作:中井真里
−くちびるは甘い毒。私があなたを求める証−
私はこれからどうなるんだろう?正直まだ分からない。
好きな人と結婚して・・・幸せなのに分からないの。
なぜなら私はまだ夢の途中。立ち止まりたくないの。
あなたに、私たちの子供に見てて欲しいから。
こんな中途半端な気持ちのまま、私・・・あなたの横にいられない。
だから、もう少しだけ待ってて。夢が現実に近づくまで。
あなたの横にふさわしい私になるまで。
2002年 1月
-バタン
CKプロダクションのドアをひとりの女性が開ける。
髪はロングのソバージュ。
ただ、美人というだけではない、知的で毅然とした顔立ちに、
ちょっと幼さを覗かせる表情が彼女自身を一層引き立たせている。
今や押しも押されぬ実力派人気女優となった萩原未央だ。
代表作のプライヴェート藍はドラマ、
映画を通じて今でもシリーズが続いている。
今は、若手映画監督として注目を集めている熊谷一哉と結婚し、
事務所を出て独立している。
それでも、スタッフとは仲が良く、たまに顔を出すことも多い。
「未央!どうしたの?珍しいじゃない。事務所に顔出すなんて。
そろそろ独立した事務所の資金が足りなくなったのかしら?」
百合子が仕事をしている手を休めて、冗談を交えながら心底驚いた様子で顔をあげる。
対する未央は周りを見回しながら、百合子の方を見る。
「うふふ、そうじゃないんだけど。ちょっとね。未夢ちゃんは?」
「奥のソファーで寝てるわ。今、仕事が終わったばかりで。昨日の夜からぶっ続けだったから
すごく疲れてるみたい。用事があるならまた明日にしてくれない?」
「そう。今はいいわ。その代わり、明日にでも家に来るように言って置いて欲しいんだけど・・・。」
未央は言い終わるとにっこりと笑った。
大人っぽい顔立ちからは想像も出来ない無邪気な笑顔。
つき合いの長い百合子でさえ、ぽーっと見とれてしまうこともしばしば。
「じゃ、私帰るわね」
「え・・・ええ」
???
百合子は頭にはてなマークを浮かべながら未央の背中を見送った。
(あのこ、未夢に何の用事だったのかしら・・・・)
そんな疑問が百合子の頭の中を支配していた。
次の日、未夢は百合子に言われるまま、未央と一哉の住まいがある高級マンションに向かった。
ふたりのマンションは若いながら、ヒット作を次々生み出しただけあって、かなり大きい。
何度か来たことはあるものの、この大きさには未だ慣れない。
自分達の済んでいるマンションもかなりのものだが、こことは比べモノにならない。
そして、エレベーターの最上階に到着し、少し歩くとローマ字でKUMAGAIと書かれたドアが見えてくる。未夢はドアの前に立つと、深呼吸をして心を落ち着ける。そして、チャイムに手を伸ばす。
♪♪♪〜
少し変わったチャイムの音が鳴り響く。彼女の弟・礼央が作曲したものだろうか?
