作:中井真里
あなたはここにいない。
そんな寂しさだけが、彼女の胸を支配する。
バルコニーに吹き抜ける風が、
彼女の紅い髪を静かに揺らしていた。
+ + + + + + +
ここは彼女の家が所有する別荘。
夏は避暑地として多くの観光客が訪れる場所である。
彼女の家の別荘は、高原の高台にあり、
一年中涼しい風が吹いている。
毎年彼女の友人達と来ていたのだが、
今年は少し事情が変わっていた。
「ふぅ」
彼女は物思いに耽りながら小さくため息を突くと、
再び外の景色をぼんやり眺めていた。
「お嬢様。クリスお嬢様」
ふと後から声がして、振り返る。
銀色のトレーを持って立っていたのは
長い間、この別荘の管理を勤めている老女。
老女というには相応しくないほど、綺麗な女性なのだが、
年は還暦をとっくに越えている。
「お嬢様。お手紙が届いてますよ」
「佐々木さん・・・どうもありがとう」
佐々木と呼ばれた老女は、クリスの言葉が嬉しかったのか
朗らかに笑った。
「お嬢様のお友達ですか?」
「・・・お友達・・・そうですわね。私にとって大切な・・・」
「それはようございました。お手紙、待っておられたのでしょう?」
「そう・・・私は待っていた・・・・」
「お友達は大事な宝。大切になさいませ」
佐々木はそう言って、嬉しそうな表情を浮かべる主人の姿を
横目で見ながら部屋を後にした。
「お友達・・・か」
クリスは差出人の宛名を見て、
複雑な表情を浮かべながら封を切る。
そんな彼女の脳裏には、あの日の出来事が蘇っていた。
+ + + + + + +
それは、今から半年ほど前の冬。
繁華街で偶然会ったふたりは、駅前にある喫茶店のテーブルに
向かい合って座っていた。
ふたりの目の前には淹れたてのコーヒーが静かに湯気を立てている
目の前の彼女は、クリスの方をまっすぐに見つめると
少し照れたような表情で話を切り出した。
「あのね、クリスちゃん。私・・・結婚するんだ」
「・・・そう・・・でしたの・・・」
「パパにはまだ早いって反対されたけど、私達・・・もう決めたから」
「未夢ちゃんは強いんですね。わたくしとは違いますわ」
「クリスちゃん?」
未夢と呼ばれた少女は、そう呟いたクリスの表情を見ながら
意味が分からないと言った様子で首を傾げている。
「でも、私は彷徨が好きなだけだから。どんなときでも側にいて、
支えてあげたい。そして、私に出来ることをするの。
嬉しいときも、悲しいときも、それを分かち合いたい。
私自身を支えているのはその想いだけ・・・」
「・・・やっぱり、未夢ちゃんは強いですわ」
(私は、胸に秘めた想いさえも、伝えることが出来ていないのですから)
クリスは心の中でそう付け加えた。
「クリスちゃん・・・望くんと何かあったの?
彷徨も2人が付き合うことになったって聞いて、
凄くびっくりしてたから」
「いいえ、そうじゃありません。望さんは良い方ですし」
「そう。それならいいんだけど・・・」
クリスはそう言って黙ったまま、心配そうな表情の未夢を
静かに見つめていたが、はっと我に返るとすぐに目をそらした。
(私としたことが・・・いけませんわ)
「さあ、もう帰りましょう。彷徨くんが心配なさいますわよ」
「う・・・うん」
「未夢ちゃん、本当におめでとうございます。
私の分も幸せになって下さいね」
「ありがとう。私達、幸せになるよ」
未夢はそう言って、にっこり笑った。
そのときの表情は今でも目に焼き付いている。
今まで見たどの表情よりも、綺麗だった。
彼も、こんな想いで彼女を見つめているのだろうか?
