作:中井真里
それは、忘れてはならない想い。
忘れたくない想い。
私は彼女の瞳を見ながら強くそう感じていた。
□■□
-7月上旬
「もう。やんなっちゃうな。傘持ってこない日に限ってこれなんだもん」
私は雨の中を走りながら思わずそう呟いた。
ここのところ天気予報がちっとも当たらない。
雨が降るといえば、雲ひとつ無い上天気になるし、
晴れると言えば、こうして湿っぽい雨が降る。
あくまで予報なのだと分かっていても、イライラする。
こんなのたいしたこと無いといわれるかもしれないが、
イライラするものはイライラするのだ。
そう思ったら、地面を蹴る力が強くなる。
気のせいかもしれないが、体が浮いたような気がした。
ふと我に返った私の目の前に見えたのは一軒の喫茶店。
「こんなところに喫茶店なんかあったんだ。とりあえず、雨宿りさせてもらおう」
私はそんなことを呟きながら、その喫茶店の扉を開けた。
”カラン”
まるで雨音とシンクロするようにベルが鳴り響いた。
「いらっしゃいませ」
店の奥から高く通る女性の声。
カウンターには、私と同い年くらいの男の子が立っていた。
窓際の席を選んで座ると、すぐに彼が水とおしぼりを持ってきた。
すらっと高い背。男らしくすっきりと整えられた短い髪。
それでいて意志の強い瞳を持つ男の子。
「・・・桜ヶ丘」
「何ですか?」
「・・・その制服。俺も桜ヶ丘だからさ」
「そうなんですか」
どこかの恋愛小説にあるようなありふれた会話。
何度映画で目にしたようなありがちなシュチュエーション。
しかし、私を見つめる男の瞳は何処か寂しそうで、切なげに見える。
言葉が続かない・・・。頼んだアイスコーヒーも当に底を尽いてしまった。
そうこうしているうちに雨が止んだ。
私は鞄を手に取ると、静かに店を出た。
「じゃあな」
男の子はそう言って手を振った。
夏の日差しのせいか、彼の笑顔がいっそうまぶしく感じられた。
□■□
次の日。友人でクラスメイトの佐々木恵に話すと、不思議そうな顔をした。
「あんなところに喫茶店なんて無かったような気がするんだけど」
「そうだっけ?うちの高校の男の子がバイトしているの見たから、
間違いないと思うんだけどな」
そういって、机に頬杖をついた私の頭の中には、
昨日会った彼の笑顔がぼんやりと浮かんでいた。
放課後。私達は店の前に立っていた。
昨日は雨宿りに必死で良く見えなかったが、
”Paradise" と看板に書いてあるのがはっきりと見えた。
「ほら。やっぱりあるじゃない」
「・・・・・昨日、ここで喫茶店なんて見かけたかな?」
そういって首をかしげている恵の様子を横目に見ながら扉を開けると、
昨日と同じ声がした。
「いらっしゃいませ。・・・あら。また来てくれたの?」
声の主は私達の姿を認めると、ふわりと笑った。
まさに声のイメージそのままの女(ひと)だった。
「はい。友達を連れて来たんです。とても素敵なお店だったから」
「・・・・・ありがとう」
秋風夏美という名前の女性はそう言ってやわらかい笑みを浮かべた。
そんな彼女にインスパイアされるように、私達も軽く自己紹介をした。
ちょうどそのときだった。
「・・・はっ・・はっ・・・。お・・・遅くなりました」
見覚えのある男の子が息を切らしながら店に入ってくる。
横でその様子を見ていた恵は顔を上げてはっとした。
普段から落ち着いた様子の恵の態度が一変したのを私は見逃さなかった。
「明・・・奈くん?」
「恵、知り合いなの?」
只ならぬ恵の様子に思わず声を上げる私。
「う・・・うん。神崎明奈くん。昔通ってた音楽教室が一緒だったの。
彼はバイオリンで私はピアノ」
「そうなんだ」
何だか動揺している恵の様子が気になった。
「恵がその子と友達とはね」
明奈という名前の男はそういってふっと笑う。昨日と同じ笑顔だった。
□■□
目の前には口が付けられていないコーヒーが湯気を立てている。
私は前に座っている恵と、ウエイターとして忙しく働いている明奈の姿を交互に見ていた。
(様子がおかしい)
ふとそう思った。
普通なら、知り合いとの久々の再開に胸を躍らせるものではないのだろうか?
思い出話に花を咲かせようとするものなのではないだろうか?