と同時には〜いという声が聞こえてきた。
ガチャという音がしたかと思うと、ドアから声の主、萩原未央こと本名・熊谷未央が顔を出した。
「いらっしゃい、待ってたわ」
未央は未夢の姿を確認すると、そう言って、ニッコリ笑った。
まるで何かを企むように。
未夢は一哉・未央のマンションのソファに向かい合って座った。
目の前にはおそらく未央の趣味だろうか、アンティーク調のカップに入れられたコーヒー。
そして、未央お手製のシュークリームが置かれている。
”話”というのは一哉が監督で未央が主演している「プライベート藍」シリーズの新作に
未夢を出演させたいという緊急の依頼だった。しかも、藍の助手・妹的存在で。
未夢は突然の話に頭が真っ白になってしまっていた。
(どうして私が、一哉さんの映画に・・・・それにクランクインしたら体大丈夫かな・・・
彷徨にも話さなきゃいけないし・・・)
自分には出来るのだろうか?という漠然とした不安もあるが、家族・・・ルゥとワンニャー・・・そして彷徨と過ごせる時間が少なくなってしまうという寂しさの方が大きかったかもしれない。
でも、やってみたい!という気持ちが無いというなら嘘になる。
未夢の頭の中をさまざまな葛藤が支配していた。
「というわけなんだけど、どう?」
一哉は一通り話を終え、手に持っていたカップを置くと、真剣な眼差しで未夢を見つめる。
監督として、自分で撮ってみたいと思える素材に出会った時の眼。
今でも奥さん程の素材には出会っていないと思っているが。
「私からもお願いするわ、ダメ? 今度の新作には未夢ちゃんが必要なのよ」
未央も手を合わせて未夢に縋るような眼で見ている。
将来が有望とされている若手映画監督と実力派人気女優にここまでされてしまっては、
こちらとしても仕事を受けざるを得ない状況にあった。。
そして、何より、ふたりの熱意に感銘を受けたという方が正しいかもしれない。
もう・・・・ここまで来ちゃったら引き返せない・・・・それに、
このままじゃ、私達、一歩も進めない。
そんな想いを巡らせながら、未夢はひとつの結論を出す。
「あの・・・・喜んでお受けいたします。」
そう言って頭を下げる。憧れの熊谷一哉の映画に出られるという喜びと同時に不安な気持ちが頭をよぎる。
自分で本当にいいのだろうか? なぜ自分なのだろう?という疑問が頭の中で繰り返されつつも。
もうやるしかない・・・・という想いが未夢の心を大きく占めていた。
「ありがとう。今回は今までのシリーズの中でもかなり力入ってるんだ
絶対いいものにするから、期待しててよ」
一哉は興奮のあまり、未夢の手を握りしめる。
「ありがとう未夢ちゃん。私達、邦画は今回でとりあえず一区切りになるし、
共演出来て嬉しいわ。一緒に頑張りましょう。それに、体のことなら大丈夫
私も注意するし、百合子にも話しておくから」
未央は驚いた顔をしている未夢を前に、軽くウィンクをした。
夜、未夢は夕食をご馳走になっていた。
食卓には一哉お手製の料理が並べられている。
一哉のつくる料理はこの家に招かれるたびに、何度もご馳走になったことがあるが、
相変わらずどれも絶品だった。
そして、未央の提供する話題が食卓に花を添える。仕事のこと、最近の結婚生活のこと、実家に預けている子供のこと、子供を連れて、アメリカに渡る決意を固めていることなど、未夢には想像も出来ない話ばかりで、思わず身を乗り出して聞いてしまうものばかりだった。
と同時に未夢は今の自分のあり方を問い直していた。
今の自分に、未央と同じような道を歩むことが出来るのだろうか?
今の自分に足りないものは何だろうか?
このままでいいのだろうか?