同時に彼への強い嫉妬が胸の奥を支配していた。
それから3ヶ月後
一組のカップルは多くの友人達に祝福されながら、
内輪だけの結婚式を挙げた。
そんなふたりが新婚旅行に旅立ったのは、
今より1週間程前のこと。
「ふぅ」
(いまさらこんなこと想い出しても仕方がありませんのに)
クリスは大きくため息を突くと、心の中でそう呟いた。
そして、軽く深呼吸をすると、几帳面に折り畳められた
マリンブルーの便せんを開いた。
+ + + + + + +
「クリスちゃん、お元気ですか?グアムの空は青くて眩しいです。
海も日本の海と違って綺麗だし。海で泳いだり、
小さな舟でクルージングをしたり、二週間があっという間でした。
海では、この間クリスちゃんと買いに行った水着を着てみました。
彷徨ってばそれ見て笑ったのよ。本当に相変わらずなんだから」
『彷徨ってばそれ見て笑ったのよ』
その一文に、未夢の拗ねたような表情が浮かんできて
思わず笑ってしまった。そして、からかうそぶりを魅せながらも、
愛おしそうに彼女を見つめる彼の表情も・・・。
「それと、ちょっとしたご報告があります。
まだ彷徨には言ってないんだけどね(笑)。
来年までには家族がもうひとり増えることになりました。
初めての事だから、ちょっとドキドキしています。えへへ
それでは暑いですが、元気で過ごしてね。
この手紙が到着する頃には、日本にいるかも(笑)。
心から幸せな><西遠寺未夢より。」
クリスの表情は手紙を握りしめながら、次第に強ばっていった。
未夢ちゃんが妊娠・・・未夢ちゃんがママになる・・・。
それなのに、私は何も変わっていない。変わろうとさえしなかった。
こんな私、望くんだって好きになるはずが無い。
私は、私のするべきことは・・・。
「お嬢様、クリスお嬢様。お客様がいらっしゃいましたよ」
「私の部屋に案内して差し上げて」
「かしこまりました」
聞こえてきたひとつの足音が、彼女の部屋の前で止まった。
+ + + + + + +
「望さん・・・どうして?今日はどうしても
外せない用事があるとおっしゃっていたのに」
「・・・・・」
「・・・犯人は未夢ちゃんですわね」
「違うよ。ここに来たのは僕の意志だ」
クリスは望の心遣いに胸の奥が、
しだいに熱くなっていくのを感じていた。
「ありがとう」
「クリスちゃん・・・」
「ところで、望さん。何かわたくしに用事でしたの?」
「・・・・・」
望は黙って上着のポケットから、豪華な装飾でつくられた小箱を取り出すと
クリスの手のひらに乗せた。
「望さん・・・これはいったい?」
「クリスちゃん。僕は君から見たら、いい加減な男かもしれない。
君が心の底では誰を想っているのかも知ってる。
でも君を想う気持ちなら誰にも負けない。
君を誰より幸せに出来るのはこの僕だ。
僕と、人生を共にして下さい。死が僕たちを分かつまで・・・」
クリスは暫く黙っていたが、何か決心したような表情で望の方を見た。
その表情は、何時にも増して真剣だった。
「すみません。これはお返ししますわ」
「クリスちゃん・・・」
「私には、望さんにそこまで想って頂く資格がありません。
好きな人に想いも告げられない、変わろうともしていない私に。
それに、もう決めたんです」
(そう、これは私自身が決めたこと。もう引き返せない)
クリスは心の中でそう呟くと、
先程よりも強い意志にも満ちた表情で、
目の前の望を見据えた。
「決めたって何を?」
「パリへの留学です」
「りゅ・・・留学って・・・」
「パリに母と古くから付き合いのある、
有名なデザイナーの先生のアトリエで
勉強させて頂くことになったんです。
以前から誘われてはいたのですが、
望さんの言葉でようやく決心が付きました」
クリスはゆっくりとした口調でそう言った。
その表情はいつもよりずっと綺麗で、輝いているような気がした。
「クリスちゃん・・・」
「私、望さんに相応しい人間になりたいんです。
望さんに好きになって頂けるだけの人間に。
今のままでは甘えるだけの人間になってしまうから」
そう、彼や友人達に甘えるだけの自分ではいたくない。
彼や友人達に恥ずかしくない自分でいたいから。
クリスの心の中は、そんな想いでいっぱいになっていた。
「クリスちゃん。そこまで決心したなら、僕はもう何も言わない。
だけど、約束してくれるかい?絶対に僕の、僕たちの側に
帰ってきてくれると」
「一年、二年・・・それ以上になるかもしれません。
それでも、待っていて下さいますか?」
「僕は、いつまでも待ってる・・・僕が愛しているのは君だから」
「望さん・・・」
ふたりの顔が近づいて・・・。そのときだった。
-バタン
突然、ドアが大きな音を立てて開いたと同時に
ふたつの影が雪崩れ込んだ。
そして、影のすぐ側には、腕を組んだ男が
少し呆れた表情で立っていた。
「もう、未夢ちゃんがそんなに強く押すからやで」
「ごめーん」
「み・・・未夢ちゃんに理花ちゃん、それに彷徨くんも」
「君達、立ち聞するなんてはしたないよ。恥を知りたまえ!」
望は軽く咳払いをして、三人に鋭く人差し指を向けると
そう言い放った。
「ごめんなさい。声が聞こえてきたものだから、つい」
「かんにんな。聴くつもりはあらへんかったんよ」
「・・・あれだけ大声出しておいてよく言うぜ。
それに、お前って以外と押しが弱いんだな」
「か・・・彷徨っ」
彷徨の本音に未夢の表情が引きつった。
「ふふん。彷徨くん。僕にそんなこと言って良いのかな?
