今の未夢には子守唄にしか聞こえていない。
一度でも完全に瞼を閉じてしまえば、確実に心地よい眠りにつくだろう。
頭の中ではいけないと判断している未夢だが、生理的欲求には勝てないらしい。
次第に頭が小さく上下し始めると、不意に教室内がわずかにざわついた。
「うお、降って来た!」
クラスで一番耳にこびり付く三太の声が嬉しそうに響くと同時に、未夢の頭は大きくバウンドし自身を睡魔から連れ戻した。
突然の大声とクラスのざわめきに数瞬追いつかない思考を必死にめぐらせてから、未夢はみんなと同じように窓の外へ目をやった。
冬の時期特有の灰色に染まった雲のすき間から、舞い落ちるように雪が降っている。
毎年、あまり雪が降らない平尾町にとって、この光景はそれなりの興奮を与えるものだった。
普段は黒板から目を放す生徒を注意する教師でさえも、久しぶりの雪に目を奪われるほど。
もちろん未夢も頬を緩ませながら見ていたが、ふと気付く。
しまった! 私、傘無いんだった!
雪があまり降らないといえど、山に近いこの町の冬は天候が変わりやすい。
そのため、折りたたみ傘は出来る限り携帯するべきだが、生憎未夢は先週末に愛用していたそれをなくしてしまったのだ。
今日までは何とか傘要らずで済んだために忘れていたが、空模様からして今日はそうもいきそうにない。
・・・・・しょーがないから、彷徨に入れてもおうっと
小さくため息をつきながら、茶色のグラウンドが白く染まっていくのを未夢は見つめていた。
『――・・実行委員に連絡します。臨時ミーティングを開くので、至急207教室に集まってください。繰り返し・・・――』
「そんなぁ・・・」
午後のHRが終わり、各々が帰宅し始める頃に響いた校内アナウンスに、未夢は即座に肩を落とした。
支度が整い彷徨に傘を入れてもらおうと頼んでる最中の連絡に、つきたくもないため息がこぼれる。
今日は数日振りに実行委員の仕事が休みの未夢には、臨時の呼び出しが説教の呼び出しのように聞こえてならなかった。
「ほら、早く行けって。ミーティングならすぐだろ」
目の前で力なく項垂れる未夢に、彷徨は呆れた物言いで行くように促す。
「うー・・・あ、でも、彷徨も委員会なんだっけ?」
思い出したように聞いてくる未夢に、彷徨は「あぁ」と短く返した。
未夢とは別の委員会に所属している彷徨も、未夢ほどではないもののこの時期は普段より仕事が入っている。
送別会は実行委員が中心なのにどうして俺まで。と、彷徨がぼやいていたのは先週のこと。
「多分、未夢のが早いだろうから教室で待ってろ」
「分かった」
アナウンスが終わってから刻々と過ぎていく時間が惜しいと思ったのか、彷徨は未夢を引きずりながらさっさと教室を後にする。
走っていく彷徨を見て、未夢も慌てて反対方向へと走っていった。
その様子を静かに見ていたクリスが、教室内で一騒ぎ起こしているのに気付きもせず。
冬の時期。夕方から夜にかけての冷え込みは、なかなかにこたえるものだ。
ここのところ、毎週のように開かれる委員会は毎回北校舎3階の第2理科室を会場にしている。
もともとどこからか冷たい隙間風が流れ込むこの部屋で、彷徨は他の委員と一緒に委員長の話に耳を傾けていた。
傾けるといっても次回の作業工程の確認がメインなので、配布されたプリントを見ていれば済むこと。
彷徨は大して集中して聴くことも無く、足首に触れるひんやりとした空気から早く解放されることだけを考えていた。
「――・・・それじゃあ、連絡は以上。おつかれさまー」
気の抜ける委員長の声を合図に、委員はぞろぞろと退室していく。
小さく息を吐き出しながら、彷徨は足早に2−1教室まで向かう。会議中に見た時計の針は、その時点で意外と進みが速かった。
それからも連絡は長かったので、あれから少なくとも10分以上は経過しているだろう。
毎回同じような長さで終わる委員会だが、今日は集合に乱れがあったためにその分もプラスすると廊下の照明がやけに明るいのも理解できる。
ただでさえ帰宅が遅くなるというのに、今日は未夢を待たせている。
傘を早々に用意しなかった未夢に非があるものの、彷徨は足早になるのを止められずにいた。
「悪い、未夢。待た・・・」
軽く息を上がらせながら教室に入ると、未夢は彷徨の席で寝ていた。
2つの鞄を枕にして寝息を立てているその顔を見ると、彷徨は気落ちしたようにため息を洩らした。
・・・ったく、俺のカバンまで・・
未夢のものより厚みがある彷徨の鞄は、材質がやわらかく意外とさわり心地がいい。
それに気付いたのかは定かじゃないが、未夢の頬はそれにこすりつけるように乗っかっている。
「おい未夢。帰るぞ」
近寄りながら声をかけるが、未夢の肩は規則正しく上下したまま。
一緒に暮らしている者として、相手がちょっとやそっとじゃ起きないことを十分承知している彷徨は、揺さぶって起こそうと肩に手を置いた。
その拍子に、やわらかい未夢の髪が肩から少しだけ顔のほうへ流れた。
「――・・・!」
かすかに自分の手を撫でた髪は、あどけない寝顔の未夢を一層魅力的にさせるかのように、流れ落ちた。
ゆるやかな曲線を描き、目元から口元へと落ちる。
ほんの些細なこと。
偶然の産物。
なのに、未夢のその姿は「可憐」と「綺麗」がまざりあったように魅力的なものとして、彷徨の目に映った。
いつも見ている、光を当てると綺麗に輝く品のいい金髪。