という疑問ばかりが、心の中で繰り返された。
「未央さん、知ってたんですね。私が結婚してることも、妊娠してることも・・・・」
食後の紅茶を飲みながら、未夢はふと話を切りだした。
「まぁね。百合子から聞いてたから。大変だけど、頑張りなさいよ
彼と一緒に」
未央はニッコリ笑った。
「はい」
心の奥に不安な気持ちを抱きながらも、未夢は元気良く頷いた。
マンション−starlights
「未夢のヤツ・・・・いったいどうしたんだ?」
彷徨はさっきから携帯と睨めっこしているが、以前として反応は無い。
「未夢さん、どうなさったんでしょうねえ。こんな時間までご連絡が無いなんて。」
ワンニャーが思わず呟いた。
「パパの携帯にも、ワンニャーの通信機にも連絡ないんだよね?」
ルゥも心配そうな顔をしている。
夕食後、ふたりと一匹は、テレビを見ながらくつろいでいたが、未夢からの連絡が未だに無いためどうしたのかと心配し始めていた。
そして、百合子さんに連絡してみよう。彷徨がそう思ったときだった。
♪♪♪♪♪〜
彷徨の携帯から、聞き覚えのある着信音が鳴り響いた。
(未夢だ)
そう確信し、電話に出る。
「未夢、お前何やってたんだよ。帰ってこないのは分かってるけど。連絡くらい・・・っておいどうしたんだ。何かあったのか?」
「彷徨・・・私・・・」
未夢は電話越しに今日の出来事をぽつりぽつりと話し始めた。
「・・・そっか。まぁ、せっかくの仕事だ。やってみたらいいじゃないか」
「うん。でも、また彷徨に迷惑かけちゃうし。」
「そんなことなら心配すんな。」
「彷徨・・・」
「俺も東京行く」
「ちょっ、彷徨?」
未夢は突然の言葉に驚きと戸惑いを隠せなかった。
「まぁ、そういうことだからさ。心配すんなって」
(俺が側にいるから、心配すんな)
小さな声で、そう言ってくれたような気がしていた。
数日後、プライヴェート藍・新作「くちびるは甘い毒」の制作発表が行われ、未夢の出演が全国に知れ渡ることとなる。クランクインは2月下旬・・・。
俺は夢中になる。君の瞳に、君の微笑み・・・・・君のすべてに
まるで別人のような君に驚きながら、自分が置いて行かれたような気持ちになる。
君は何処へいくのだろう。そして俺自身の行き先は何処にあるのだろう?
そんなことを自分自身に問いかけている。
君の心が自分であることを願いながら・・・。
「未央、何だその芝居は!」
「はい!」
「そこ、カメラの角度が悪い」
「はい!」
「光月、もっと集中しろ!」
「はい!」
2002年 3月
東京Rスタジオでは、熊谷一哉、脚本監督・萩原未央主演の新作「プライヴェート藍-くちびるに甘い毒-」の撮影が開始されていた。映画界期待のホープと言われている、若手映画監督・熊谷一哉の声がスタジオ中に響いている。
その瞳からは彼の映画に賭ける情熱が、ひしひしと伝わってくる。
彼の映画に関わる人々はその瞳を見るたび、皆、口を揃えて言う。
”熊谷一哉は本物だ”
と。
それだけ、彼の溢れるばかりの才能と気迫に圧倒されてしまうのかもしれない。
そんな中、萩原未央を凌ぐくらいに注目されている役者がいた。
未夢だ。
そもそも、熊谷一哉の映画には妻の未央を初めとして、彼が才能と魅力を見出した役者しか出演していない。そんな中、モデル出身の素人同然の未夢が出演することに対して回りも驚いているのだ。
確かに彼女の姿は目立っていた。モデルに相応しいすらっとした体型。長く伸びた金色の髪。
美人とは言えないが、周りを注目させる程の華があった。
今回、未夢が演じるのは、実は過去の記憶を一部無くしている超能力少女・珪。
彼女の出演シーンは、とある事件の依頼で藍の事務所を尋ねるところから始まっていた。
素人同然の彼女を一哉がどう演出するのか、また、彼女自身がどのような魅力を見せるのか、注目が集まっていた。
−ふぅ すげえな
一連の様子を見て、彷徨は思わずため息をついた。あまりのすごい雰囲気に思わず唾を飲む。
大学の休みを利用して、百合子の口利きで、スタッフとして潜り込んでいた彷徨だが、スタジオ全体に漂う熱気に胸が熱くなるのを感じていた。
ふと仕事の手を止めて、未夢の方を見る。演技に没頭する真剣な顔。
業界内では素人的な演技でも、彷徨には一層光って見えた。
謎の少女という役柄も、未夢のイメージにぴったり合っているような気がした。
−やっぱ、こういうのもいいよな。
抱えていた荷物を下ろして、その姿にじっと見入っていた。
思わず顔が綻んでいる自分に気付く。
(これがあるから、東京に来た甲斐があるってもんだよな)
誰にも聞こえない声で小さく呟いた。
−離したくない。ずっと、側で見守っていたい。
未夢の映画出演が正式に発表された時点で彷徨の心は決まっていた。
結局、ルゥとワンニャーを引っ張って、東京まで来てしまった。
この間、結婚したばかりの相手にそんな感情を抱くのは間違っているのだろうか?