君のあ〜んな秘密やこ〜んな秘密を未夢ちゃんにばらしても?」
「そ・・・そんなものないね」
一方のクリスは、一触即発状態のふたりにおろおろする未夢の姿を
ずっと見ていたい気もしたが、このままではせっかくの再会が
台無しになってしまうと感じ、自らの手を大きく叩いた。
「まぁまぁ。私は気にしていませんから。それよりお食事にしません?
三人とも長旅でお腹が空いたでしょ?」
「そうやな。うち、もうぺこぺこやわ〜」
理花が真っ先に手を挙げる。
さすがの望も空腹には勝てなかったらしく、
しぶしぶと頷いた。
「さぁ、未夢ちゃんも彷徨くんも食堂へどうぞ」
「うん」
「あぁ」
こうして、友人同士の和やかな食卓が
久しぶりに囲まれたのだった。
+ + + + + + +
その夜、クリスは全く寝付けなかった。
風にでも当たろうと思い立ち、二階のバルコニーの扉を開けると
すでに先客がいた。胸の高鳴りを必死で抑えながら、
数センチ前の手摺に右手をかけた。
「未夢ちゃん」
「なんだか寝付けなくて。クリスちゃんも?」
「はい。胸の奥が無性に興奮してしまいまして」
「ふふっ。やっぱり」
「どうして分かったんですの?」
「私がそうだったから。彷徨に突然想いを告げられたときも、
彷徨にプロポーズされたときもね」
未夢は軽く目配せをするとそう言った。
「・・・クリスちゃん、良かったね。おめでとう」
「わたくし・・・わたくしの本当の気持ちは・・・」
「クリスちゃん?」
(今しかない!今しかありませんわ・・・)
クリスの心はそう告げていた。そして・・・
「未夢ちゃん、私はあなたが好きでした。世界中の誰よりも。
私の世界はあなたが全てだった。この気持ちは、この気持ちだけは
誰にも負けない。そう思っていました」
「クリスちゃん・・・」
未夢を見つめるクリスの表情は、悲しげで、切なかった。
しかし、哀しく染まった青い瞳はすぐさま決心の色に変化した。
「でも、少しずつ変わっていくあなたの姿を見て、
私も変わらなきゃ・・・そう思ったんです。
自分の幸せは、自分の力でつかみ取りたいから」
「クリスちゃん・・・変わったね。前よりずっと強くなった」
「それは未夢ちゃんのおかげですわ」
「クリスちゃん、お互い頑張ろう。女は度胸よ」
「はいっ」
ふたりはそう言って笑い合う。
目の前に、新たな未来が広がっているように感じられた。
(あいつ、何言ってるんだか。まぁ、未夢らしいけどな)
そんな強い決心を固めるふたりの後で、彷徨が少し呆れた表情で
見守っていたことは言うまでもない。
+ + + + + + +
それから3ヶ月後、クリスは日本を離れようとしていた。
友人達の見送りを受けながら、ゲートを上る。
(未夢ちゃん、彷徨くん、望さん、理花ちゃん)
これが私の新たな旅立ち。
今なら言える。
今日の私に、これからの貴方に。
Bon Voyage!
THE END
春香しゃんへのキリ番リクエスト第一弾。
テーマは「紅」。紅と言えばクリスという
安易な流れに(笑)。
同時に夏企画参加作品でもありました。
テーマは「いろは」でしたが、
ちっともそうなっていないような(汗)。
さりげになってるのかな?
個人的にもっとラブラブさせたかったのですが、
私の実力不足です。かなたんも殆ど出ていないし。
それでは最後まで読んで下さってありがとうございます。
予定では、期間中にもう一本出す予定でいます。
ちなみにタイトルの由来は直訳すれば、「良い航海を」
ですが、「お幸せに」という意味もあります。
今回、クリスにこれを言わせたくて書きました(笑)。
第二弾は後ほど。春香しゃん、もう少し待って下さいね。
#BGM Bon Voyage! song by 岡崎律子