少なくとも私ならそうすると思う。
恵に聞いてみようと心の中で決心はしても、
触れられたくない過去なのかもしれない・・・。
一度そう思ってしまったら、聞く勇気など持てなかった。
「・・・美樹・・・あのさ。私・・・確かめたいことがあるんだ」
「確かめたいこと?」
「・・・・・とにかく、ここ・・・出ない?」
「いいけど、神崎くんとは話さないの?久々の再開なんでしょ?」
「・・・・・うん。いいの」
恵の様子に私まで動揺してしまう。
伝票を手に取り、会計を済ませると、夏実さんの笑顔に見送られながら、
ドアのノブに手をかけた。
「恵、もう帰るのか?」
「・・・・・うん。・・・・・また来るね」
「待ってるよ。えっと・・・」
「牧野美樹です。恵とは中等部からの同級生」
「・・・牧野さんもたまには顔出してよ」
「ありがとう」
そんなやり取りの後、私達は店の外に出た。
「で、調べたいことって何なの?」
「・・・・・図書館に行ってもいい?」
「いいけど、急にどうしたの?」
「・・・・・」
「まぁ、いいや。図書館に行こう」
「・・・・・ありがとう」
(もうしばらくはそのことに触れて欲しくない)
そんな恵の様子を疑問に思いながらも、
私達は高台にある大きな図書館へ向かった。
入り口で簡単な手続きを済ませると、
恵が確かめたいという新聞コーナーに足を伸ばした。
恵は手早い様子で5年前の7月の新聞を選び取ると、
三面に載った中くらいの見出しの記事に目を留めた。
日付は今日から一週間後。
そこには「日本人天才バイオリニスト 飛行機事故死」と書かれていた。
「恵・・・これはいったい?」
「・・・・・やっぱり私の考え通りだった」
私の言葉に恵は何かを確信するように呟いた。
「どういうこと?」
私の問いかけに、恵はゆっくりと重い口を開いた。
「明奈くん・・・ううん。明奈さんは5年前に飛行機事故で死んでいるの。
18歳のときにね。私、いつも面倒見てもらって。
一緒に遊んだり、合奏したり・・・。
でもね。彼の家が引っ越しをすることになって、
音楽教室をやめなければならなくなったの。
私、小さかったから、随分ぐずったらしいけど。
引っ越ししてからしばらくたって何度か手紙のやりとりはしていたけど、
一度も会ったことが無かったわ。送られてくる写真で顔を見ただけ。
それから海外のコンクールに出場するようなソリストになって・・・」
まさか。考えたくも無かったが、恵の表情がそれを真実だと告げていた。
「それじゃあ。あれは・・・」
「5年前の彼の姿だと思う。うちの音楽科に通いながら、
喫茶店でバイオリンを弾いていたって話だから」
「それじゃあ、あの喫茶店も・・・」
「喫茶店はそのすぐ後に閉店してしまったそうよ。
店長さん、明奈くんのことがよっぽどショックだったのね」
「でもどうして・・・」
「私達が見たのは、何らかの理由で成仏出来ないでいる
明奈くんの魂が作り出した幻なのかもしれないわ」
私は恵の言葉が信じられず、しばらく呆然としてしまったのを覚えている。
成仏できない魂にそれだけの力があるのだろうか?
そんなことを考えてしまう。
もし、魂にそれ程の強い力があるとしたら、
誰かを強く想う心しかない。
根拠は無いが、なんとなくそう感じるのだった。
「恵。明奈くんの実家に行って見ない?あなたと別れた後の彼の足取りが分かれば、
成仏できない理由が分かるかもしれないわ」
私の言葉に恵は戸惑いながらも小さく頷いた。
□■□
それから私達は週末を利用して、神崎明奈の実家・横浜を訪れていた。
私達の住むさいたま市から湘南新宿ラインで1時間ほどのところにある、
いわずと知れた大都市。
「恵ちゃん。今日は来てくれてありがとう。突然のことで驚いたけれど。
それからお友達も遠いところをわざわざありがとう」
「はじめまして、牧野美樹です」
「こちらこそはじめまして。私は神崎冬子。どうぞよろしくね」
そういって私達ににっこり笑いかけた女性はもう50近いはずだが、
明奈を思わせる綺麗な顔のつくりが印象的な人だった。
「・・・明奈くんの遺影にこうして向かい合うことなんて一度だってなかったから」
「今日はいったいどうしたの?」
「明奈くんが私と別れてから、どんな人生を送っていたのかなって知りたくなったんです。
その・・・好きな人・・・とか」
「・・・・・何処から話したらいいのかしらね」
私達は彼の遺影に向かい合いながら、母親の話にじっと耳を傾けた。
「・・・・・明奈にはね。好きな人がいたの。自分からはなかなか話してはくれなかったけど、
何度か会っていたみたいね。これはその女性から聞いた話なんだけど・・・・・」
「もしかして、秋風・・・夏実さんですか?」
