夜明けの青いソファー

作:中井 真里



夜明けの空
星が消えていく空




「おやすみ」




私はそう呟いて、窓辺のソファーに眠る彼の唇にそっと口付けた。







□■□






-7月


季節は夏真っ盛り。しかし、学生はそうも言っていられない。


間近に控えた前期末試験の準備に向けて、大童になるのだ。
それは今年の春、2年に進級したばかりの未夢も例外ではなかった。


授業のたびに溜まっていくレポートの山を処理するだけでも大変なのに、
試験の課題として出されるいわばまとめのレポートや
加えて、論述試験までこなさなければならない。



毎回試験前になるたびに、憂鬱な気分になる未夢であった。
試験前の大事な講義も、締め切りの近い課題レポートのことで
頭が一杯になってしまう・・・。そんなことの繰り返しが続いていた。



午前中の授業が終了し、外に出た。
太陽の光が一層眩しく感じられた。



ふと、後から肩をポンと軽く叩かれて振り返ると
見慣れた姿の少女が立っていた。


少女というより、女性と言った方がいいのかもしれない。
紅いソバージュの髪が、夏の生暖かい風に触れた。



「未夢ちゃん、レポートの調子はいかがですか?」
「アメリカの政治と文化は終わったけど、フランス文化論がまだなの。
終わらなかったらどうしよう。単位、これ以上落としたくないのにな。
ふえ〜ん。今夜は徹夜だよぉ・・・」



未夢はふぅと深いため息を突きながら答える。
さすがのクリスも多すぎる課題に四苦八苦しているようだ。
口調に少し疲れの色が見られる。



「私、フランス文化論は何とか仕上げたのですが、日本文化論が
まだなんですの。今日中に仕上げないと締め切りが迫っていますし」
「クリスちゃんは手際いいし、すぐに終わるよ。
私ってば、本当に要領が悪いのよねえ」



「未夢ちゃんなら大丈夫ですわ。それに、
強力な助っ人がいらっしゃるでしょ?」



クリスはそう言って少しからかうように小さく笑った。



「いっつも頼ってばかりだから、今回は自分で乗り切らないと」
「偉いですわねえ。その粋ですわ」
「うん。頑張るよっ」


クリスの言葉に何だかやる気が出てきたようだ。
先程まで重かった自宅までの足取りが一気に軽くなった。






□■□






「ただいまっ」


勢い良くマンションの扉を開けると、
中から昼ごはんのいい匂いが漂ってくる。



「おかえり。リクエスト通り、カレーにしてやったぞ」



部屋の奥から青いエプロン姿の彷徨が顔を出す。
どちらかが授業の無い日はこうして昼食を作ることが、
いつの間にかふたりの日課になっていた。



「えへへ。ありがと。もうさっきからお腹が鳴りっぱなしだよ」



荷物を置いて鍋を覗き込むと、カレーの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。



「先にシャワー浴びて来い」
「は〜い♪」



未夢は返事をすると、上機嫌でバスルームに向かった。
その様子に彷徨は思わず口元を緩めるのだった。



シャワーを浴びて、椅子に腰掛けると、お待ちかねのカレーが運ばれた。
カレーを口に運びながら、今日学校であったことなど、さまざまなことを話す。

たいていしゃべるのは未夢だが、彷徨の方は黙ったまま、
未夢の話を楽しそうに聞いている。
今のふたりにとっては何より大切な時間であった。




「で、レポートの方の進みはどうなってるんだ?」
「そ・・・それが、いまいちでして・・・」
「大丈夫なのか?俺が分かるのだったら手伝ってやってもいいけど」
「いいの。彷徨だって自分のがあるでしょ?」
「俺は誰かさんみたいにためたりしないからな」
「もうっ。彷徨のバカ」
「はいはい。お前なら頑張れば大丈夫だって」



いつもどおりの会話のキャッチボールに、お互いの存在を実感する。


気が付けば、相手がそばにいる。
そんな実感が欲しいのかもしれない。



「さてと、はじめるか。お前も早くしないと間に合わなくなるぞ」



彷徨はそう言って手早く片付けを済ませると、
鞄からノートパソコンを取り出し、電源を入れる。


そして、しばらくパソコンの横に置かれた資料をじーっと見つめている。
レポートの構想でも練っているのだろう。
やがて、何かを思いついたように指が動き始める。


カタカタとキーボードを打つ様が本当に鮮やかだと未夢は思う。
画面に向かう真剣な表情に、胸の奥が騒いで仕方が無い。




「さて。私もやりますか」



未夢はそうつぶやいて、彼の表情を名残惜しそうに見つめると、
鞄から、父に買ってもらったばかりのノートパソコンを取り出し、
彷徨と同じテーブルの上に置いた。






□■□






「う〜ん。これは・・・」


いざ張り切ってはじめてみたものの、思った以上に難しい。
「ドイツ文化論」や「政治論」は手元の資料で要点をまとめ、
自分の考えを出典等を交えて書く程度で何とかなったのだが、
「フランス文化論」は資料自体が難しいものであった。