彷徨は幸せを噛みしめながらも、何処か不安な気持ちは止まらなかった。
だけど今は・・・・そんな場合じゃない。
「お〜い、そこのスタッフ〜仕事終わったら手貸してくれ!」
−やべっ
彷徨は下ろしていた大道具を抱えると、足早になりながら、声のする方に向かっていった。
(頑張れよ。それと無理すんな)
心の中でエールを送りながら。
未夢の不思議な魅力が胸を掻き乱す。それは周りも同じだった。
「ふぅ」
思わずため息をつく。
未夢はスタジオの隅で、壁に寄りかかり、台本と向かい合いながら、
次に撮るシーンのイメージを膨らませていた。
台詞はすべて覚えて来た。あとは、自分の演技をするだけ・・・。
それにしても、何度も撮り直しになった先程のシーン。
思うような演技が出来ない自分。
降り注がれる視線を意識し過ぎるあまり、身体が強ばってしまっていた。
一哉の大きな声で、思わず眼が冷めた。
とにかく演技をしなければと思い、身体を奮い立たせる。
こうして何とかそのシーンを撮り終えることは出来た。
でも、これからどうしよう・・・。行き場の無い不安が今の自分を襲うのが分かる。
これは私が選んだ選択肢なんだ。自分でなんとかしなきゃ。
ふとスタジオの向こうに彷徨の姿を見つける。
機材を抱えて、何か忙しげに動き回っているのが分かる。
その瞳は真剣に前を見つめていた。
ああ、そうだ、私ひとりじゃないんだった・・・。
彷徨が自分と同じ空間にいる。自分の心の中にいる。
そう思うだけで、無限の力が沸いてくる。
今なら、何だって出来る。
そんな気がした。
−ふぅ
眼を閉じて、ふと深呼吸をしてみた。
心が少しずつ落ち着いていくのが分かる。
−そろそろ、次の撮影が始まる頃だ。
未夢は丸めた台本をギュッと握りしめるとスタジオの中央に向かった。
(彷徨、ルゥ、ワンニャー・・・私頑張るから
だから、ずっと一緒にいてね。)
心の中で何度も呟きながら。
新緑色の瞳が一層光り輝いていた。
「よっ、お疲れ」
「彷徨もね」
スタジオの出口。今日初めての会話を交わす。
思わず、笑顔が込み上げてくる。
自分を見つめるダークブラウンの瞳がいつもより違ってみえた。
映画の撮影が始まって、ここのところ面と向かって話をしていない。
お互いの仕事が終わって、ふたりで過ごす時間が何より大切になっていた。
握り合う手の温もり。
それを感じるだけで胸の中の不安が安心に変わる。
「ねえ、彷徨」
「ん?」
「本当に東京に来て良かったの?」
彷徨の手を強く握りしめながら、未夢は不安な面持ちで彷徨を見つめる。
自分の為に、彷徨を犠牲にしたくはない。
そんな想いが、日増しに強くなって来る。
「いいんだ。俺が決めたことなんだからな。」
そういって、未夢の髪をくしゃっと撫でる。
「それに・・・・」
「それに?」
彷徨は未夢の手を取ると、黙って歩き出す。
そんな彷徨を未夢はきょとんとした眼で見つめる。
「ほら、行こうぜ。時間なくなるぞ」
「ねえ、彷徨。さっきの続きは?」
「秘密」
−それに、お前を感じられる場所にいたいから・・・。
「ほら、置いてくぞ」
言葉に出来ない想いを胸の中身しまい、再び歩き出す。
「もう、待ってよ」
未夢は少し拗ねた顔をしながら後に続く。
そんなしぐさが愛しくて溜まらなくて・・・
彷徨は自然と笑顔になる。
(頑張れよ。ずっと側にいるからな)
同じ言葉が胸の中で何度も繰り返される。
離れた手が再び握られる。