何度か見てきた無防備で幼く見える寝顔。
記憶に残っているものと何ら変わらないはずなのに、彷徨は動かないままそれを見つめる。
教室内には2人しかおらず静かなはずなのに、今、自分の耳にはうるさいぐらいの心音が届いている。
・・なんだよ・・・・コレ・・・
以前にもあったこの感じは、息がうまくできないような僅かな苦しさと、体温が一気に首から上へ集まるような感覚を伴うため、何だか辛い。
しかしその辛さは決して拒絶したいようなものではなく、寧ろわずかながらの嬉しさを運んでくるもの。
それは回数を重ねるたびに、どうにも大きくなっているように感じられて仕方ない。
その都度、状況は変化しているがそれでも自分が未夢に触れたり目が合ったりと、未夢と一緒のときに限られていると彷徨は感じていた。
自分でも理解が追いつかないほど、早くなる鼓動とほんのり感じる嬉しさは一度自覚すると、しばらく自身の思考を占拠してしまう。
味わったことの無い感覚は、毎回彷徨の心をかき乱している。
今言えることは、その乱れが自分の表情を限りなく恥ずかしいものへと変貌させるということ。
くっそ・・・何で俺、顔赤くしてんだよ・・・
鏡など見なくとも判るほどの熱りっぷりに、彷徨は内心困惑しまくっていた。
目が離せない未夢の顔は、変わらず子どものようなやわらかい表情を浮かべている。
金縛りのように動かない瞳は吸い込まれるようにそれを見つめる。
「・・・っん・・」
「っ!」
閉じていた瞼が小さく震えて、その碧い瞳がゆっくりと彷徨の目に映る。
ぼーっとした眼差しで方に置かれた手とその主を視認すると、未夢は目をこすりながら起き上がった。
「あ・・・彷徨。お疲れ様」
「あ、あぁ。待たせちゃったな」
「ううん。私も寝ちゃってたから」
くあ、とまだ眠たそうに欠伸をする未夢とは反対の方を向きながら、彷徨はポーカーフェイスを僅かに崩しながら高まった鼓動を必死に静めている。
未夢が覚醒すると同時に、自分も我に返った様な感覚を味わった。
その瞬間、自分が未夢を見つめていたことに戸惑いと羞恥が一気に湧き上がったのだ。
「じゃあ、帰ろっか。って・・・・彷徨?」
「! え、あ・・・いや、なんでもない」
声掛けに少しだけ振り向くと、彷徨はそそくさと荷物を手に教室を出て行った。
珍しく戸惑った様子の彼に、未夢は小さく首を傾げながら後を追う。
階段を下り昇降口の外に出ると、そこはすでに白色で染まっていた。
始めは小降りだった雪も、5時過ぎの今となってはそれなりの大きさとなって降り積もる。
彷徨はしばらくその景色を眺めると、後ろから聞こえてきた足音に合わせて傘をポンと開いた。
「いやー、すみませんなぁ。彷徨さん」
「全くですなぁ。花小町がいたらどうなっていたことやら」
「うっ・・・・すいませーん・・」
「ほら、さっさと帰るぞ」
すたすたと先を行ってしまう彷徨に、未夢は短く文句を零しながら傘の中へと入る。
その瞬間、自分の隣に並んだ未夢がやけに近く思えて、彷徨はどきりとした。
目線よりも少し下には、さっき目を奪われた綺麗な金髪。
仄かにかおる甘いバラの香りは、よく洗面所や浴室でかおるものと同じ。
他愛も無い事を独りでに紡いでいる唇は以前、―――
「――っ!」
「―・・よねぇ、だから・・・、彷徨? どうかしたの?」
息を呑むのが聞こえた未夢は、不思議そうにこちらを見てくる。
よく判らない方向へ進む思考と若干上目遣いな未夢の所為で、彷徨は一瞬言葉につまり視線を未夢の唇から反対側へと移した。
幸い、仄かに赤みを帯びている頬には気付かれなかったようで、未夢は不愉快そうに眉を顰めた。
「ちょっと、さっきから変だよ。どうしたの?」
「・・別に、なんでもないって」
「じゃあ何で、わざとそっぽ向くのよ」
「だから何でもな――」
「ひゃっ?!」
振り返りながら彷徨が返すと、素っ頓狂な声が響き直後に鈍い音が足元から届いた。
見ると、小さく盛り上がった氷の上で未夢が躓いたように膝をついている。
スカートの未夢は小さく呻りながら、膝を両手で包むように覆っている。
「ちょっと見せてみろ」
素直に未夢が手をどけると、若干血が滲んでいる膝が露わになる。
歩道には確かに雪が積もっていたが、すでに多くの歩行者の所為でアスファルトが見えているところもあった。
恐らく未夢の膝は、運悪くそこへこすり付けるように当たったのだろう。
大した出血ではないが、赤くなった膝は見るからに痛そうだ。
すると、彷徨は傘を未夢に持たせ、ティッシュで軽く汚れを取ってからハンカチで膝を包む。
「これで、多少は歩きやすいだろ?」
「・・うん。あ、ありがと、彷徨」
互いに覗き込むような目で言うと、ばちりと視線が絡み今度は2人とも目を逸らした。
数秒の沈黙をおいてから、彷徨の手をとりながら未夢は立ち上がり再び歩き出す。
傍らの車道には、行き交う車が徐々に増えていく。
どちらも喋らない沈黙は普段だったら居心地の悪いものだ。
しかし、今の2人にはこの沈黙が有り難かった。
な、何か・・・どきどきするんですけど・・!
・・・本日、2回目・・か・・・
互いの心音は車の音にかき消されたように思われたが、各々の耳にはしっかりとこびり付いていた。
放っておきたくても気になって仕方ない、かすかな温もりとともに。
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