春一番

作:ささめ






風が、強い。
淡い桜色を纏った木をざわざわとゆすり、遠く海の方へ吹きぬけていく。
春だ。
強いけれど、冬の風より柔らかい、その感触に、彷徨はしばし目を閉じた。
「彷徨ー!遅刻するよー!」
西園寺の長い石段の下で、未夢が風に負けないように声を張り上げる。
非難めいたその声音さえ、耳に心地いいのは、風がその粗さを削ってしまうのか、それとも他に理由があるのか。
いずれにしても、風が強い。
スカートにくるくると巻かれて、どこかへ飛ばされそうな風情の未夢に向かって、わかったという合図に片手を軽く挙げると、彷徨は石段を一息に駆け下りた。
彷徨が石段を降り切ったのを確認して、未夢が走り出す。
運動音痴の未夢が先に走り出したところで、彷徨はすぐに追いついてしまうのは当たり前で。
中学生の男女なのだから、ほぼ毎日一緒に登下校なんていうのは、校内でも珍しくて。
それでも、西園寺から学校まで二人並んで走るのは、もういつもの光景になっている。
もっとも、二人が並んで走るということは、彷徨が未夢に速度を合わせているということだけれど。
強い風に、未夢の長い髪がなびく。
未夢はそれを払うこともなく、一生懸命走っている。
一瞬、風が見せた未夢の首筋に、彷徨は眩しいものを見るかのようにふっと視線を逸らせた。
息を吐く。
そして吸う。
いつも隣にいる未夢の、些細な変化に気付くたび、彷徨は息苦しいような、叫びだしたいような不思議な心地になる。
自分だって、未夢と出会った頃よりだいぶ背も伸びたし、声だって少し低くなった。
だから、彷徨と同じだけの時間を過ごしている未夢が変わらないはずはないのに。
桜色の唇の紡ぐ言葉を、長い睫毛を伏せて髪を整える仕草を、そして、大人びた表情がふっと緩む瞬間を、その全てが、彷徨を揺する。
強い、風のように。
理性なんて捨てて、叫ぶとしたら、何を叫ぶのだろう。
信号が赤に変わって、彷徨は深く息を吐いた。
隣の未夢は、電柱に寄りかかるようにして息を整えている。
息遣いに、喉が鳴る。
「風・・・っ、強い、と、走りにく・・・ね。」
よせばいいのに、肩を上下させながら、未夢が笑う。
その華奢な肩を優しく抱きたいような、荒く揺すりたいような、乱暴で、臆病な気持ち。

 何なんだ・・・。

身体の熱を拭うように、彷徨は額に手を当てた。
目の前を通っていた車の流れが止まる。
「お前、走るの苦手なだけじゃないか。・・・と。」
信号が変わる。
「行きますぞ。」
「あ、おい。」
また足を踏み出す。
横断歩道の白と黒の縞を踏みしめながら、考える。

 俺にとって、未夢は家族。

だから、これは、恋なんかじゃない。

未夢にとって、俺は家族。

だから、これが、恋になるはずなんか、ない。
白、黒、また黒、そして、白。
期待を、否定して。
絶望を、希望に変えて。
信号は青。
この気持ちに、彷徨の理性が出すのは、黄色信号。
風が、広い大通りの砂埃を舞い上げる。
「きゃ・・・っ!」
短い、聞き慣れた悲鳴と、前に倒れ込む白いブラウスに、彷徨は手を伸ばした。
人の確かな重みに、腕が悲鳴を上げる。
「あ、ごめ・・・」
信号が点滅する。
一度よろけた未夢の足元は、なかなか元に戻らない。
彷徨は未夢を自分の体に引き寄せて、支えるように道を渡りきった。
信号がまた赤に変わる。
困ったように彷徨を見上げる未夢の頬も、赤く染まっていく。
綺麗だ、と思った。
無機質な機械の作り出す赤より、ずっとずっと。
抱きしめたい、と思った。
この赤を、独り占めするために。