それだけで、心の中の不安が掻き消される。
あなたが隣りにいるだけで・・・。
それだけで、私はこんなにも強くなれる。
前を向いて、歩いていける。
R−スタジオ控え室
未夢は控え室で台本を読み返していた。
台詞は全部覚えている。今日こそ自分の納得する演技がしたい。
そんな想いでいっぱいだった。
−バターン
突然控え室のドアが勢い良く開いた。
入り口には、マネージャーの百合子が息を切らして立っていた。
「大変、大変なのよ。未夢」
さすがの百合子も顔面蒼白になっている。
「百合子さん、どうかしたんですか?」
未夢は訳が分からないと言った表情で首を傾げる。
「さっき、台本の直しが出たんだけど、
あなたが出演する場面にキスシーンが加えられたのよ。」
「な、何それ〜」
勢い良く立ち上がった表紙に手から台本が落ちる。
何も言えず、呆然と立ちつくすしか無かった。
未夢は当然演技でキスをした経験なんて一度も無い。
ただでさえ演技経験の浅い未夢に演技でキスをさせようと言うのだから
今の未夢にとって、これほど大変なことは無い。
「それにしても、熊谷監督も何を考えているのかしら。演技に関しては素人同然の未夢にそんなこと簡単に出来るわけが無いじゃないの」
百合子は一哉の突然の指示に訳が分からないと言った様子だ。
しばらくお互い黙って考え込んでいたが、突然、百合子が手をポンと叩いて呟いた。
「もしかして、熊谷一哉の気まぐれってヤツかしら?」
「気まぐれ・・・ですか?」
当然、熊谷一哉の映画に一度も関わった経験の無い未夢に分かるはずが無く、
意味不明と言った表情で聞き返す。
「彼の気まぐれによって作品が悪くなるどころか直す前よりも断然良くなるって話よ」
「気まぐれ・・・そうなのかなぁ・・・でも」
が、未夢の知っている限り、一哉が何の意図も無く台本を書き換えるなんてことは一度も無いし、誰かが説得したところで自分の考えを曲げるような意志の弱い人ではない。
「そうと分かったら、頑張りなさい、未夢」
百合子は未夢の両手を握りしめ、眼を輝かせている
「が、頑張るってキスシーンを・・・ですか?」
「そんなの決まってるじゃない。追加されたキスシーンで思いっきり
自分の魅力をアピールするのよ。これでスター間違いなしだわ!」
百合子はすでに自分の世界に入り込み、舞い上がっている。
「さて、私はいろいろ用事があるから、先にスタジオ行ってるわね〜」
百合子は騒々しくしながら、控え室を後にした。
(やるしかないのね・・・でも)
未夢は心の中でそう呟くと、席を立った。
が、その新緑色の瞳は、不安の色で染まっていた。
−バタン
控え室のドアが再び勢い良く開いた。
「彷徨・・・」
「未夢」
未夢が気付いたときには、すでに彷徨の胸の中に包まれていた。
彷徨は何も言わずに未夢を抱き締めることしか出来なかった。どうしようもなく不安な気持ちが、胸の奥から込み上げてくる。
今、離してしまったら、きっと何処かに飛んでいってしまう・・・。
そんな感覚にさえ襲われた。
未夢はそんな様子の彷徨に何も言うことが出来ずに、自分の身を彼の胸に預けることしか出来なかった。同時に、自分の中にあるどうしようもなく不安な気持ちがどんどん大きくなっていくのを感じていた。
(恐い・・・。)
そんな気持ちに駆られていた。
彷徨が傷つくのが恐い。
彷徨を傷付けるのが恐い・・・。
このままなりふり構わず進み続けたら
私達・・・いったいどうなってしまうんだろう?