「恵ちゃん、知っていたの?」
「・・・・・はい」
私は恵の表情が次第に曇っていくのを心配そうにみつめていた。
同時に、私の頭にはひとつの考えが過ぎっていた。
「明奈はあのとき、バイオリンを続けるかどうか迷っていたの。
自分に本当に才能があるのか、ソリストとしてやっていけるかどうか
という自信が無かったのかもしれないわね。
だから、留学の話も保留にしていたようなの」
冬子さんは話しながら、懐かしそうな、淋しそうな表情を浮かべていた。
今思えば、決して戻らない過去の記憶を辿っていたのかもしれない。
「もしかして、明奈くん・・・本当は留学したくないって思ってたのでしょうか?」
恵はたどたどしい口調ながらも冬子さんの方をまっすぐに見つめていた。
「それは私にも分からないわ。自分の気持ちを表に出すような子じゃなかったから。
ただ、心のどこかに日本を離れたくないという気持ちがあったのかもしれない」
「それはどういうことですか?」
恵が神妙な顔つきで聞いた。
それはまるで、死刑宣告を待つような表情にも感じられた。
「それは、夏実さんのことですか?」
私は恵の様子にいてもたってもいられず、気が付いたらそう口に出していた。
横では下を向いてうつむいている恵の姿が目に焼きついていた。
「・・・・・そう。どうやら夏実さんの実家が明奈との交際に反対していたようなの。
一人娘だから養子を迎えるつもりだったらしくて。音楽家の後取りなんていらないって
言われたみたいね。明奈、すごく悩んでいたわ。音楽をやめることも、
夏実さんとも別れることも出来ないって」
「それで留学したくないって・・・・・」
私の言葉に冬子さんはこくりと頷いた。
「だけど、原因はそれだけじゃないと思うのよね」
「ど・・・どうしてそう思うんですか?」
恵はたどたどしい口調でそう聞いた。
「・・・・・それからの明奈は恵さんと別れて、今まで以上に
音楽に没頭しはじめたんだけど、毎日何かを待っている様子だったわ」
「もしかして、手紙じゃないでしょうか?」
「誰からの?」
「恵と明奈くん、一時期手紙のやりとりをしていたみたいなんです。
もしかしたらその手紙を待っていたのかもしれません」
私の言葉に冬子さんは心底驚いたような表情で恵の方を見た。
「恵ちゃん、良かったらどんなやりとりをしていたのか教えてくれない?」
「・・・・・本当に何気ないやりとりだったんです。突然、手紙が来て、
今、どうしてるんだ?ピアノは続けてるのか?という感じの。
そんな出来事があったなんて少しも思いませんでした。
私、夢中で返事を書いて・・・・・」
私はこの言葉に恵の気持ちを確信した。
それは冬子さんも同じようだった。
「恵ちゃん、もしかして明奈のこと・・・・・」
「・・・・・・」
私は気持ちが言葉にならない恵の想いが手に取るようにわかって、
何だか切なくなった。
「ありがとう。明奈、喜んでいると思うわ」
冬子さんはそう言って優しく笑った。
その笑顔が、私にとっても、恵にとっても救いだった。
□■□
帰りの電車の中で、私は黙って座っていることしか出来なかった。
沈黙を破ったのは恵だった。
「私、嬉しかったんだ。明奈さんが私の手紙を待っていてくれたって分かっただけで」
瞳からは涙。
「恵・・・」
「美樹、こんなことにつきあわせちゃってごめんね」
「何言ってんのよ」
「・・・・・ほんとごめん。今だけ、泣くのは今だけだから」
恵はそういって私の肩に体を預けた。
電車のガタンがタンという音だけが、耳に響いていた。
それから一週間後、恵の元に一通の手紙が届いた。
差出人は「神崎冬子」。
そこには恵からの手紙を待つ明奈さんの様子が
ひとつひとつ思い出すように綴られていた。
そして、さらに半年後のことだった。
冬子さんの死が伝えられたのは。
そして、あの喫茶店もまるで何もなかったように消えていた。
「もしかしたら冬子さんの死を予期した明奈さんの魂が、
あのような幻を作り出したのかもしれない」とは恵の弁。
だけど、私はそうじゃないって思う。
あの幻は、明奈さんの恵への強い想いが作り出したものだって確信できるから。
恵は気付いていないけど、明奈さんは恵のことを愛していたのだと思う。
その想いを口に出せないまま、彼は逝ってしまった。
もしかしたら待っていたのかもしれない。
恵のひとことを。
な忘れそ
な忘れそ
あの日の出来事は私や恵の胸に、そう問いかけているような気がした。
THE END
私が高校生のときに考えて書いた私小説を、大幅に加筆修正したものです。
ちなみに原案は旦那だったりします。今読み返すと結構ロマンチストだったのね。
お目汚し、失礼致しました。
中井真里