 いつから、こうなったんだろうな。

未夢がこんな風に頬を染める様子に、優越感を抱くようになったのは。
自分は特別だという、他の男への優越感。
未夢の心を、この瞬間、たとえ一瞬でも自分で占められたことが、こんなにも自分の心を擽る。
未夢の鼓動が、聴こえそうなほど近い。
自分の鼓動が、聴こえてしまいそうなほど弾む。
「ありがと・・・」
渡りきった信号の下で、ぱっと離した手す。
名残惜しかった。
弾んだ心と、身体を、風が冷ましていくようだった。


頬が熱い。
風は、冷たい。
未夢は風にさらわれそうになる息を、そろそろと吸い込んだ。
まだ、彷徨の匂いがする気がする。
自分とは違う、男の人の匂い。
一つ屋根の下で、同じご飯を食べて、同じ石鹸を使って、洗濯の洗剤すら同じなのに、違う匂い。
自分の身体が、強い風にさらされていることが、何だか残念だった。
「痛むか?」
「ん・・・、ちょっと。」
ガードレールに寄りかかった未夢は、彷徨に見えないように、顔を伏せた。
これは、未夢が何かを隠すときの癖だ。
自分の感情が表情に出やすいことを知っている未夢は、こうやって顔を隠す。
彷徨がじっと自分を見下ろしている視線を感じながら、未夢は小さく身じろいだ。
「でも、歩けないほどじゃないし、大丈夫、大丈夫!」
腫れを見るのに下げていた靴下を手早く上げる。
ひねってしまったらしい、足首の感覚は鈍い。
未夢の心臓は、まだこんなに悲鳴を上げているのに。
「ここまできたら、家より保健室の方が近いよなぁ・・・」
「あ、じゃあ私ゆっくり行くから、先生に言っておいて?」
やっと嘘でも強がりでもない言葉を口にすることができて、未夢は彷徨を見上げた。
視線が合う。

 いつから、かな。

こんな風に自分を見つめる彷徨の視線を受け止めることに、息苦しさを感じたのは。
息苦しいのに、嬉しくて。
彷徨の瞳に映っているのが、自分だけなことがこんなに未夢の心臓を弾ませて。
学校中の女の子への、優越感と罪悪感に、心がちりちりした。
桜の花びらが、風に舞っている。
花占いの後のように、ひらひら、頼りなく。

 彷徨は、家族。

学校向けに言うなら、従弟。
だから、彷徨は特別。

 学校で、何もかも一番の、男の子。

女の子なら、誰もが一度は憧れるのかもしれない。
そして、未夢は、特別ではない。
一番なところじゃなく、もっともっと素敵なところがあるのを、未夢は知っている。
照れ屋で、不器用な彷徨がほとんど見せることのない、色々なもの。
「俺はそこまで薄情じゃないぞ。」
そう言って未夢の鞄を持つ彷徨に、未夢の鼓動がまた跳ねる。
それは、憧れというよりもっと凶暴な感情なのかもしれない。
その手で自分に触れてほしいような、その手を払っていつも冷静な瞳を困らせたいような、甘えと、自立。
もっと。
もっと。

 もっと、何?

何か解らないけれど、とにかく足りない。
そんな、不思議な気持ち。
「痛・・・」
左足首に鈍い痛み。
痛みは、身体の危険信号。
この鼓動も、多分、危険信号。

 何なのよ・・・。

揺れる気持ちを断ち切るように、未夢はガードレールから地面に乱暴に下り立った。
もう歩きだしている彷徨の背中が、未夢が思っているより大きく感じられて。
かけがえのないものを見るように、未夢は目を細めた。
出会ったときからもともと大人びていた彷徨は、もうほとんど「男の人」だ。
いつも一緒にいるから、たまに彷徨の「男の人」を感じると、くらくらした。
偶然耳元を通り過ぎる低い声が、未夢を庇う腕の太さが、そして、ときどき見せるいたずらっ子のような笑顔が、未夢の心を揺する。
泣きたいような、笑いたいような、不思議な感情。
彷徨が立ち止まって、未夢を振り返る。
二人きりのとき、たまに見ることのできる、気遣うような表情。

