作:流那
あれから数年後。
今の彼女にとって、時間の感覚は無いに等しいものだった。
ただ、仕事に没頭するだけの毎日。
-彼がいない。
たったそれだけで、彼女の生活は一変した。
(恋の始まりがあれば、終わりもやってくる)
いつだったか、彼がそんな言葉を
意味ありげに呟いていたのを思い出す。
しかし、彼女が経験した燃えるような恋は
そんなもので推し量れるほど簡単なものではなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
辺りが新緑で包まれた初夏のある日。
彼女は短めの休暇を取り、ある地方を訪れていた。
こうして高台から眺める風景は格別だった。
青い空に、青い海・・・都会で暮らす者達にとっては
最高の贅沢と言えるだろう。
数年ほど前まで、彼とよくここを訪れては
この空を・・・この海を眺めたものだった。
さまざまな出来事が頭の中を駆け巡る。
思えば、彼と最後に別れたのもこの場所だった。
いつの間にか、彼女の脳裏にあの日が蘇っていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
あれは高校卒業間近の頃だった。
卒業旅行も兼ねて、この地方を訪れていた。
二人だけの旅行は久しぶりだった。
他愛のない話をしたり、
彼の溢れるばかりの雑学に聞き入ったり。
いつものような時間が過ぎていく筈だった。
しかし、彼等にとって夢のような時間は
一瞬にして崩壊した。
彼が突然ドイツに留学すると言い出したのだ。
「どうして言ってくれなかったの?私ってその程度の存在?」
「すみません。ずっと言い出せなかったんです。貴方だから
貴方だから言えなかった・・・」
「・・・・・」
彼女は涙を堪えて、目の前の彼を見た。
真剣な眼差しがこちらを見つめている。
◇◆◇◆◇◆◇◆
(泣くな・・・)
彼女は自分にそう強く言い聞かせたが、
涙が止まってくれる筈もなかった。
「チャンスなんです。ドイツに行って、
自分自身をもっと高めたいんだ。
僕は今のままの自分に満足が出来ない。
今のままの僕では、10年後の僕も
10年後の貴方もきっと退屈する・・・」
彼女は思った。それなら自分はどうすればいいのだろう?
彼自身が留学を望んでいる。彼自身の夢のために。
数年後の自分達の未来のために。
しかし、彼女には耐えられる自信が無かった。
彼のいない毎日なんて、想像も出来なかったから。
答えは、思ったよりもすんなりと出てきた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「分かったわ。だったら、こうしない?
あんたはドイツで夢を叶える。私はこっちで
ウチの店を二倍以上に大きくしてみせる。
そしたら、また会うってことで」
「・・・貴方はそれで、いいんですか?僕は・・・」
彼は少し哀しそうな表情で、口を開いたが
彼女の手がそれを止めた。
「ストップ。それ以上言わないで。一緒に
付いて行きたくなっちゃうじゃない」
「・・・・・」
「私はね、私だけのために生きるあんたを見ていたくないだけ」
「・・・・・」
「私はね・・・夢のために生きるあんたが好きなんだから」
彼女は涙を堪えながら、精一杯の強がりを言ってみせる。
しかし、後悔は無かった。自分の素直な気持ちを、
精一杯の想いを彼に伝えることが出来たから。
彼は、そんな彼女の言葉に暫く押し黙っていたが
ふとぽつりと呟いた。
「待っていてくれますか?どのくらい時間が掛かるか分からない。
3年後かもしれない、いや・・・5年後かもしれない。
それでも・・・待っていてくれますか?」
「待ってる。5年後でも、10年後でも・・・。
その代わり、挫けたりしたら絶対に許さないから」
「僕がそんな男に見えますか?」
「ふふ。そうだったわね」
ふと、笑みがこぼれる。
そんな彼女につられて、彼も笑った。
「愛してます」
「私もよ。愛してるわ」