ちらりと彷徨の方を見ると、順調に進んでいるらしく、
キーを打つ手は止まらずに動いている。



「こうなったらインターネットで資料を検索してと・・・」



検索ページにキーワードを入力すると、さまざまなページのアドレスが画面に現れる。
その中から該当しそうなページをひとつひとつ開いていく。
しかし、それで今の自分に最も適切な資料が見つかるほど甘くは無かった。


「う〜ん。要点くらいだったら何とかなるんだけど、解釈が・・・。
元々私、フランス語は苦手だしな。フランス語うんぬんと言われても。
やっぱり私に言語学は遠い世界なのかねえ。トホホ」


ブツブツと呟きながら、思わず頭を抱えてしまう。
まさに「お手上げ」といった感じである。

彷徨はそんな未夢の様子が気になったのか、
キーを打つ手を止め、心配そうな表情でこちらを見つめている。



「どうした?」
「かなたぁ〜」
「お・・・おいっ」



彷徨にだけは頼りたくなかったのだが、現在の自分の状況を考えると、
助け舟を得るしか他に方法は無いと悟る。
必死の形相で彷徨に訴えかけると、彼の腕をぐっと掴んだ。
突然の不意打ちに、彷徨の心臓の音が一オクターブ上がる。



「み・・・未夢っ。とにかく落ち着けって」



彷徨はそう言って、優しく背中を摩ってやる。
こんなことさえも、役得だと感じてしまう自分に苦笑してしまう。
未夢がこうして自分を頼ってくれるのが何より嬉しいのかもしれない。
もちろん、自分以上に芯の強い未夢も魅力だとは思っているけれど。





□■□






「ふぅ。やっと終わったぁ」



未夢はパソコンに最後の文字を打ち終えると
両手を組んで軽く伸びをした。


すぐ側のソファーでは、一仕事終えた彼が
気持ちよさそうに寝息を立てている。



「いつもいつも心配かけてごめんね」





『星が消えてく空 窓辺のソファー 青く染まる
あなたを愛してる 言い出せない その一言』

『あどけない瞳で見つめないで。少年のようなあなたが憎いわ』







いつか聴いた岡崎律子の曲の歌詞が頭に思い浮かぶ。
未夢は、彷徨の少年のような寝顔を見つめた。






−まつげ長いなぁ。髪なんて私より綺麗だし。
−ふふっ。可愛い寝顔。いつもこの寝顔くらい可愛ければいいのに。って
それじゃ彷徨じゃないか。
−『愛してる』なんて、素直に言えないよねえ。こんなときばかりは素直になれれば
って思うけど。






そんなことを呟きながら、未夢の唇は、自然と彷徨の唇に触れていた。
なんだかいつもと違う感覚。
純粋に目の前の男が欲しいと思った瞬間なのかもしれない。





疲れのせいか、ふと激しい眠気が遅い、いつの間にか眠りに落ちていた。
まるで、彷徨の体に覆いかぶさるように。






それからどのくらいの時間が経っただろうか。






(いつの間にか寝ちまったんだな)




そんなことを考えながら目を開けると、ふと体に重みを感じた。
その重みが未夢であることが分かると、動揺を隠せなかった。
同時になんだか幸せな気持ちになった。




(今日はすごく頑張ったもんな)




二人暮らしをはじめてから、未夢の頑張りはこれまで以上だった。
掃除、洗濯、食事の支度だけではなく、大学の勉強にも一切、手を抜かなかった。
どんなにつらくても、音を上げることはなかった。

試験勉強も、部活の練習も、ほぼ毎週出されるレポートも。
そして、今は大学の研究室に戻った両親の手伝いも。

ふんわりしているようで、すごく強い。
まるで母親のように彷徨自身を包み込んでくれているような気がしていた。


そんな未夢に負けないように、自分自身も強くならなければ。


そう思う。




(強く、もっと強く)




心の中にそう言い聞かせる。




30分以上は経っているだろうか。
ふと、先ほど以上の眠気が襲ってきた。





(明日も早いからもう寝るな。おやすみ)





恋人の幸せそうな寝顔にそう呟くと、彷徨は再び眠りについていた。








□■□








「おはよ」






彷徨はふと唇に触れるやわらかい感触で目が覚めた。
目を開けると、にっこり微笑んだ、エプロン姿の未夢がいた。


カーテンから差し込む太陽の光が眩しい。
焼き立てのトーストと、淹れ立てのコーヒーの香りがする。




(朝か。なんだか眠り姫みたいだな。俺)