 心臓、痛い。

風の音と、自分の心音と。
風に乗って、微かに学校のチャイムが聴こえた。



始業時間の過ぎた学校の玄関には、ほとんど人がいなかった。
同じように遅刻した生徒たちが、それぞれ自分の靴を引っ掴むようにげた箱から取り出しては、脇目も振らず教室へと走っていく。
ぱたぱたと慌ただしい足音が聞こえて、止んで、静けさが戻ってくる。
怪我した足首を無理やりひねって、上靴に足をねじ込みながら、未夢は彷徨を見上げた。
「何だよ。」
視線に気付いた彷徨が、怪訝そうに眉をひそめる。
「あ、えっと・・・その・・・鞄・・・」
もっと言いたいことはあるはずなのに、そんな些細なことしか言えなくて。
「ああ、教室に持ってくから、保健室行けよ。」
ぶっきらぼうな言葉と裏腹に、「一人で行けるか?」と彷徨の表情が言っている。
「あ、ありがと・・・」
「ん。」
ぱたん、と彷徨が下駄箱を閉じる。
「じゃ、先生に言っとくから。」
風が、強かったから。
彷徨が、優しいから。
言葉に、できないから。
理由はよくわからないけれど、気づくと未夢は彷徨のワイシャツをしっかりと握っていた。
ルゥが未夢によくするように。
布地に皺が寄るくらいに。
「未夢?」
このあと、どうしたらいいのかなんて、未夢自身が一番わからなくて。
困ったように彷徨を見ると、彷徨も困ったように未夢を見下ろしていた。
息遣いさえ聞こえそうな静謐な空間に、がたがたと風が玄関のガラス戸を揺らしていく。
触れた指先から、熱が広がる。
恋しくて、触れたくて。
泣きたいような、切ない気持ちに絡めとられて、未夢は身動きがとれなかった。
「え・・・っと・・・、そう、鞄。ハンカチとか、入ってるから。」
出てきた言葉はありきたりで、呑みこんだ言葉が何かは未夢にはわからないけれど、とても大きかった気がした。


触れられたままのワイシャツから、熱が広がる。
強い風に息をさらわれたように、上手く息ができない。
「あ、ああ。」
彷徨は未夢に鞄を手渡す。
声が、情けないほど上ずっていた。
気づいたら、軽くなった手が、未夢の髪に触れていた。
何の考えもない、強いて言えば、触れたいという願望だけに動かされた行動。
触れたくて、愛しくて。
未夢の肩が強張る。
視線は、合わせたまま。
問うような未夢の瞳に、胸が苦しい。
「・・・ついでに、髪も、直して、こいよ。」
言い訳を探すように、さらさらの髪をそっと梳くと、逃げるように教室に向かった。
風が荒らした髪も、息もすぐに整ったけれど、未夢が乱した鼓動はなかなか戻らなくて。
静かな廊下に、自分の荒い足音が響く。
彷徨は、未夢の髪に触れた手を、そっと口元に当てた。


丸い椅子に腰かけて、未夢はぺたりと足首に湿布を貼った。
急患でもあったのか、保健室には未夢しかいない。
頬のほてりが治まらない未夢には、かえってありがたかった。
「あ、髪。」
思い出したように鏡を覗き込む。
あまり綺麗とはいえない鏡に映るのは、いつもと変わらない自分。
強いて言うなら、顔が赤いくらいだ。
「何よ、もう、直してくれたんじゃない。」
拗ねたように呟いて、未夢は誰かの手をなぞるように、そっと髪を梳いた。







こんにちは、ささめです。
「春一番」とは、春先に吹く強い風です。
テーマがカフェということで、ひたすら甘酸っぱさを追求しました。
初めての恋の強さとか激しさとか意味のわからなさとかを感じていただけたら嬉しいです。



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