幾度と無く囁き合った愛の言葉。
そのどんな言葉よりも、深く、重く感じられた。
最後のキスは、ほのかに潮風の香がした・・・。
◇◆◇◆◇◆◇◆
程なく時間は現実に引き戻された。
彼との夢のような日々は、二度と戻らない。
目の前にあるのは今と、自らが切り開いていく未来だけ。
「さて、そろそろ戻るかな」
彼女は軽く伸びをしながらそう呟いた。
その時だった。二本の大きな手が
彼女の顔を覆い隠した。
「どちらに戻るのですかな?お嬢さん」
後から響いてくる、低く通る声。
忘れる筈が無い。
間違える筈が無い。
ずっと待っていた貴方の声を。
「清四郎・・・」
思わず、自らの顔を覆い隠す大きな腕を
強く握りしめた。
「やっと日本に、貴方の元に
帰ってくることが出来ました」
清四郎と呼ばれた男は、そう言って
その風貌には似合わない程、
穏やかな笑みを浮かべて見せた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「でも、どうしてここが分かったの?」
「僕が日本に帰った時、貴方と会う最初の場所は
ここしかないって思ったんです。きっと貴方も
ここで待っていてくれると確信していました」
「ふふ、凄い自信ね」
「貴方に関してはね」
そう言って笑い合う。
いつのまにか、彼女の頬を涙が伝っていた。
「もうっ。いったい何年待ったと思ってるのよ。私ってば
何人もの男からプロポーズされたんだから。
玉の輿だっていたんだからね。それでも
あんたには、あんたの存在には敵わなかった・・・」
彼女は涙の含んだ声でそう叫ぶと、
彼の深く大きな胸に飛び込んだ。
彼はそんな彼女の気持ちに答えるように
強く抱きしめた。愛しい存在を確かめるように。
「僕も貴方には敵いませんよ。僕が心に決めたのは
生涯、貴方ひとりだけです」
「清四郎・・・」
「可憐・・・愛しています。僕と、人生を共にしてくれませんか?」
そうして彼のポケットから取り出された小箱から、
キラリと光る誕生石が顔を出す。
その表情は真剣な眼差しで満ちていた。
「清四郎、愛してるわ。今も、そしてこれから先もずっと」
程なくして、ふたつの唇が重なり合った。
あの時と同じ、ほのかな潮風の香がした。
◇◆◇◆◇◆◇◆
それからふたりは、会えなかった時間を
取り戻すかのように語り合った。
波の音が心地よく耳に響いている。
「経済誌、見ましたよ。頑張っているみたいですね。
"ジュエリーAKIの若き女社長、宝石業界を背負って立つ"」
「ふふ。そうじゃなきゃ、別れた意味がないもの。
そうそう、あんたの遺伝子研究も順調みたいね」
「ええ。本格的な夢の実現はまだまだですけどね」
思わず、笑みがこぼれた。自分のすぐ側に愛しい彼がいる。
それだけで、こんなにも世界が違うのだ。
「そうそう、あの悠理が結婚するって聞いた?」
「ええ。国際電話で。彼女のお相手からでしたけど。
まぁ、彼なら心配ないですよ。きっと。剣菱のおばさんとも
うまくやっていくでしょうね」
「野梨子は、二人目が出来たって」
「この間、手紙を貰いましたよ。幸せそうでした」
「でもあいつが野梨子と結婚なんてね。今でも信じられないわ。
どーせ尻に敷かれてるんだろうけど」
可憐はそう言って笑った。ふと横の清四郎を見ると
前を向いて、ひとしきり何かを考え込んでいる。
「何考えてるの?」
「僕たちは・・・どうなんでしょうね?」
「そんなの決まってるわよ」
-この青い空と、青い海。
そして、あんたと私がいれば
幸せに決まってるじゃない。
-それはそうですね。
ふたりはそう呟き合いながら、目の前に広がる
どこまでも青い風景を見つめていた。
THE END
一条ゆかり作「有閑倶楽部」より。
競作参加作品。テーマは「色」。
カップリングはいろいろ悩んだのですが
清×可で書いてみました。
悠理と野梨子のお相手は
皆様で想像なさって見て下さい(笑)。
それでは読んで下さってありがとうございました。