そんなくだらないことを考えていると、再び言葉が降ってきた。
今度は少し心配そうな声に変わった。





「彷徨。熱でもあるの?」
「いや」
「もしかして、昨日無理させちゃったせいかな」
「大丈夫。心配すんなって」
「ところで今何時?」
「9時30分かな」
「今日の講義は11時からだから、余裕で間に合うな」





彷徨はさらっとそう言い放つと、いつのまにか駆けられていた毛布を取ると、
ソファーから起き上がった。

長時間硬いところで寝ていたせいか、背中が少し痛い。
でも動けないほどではない。




「早く顔を洗ってきてね。テーブルで待ってるから」


そう言ってはみたものの、未夢の表情から心配の色は消えない。
今回は自分自身に心当たりがあるから余計かもしれない。





「・・・・・」
「彷徨?」




ふと、彷徨の腕が未夢の体をすっぽり包み込んだ。
顔が見えない状況のため、表情は見えないが、
突然のことに驚いている様子は伝わってくる。
同時に少し緊張した息遣い。





「・・・・・未夢、愛してる」




突然の一言。
思いがけない一言。
だけど嬉しい一言。




『奪うくらい強く抱いていいの。あなたの体に棲む少年が欲しいわ』




それが未夢自身の気持ち。





「彷徨、私も愛してる」





未夢は腰に回された手を強く、強く握った。








□■□







『喫茶カンターループ』




「前期末試験、お疲れ様」
「お疲れさん」




傾けられたワイングラスが軽快な音を立てた。


いつもなら、サークルや部活の友人や、
クラスメイトが主催する呑み会に大忙しなのだが、
今日は二人だけの打ち上げ会。

友人達が事情を知ってか知らずか、気を利かせてくれたようだ。




「何だか夜にこの店来るの久しぶりね」
「そうだな。ここんとこ何だかんだですげー忙しかったし」




行きつけの店でのほっとしたひと時。

特製のスパークリングワイン、
パルミジャーノをふんだんに使ったチーズリゾット、
近くの港から魚介類を取り寄せたペスカトーレ、
サーモンとキャベツのピザ。
デザートにはスフレケーキ。



おいしい料理においしいお酒に舌鼓を打ちながら、話も弾んだ。
彷徨がうっかり友人にレポートを貸したら、
何人もの友人に同じレポートが渡ったのだが、
教授がそれ気が付かず、友人全員が最高点を採った話。

ドイツ文学のテーマがカフカだったのだが、
クリスが「変身」を取り上げて、それがすばらしい出来だった話。

駅前のショッピングモールに新しいイタリアンレストランがオープンしたのだが、
それが小西綾の姉夫婦が経営する店の2号店であり、
すでに学生の間で評判になっている話など。

他愛ない話だが、試験が終わった開放感と、
二人で無事その時間を過ごせているという喜びに満ち溢れていた。





「あのさ、未夢」
「うん?」
「明日から夏休みだな」
「そうだね。予定とかまだ何にも考えてないけど」
「どっか出かけようぜ。たまには二人きりでさ」
「だったら、海にいきたい。そしたら、ふたりで手を繋いで砂浜を歩くの。
砂絵なんて描いちゃったりしてさ」
「海、いいな」





『あなたを愛してる 言い出せない その一言』
『どうして求める前から失うこと思うの』





飾らない素直な気持ち。
相手をこんなにも愛してるという気持ち。
こんなにも相手を求めているという気持ち。


これから自分達にどんな出来事が待っているか分からないが、
お互いを想う気持ちがある限り、幸せになれる。
未夢はそう感じていた。







THE END






□■□




はじめまして。久々のだぁ!小説です。
何を書こうか散々迷ったのですが、
以前から書こうと思っていたネタで、
停滞していたものを引っ張り出してきました。


そのネタとはまさに「ソファーの上で寝ている彷徨にキスをする未夢」です。
途中まで書き終えていましたが、その後のストーリーが全く続かず、
放置されていたネタでしたが、今回の企画のために再度書きはじめたところ、
思ったよりもスルスル進み、これは余裕で間に合うかなと思ったら、
最後のまとめで止まってしまい、アップが企画の終盤になってしまいました。
関係者および同盟の皆様、読者の皆様に深くお詫び致します。


今回、執筆に辺り、岡崎律子さんの曲「夜明けの青いソファー」の歌詞を引用させて
いただきました(昨日の5月5日が7回忌となった歌手です)。

最後に素敵な企画をありがとうございました。


中井真里



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