蒼穹にて

作:中井真里



「わたくしには、心に決めた方がいます」


目の前の凛とした表情の彼女に、男は思わず息を呑んだ。
それは、言葉では言い尽くせぬほど美しく
強い意志で満ちていた。




+ + + + + +




その日の空合いは、初夏の季節を表すが如く
蒼穹だった。


白鹿・白菊両家の間で挙行された見合いは
彼女のひとことで、すでに何の意味も成さなくなっていた。


彼女は真の恋をしているのだ。男はそう確信した。
自らの入る隙間など、何処にもあるはずが無かった。


しかし、同時に男の心は些かの嫉妬と好奇心に掻き立てられていた。
知りたかった。白鹿家の後継者として
幼き頃から、世に溢れている穢れも知らず
慈しみ、育て上げられたであろう彼女の心に棲んでいる男の事を。



男がそう思った刹那。突然、襖の扉が開いた。






              * * *






振り返ると、ひとりの青年が姿を現した。
金色の髪に、深く蒼い瞳。
体にはぴったりとした蒼い袴を纏っている。


そんな彼の姿に、両家は一時騒然となった。
彼女の両親などは、予想もつかなかった人物の姿に
信じられぬと言った表情で、青年の姿を呆然と見つていた。


男は青年を見て、思わず感嘆の声を上げた。
白菊家は、古くから大使として
さまざまな国へ赴いている家柄であり
男自身も、多くの外国人と接する機会はあったが
こんなにも綺麗な客人に会うことなど無いに等しかった。


彼女はその青年の姿を見つけると、
心から安堵したような表情で
白百合のごとく穏やかな笑みを浮かべた。


男は思った。
彼こそ、彼女が心に決めた相手ではないだろうかと。


ふと青年が男の方を見た。


「こんにちは」


青年は流暢な日本語でそう挨拶すると、にっこり微笑んだ。
しかし、その蒼い瞳は水神のごとく挑戦的な色で満ちていた。






              * * *






「美童・グランマニエです。彼女・・・野梨子とは
聖プレジデント時代からの同級生でした」


彼はその美しい容姿に勝るとも劣らない、
テノール調の声でそう自己紹介をした。


両家の視線は、彼女と彼女の隣に座る彼の姿に集まっていた。
彼の隣に座っている彼女も自分達に注がれる視線に
思わず顔を強ばらせた。


彼は、そんな彼女の肩に優しく手を差し伸べた。
刹那、彼女の硬くなっていた表情は軟らかいものに変化した。


そして、目の前を真っ直ぐに見据えると
穏やかそうな彼女にしては少し強い口調でこう言った。





「わたくしは、彼・・・美童と白鹿流を継承します」




そう言い放った彼女の表情は、凛として美しかった。






              * * *





最初に立ち上がったのは、野梨子の父・清州だった。
清州は、決心の色に満ちた娘の表情を
しばし黙って見つめていた。




(それは本当なのか?どんな障害があったとしても
己の想いを貫く覚悟があるのか?)




野梨子は、そんな父の無言の問いにも
先程の表情を崩すことは無かった。
彼女の母も、見合い相手である男の両親も
そんな親子のやりとりに固唾を呑んで見守っていた。
彼・・・美童を除いては。




沈黙を破ったのは、父の方だった。




「美童くん、君はどうなんだね?」



美童は清州の方に顔を向けると、静かに口を開いた。
男は思わず息を呑んだ。



「僕・・・いえ私も野梨子と同じ気持ちです。彼女の想いと共に
彼女を、そして白鹿流を守っていきます。
死がふたりを分かつまで・・・」



美童の心には一寸の迷いも無かった。
目の前にあるのは、これから彼女と歩むべき、
ただ一本の道だけであった。



男は、美童の表情に並々ならぬ気迫を感じていた。
それは、彼の蒼い瞳に吸い寄せられそうになる程だった。




「野梨子、美童くん。そこまでの覚悟が出来ているのなら
お前達の好きにしなさい。私はもう何も言わんよ」
「父様?」
「・・・・・野梨子、幸せになりなさい」




清州は美童の話を黙って聞いていたが
そう一言呟くと、白鹿夫人が止めるのも聞かず
見合いの席を後にした。



その後、白鹿夫人の機転もあり、両家の見合いは白紙になった。
しかし、男の心は蒼穹のように澄んでいた。



それから3ヶ月後。



白鹿家では、婚礼の義が滞り無く行われた。
その日の空も、蒼く澄んでいた。






              * * *







「のりこ、野梨子」



自分を名を呼ぶ声に、野梨子はふと我に返った。
目の前には青い海が広がっている。



「野梨子、どうしたの?気分でも悪くなった?」



今は夫となった男の心配そうな表情を見つめながら
野梨子は静かに首を振った。




「・・・思い出していましたの」
「何を?」
「私と貴方が、本当の夫婦になった日のことですわ」
「そっか。あれから1年も経ったんだね。
魅録と悠理が結婚するくらいだもんなぁ。
清四郎も僕みたいにさっさと決めればいいのに
何やってんだろ?」
「ほんと、美童の言う通りですわ」



野梨子はそう言って微笑んだ。



美童はそんな妻の美しい横顔を眺めながら、
時の流れの速さを実感していた。


今では妻となった彼女の凛とした表情が
まるで、昨日のことのように思い出される。



美童はふと思い出したように呟いた。




「ところで、野梨子。話って何なの?君の方から旅行しようって
言ったのは珍しいなぁとは思ったけど」

「ごめんなさい。もう少し時期が来たらお話することにしますわ」



野梨子の意味深な一言に、美童は暫く考え込んでいたが
答えは容易に見つかった。彼女の様子がおかしかったのも
これで納得が出来るというものだ。




「野梨子!」
「・・・名前は美童が決めて下さいませんか?」
「ふたりの子供なんだし、ふたりで決めようよ」
「ふふっ。そうですわね」




ふたりは顔を見合わせて笑った。



目の前には蒼い海と蒼い空。



そして、これから先、歩んでいくだろう
険しく長い道には、決して変えようのない、
決して揺らぐことのない幸せで満ちている。



そう確信していた。







THE END









一条ゆかり作・有閑倶楽部より。

Blue3部作のラストです。カップリングは美×野。
この二人ということで比較的言葉を選んで書いてみましたが
まだまだのようです。次回作を頑張ります。


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