未夢は彷徨の胸に顔を埋めながら、自分に何度も問いかけていた。
出るはずのない答えにかすかな希望を抱きながら・・・。
「さ〜て、充電完了かな?」
彷徨はそうひとこと呟くと、未夢を自分の胸から離した。
「彷徨・・・聞いたんでしょ?その・・・台本のこと。それで私・・・」
未夢は彷徨の不安そうな表情に胸がズキッと痛む。
「ば〜か」
彷徨の手が未夢の頭をくしゃっと撫でた。
暖かくて、優しくて、大きな手・・・。
「あのな、俺のせいでお前が演技出来なくなっちまったら、
俺はどうすればいいんだよ。この先、ずっと後悔しなきゃならないんだぜ」
「彷徨・・・私・・」
未夢はどうすればいいのか分からず、
不安な表情で彷徨を見つめた。
「そんな顔、すんなよな。決心・・・鈍るだろ」
彷徨はそう言ってニッコリ笑った。
そうだ・・・私 とっても大事なこと忘れてた。
何かに恐れて立ち止まったら、傷付かなくてすむかもしれない。
でも、傷付かない変わりに、進歩の無い自分がいる。
進んでいかなければ何も変わらない・・・。
この幸せを守ることさえ・・・出来ない。
「彷徨、私やってみるよ」
「頑張れよ。ずっと・・・見てるからな」
彷徨は未夢の肩をポンポンと叩いた。
昔、モデルの仕事で緊張してカメラの前に立てなかったとき、
こうして緊張を解してくれたっけ・・・。
そんなことが、まるで昨日の事のように思い出される。
今は、進んで行くしかない。
今日の撮影が、私達に与えられた試練なら、
乗り越えるという道しか残されていない。
新緑色の瞳が、決心の色に染まっていた。
(彷徨・・・彷徨。今日の私、何でも出来そうな気がするの・・・・・。)
−Rスタジオ
午前10時。本日の撮影が開始された。
未夢は自分のシーンの撮影が近づくたび、胸の奥が高鳴っていくのを感じていた。
未夢のキスシーンが登場するのは、珪が過去に失われた記憶を取り戻すシーン。実は財閥の令嬢だった彼女が、秘書・高村が父親を殺害する現場を目撃したあげく、唇を奪われるというもの。高村の歪んだ愛が、珪の記憶を取り戻すという展開になっている。
そして、午後12時。
注目を集める中、いよいよ未夢が登場するシーンの撮影が開始された。
「光月、表情が硬い!」
「神田、もっとリードして!」
「光月、台詞回しが早すぎる!」
「光月!」
一哉の叫び声でスタジオ全体に緊張が走る。
高田役の若手人気俳優・神田仁志の演技に一生懸命食らいついていく。
下手なりに、珪の苦しみ、悲しみを必死に演じる姿はさすがの一哉も息を呑むほどだった。
彷徨も仕事の手を止めて、思わずそのシーンに見入った。
(未夢の精一杯を受け止める・・・)
そう思いながら。
そして、問題のキスシーン。藍の協力で、事件の真相を突き止め、真実を語る珪のキスを高村が奪い、すべての記憶が戻るというシーンである。
未夢の眼から流れ出た涙が、場面をよりよいものに演出した。
眼を閉じた状態でのキス。
柔らかい感触が胸一杯に広がってくる。
相手は私の好きな人じゃない。そう思っていても身体は勝手に珪を演じていた。
演じるってこういうことなんだ。
本当に愛した人に裏切られた悲しみ。
それでも愛という束縛が彼女の心を支配している。
記憶を失わせる程に・・・。
くちびるは甘い毒。
愛する男からのキスは、女の心を揺らす。
同時に、相手の心を求める証。
−あなたを求める証−
−カーット
一哉の叫び声がスタジオ中に響き渡った。
撮影は無事終了。
焦って何度かNGを繰り返しはしたが・・・。
未夢自身も周りもほっと胸を撫で下ろした。
こうして未夢出演シーンの本日の撮影が無事終了した。
新緑色の瞳は、達成感で満ちていた。
−スタジオ出口
「お疲れ」
「ありがと。彷徨もね」
ここ一ヶ月、何度も交わされている会話。
だけど、未夢にとってはひとつひとつ違ったものに感じていた。
それぞれの言葉に意味があるように思えてくる。
何気ない言葉が、自分自身に元気や勇気を与えてくれる・・・。
そんな気がしていた。
「未夢・・・あのさ・・・」
「なあに?」
彷徨のぎこちない語調とは裏腹に、未夢はきょとんとした顔をして、
彼の方をじっと見つめている
「その・・・よかっと思うぜ。今日の・・・」
そう言いながら、彷徨は照れくさそうに頬を指でかいている
「彷徨・・・ありがと・・・・」
そんな彼の真意を察したのか分からないが、少し赤面しつつ
未夢の表情がぱぁっと明るくなった。
いつものように手を繋いで歩く夜の街が、何だか違う色に見えてくる。
私達の、私の想いひとつでこんなにも変わっていく・・・。
それは、お互いを大切に想う気持ちだったり。
そして、どんなことがあっても、
お互いを信じて乗り越える事の出来る強い気持ちだったり・・・。
私自身が相手を信じることで、少しずつでも
前を向いて進んでいこうとする気持ちだったり・・・。
私達はほんの少し前に進めた気がする・・・・
そんな想いを胸に秘めながら、いつもと違う街を歩く。
あちらこちらに照らされたライトが重なり合い、
まるでパレットのようにさまざまな色を写し出している。
車のエンジン音がやけに大きく聞こえてくる・・・。
ふたりはそれらを背に、ただ歩き続けた。
「彷徨・・・今日はごめん。それから・・・ありがと」
「ばーか。別に気にしてねえよ。ただ・・・」
「ただ?」
(妬けるくらいだったけどな・・・)
言えない言葉を自分自身の胸に秘めつつ、
思わず自嘲の念に駆られ、ふっと笑みを浮かべる。
「彷徨?」
未夢は頭にはてなマークを浮かべつつ、
彷徨の顔をじっと見つめる。
彷徨は桜色に染まるその唇に、いつもと違う色香を感じて
顔をふっと近づける。
そして、そっと触れた。
まるで、大事な物を包み込むように・・・。
「か・・・彷徨・・・」
いまさらながら、自分の行動に少し後悔する。
こういうのは・・・未だに慣れない・・・。
「ホ・・・ホワイトデーとお前の誕生日プレゼントの変わりな。
今年、それどころじゃなかったろ」
なんとか言葉を繋げながら、顔が次第に火照っていくのが分かる・・。
「うん」
未夢は恥ずかしそうに俯きながらもニッコリ微笑んで見せた。
「じ・・・じゃぁ私からも・・・いい?」
「え?」
彷徨が言い終わるのと同時に、唇に柔らかい感触を感じた。
さらりとした金髪がほのかな香りを放つ。
胸の音が騒いでうるさい・・・。
「ば・・ばか・・・」
「えへっ」
未夢は少しいたずらっぽい表情をして、いつも彷徨がするように
舌を出してみせる。
「ほ・・・ほら、そろそろ帰るぞ。ルゥもワンニャーも心配するしな」
彷徨は顔だけを前に向けて自分の左手を差し出す。
「うんっ」
ふたりは再び手を繋いで歩き出した。
あなたの想い・・・十分伝わってるよ・・・
そんな気持ちを込めて、あなたへの贈り物。
唇は甘い毒
同時に私自身の心を揺れ動かす甘い罠にもなる・・・。
私からあなたへの強い想いの証。
そして、あなた自身を求める証・・。
あなたへの強い想いはこれからも続いていく。
−あなたが側にいる限り・・・。
「ルゥくん達、首を長くして待ってるね。急いで帰ろう」
−家族以上の温もりを感じるあなたが・・・。
「ああ」
−ルゥと、この子の命と共に・・・・
THE END
ようやく書き終わりました。本当に訳の分からない文章になってしまって申し訳ないです。設定等はn&eシリーズに準じてます。というわけで、今回は「ハンサムな彼女」(吉住渉)を再度パロらせて頂きました。「プライヴェート藍」は劇中映画としてとてもお気に入りなので、機会があれば、別枠で書くことがあるかもしれません。
本当に古いネタですみません。今回、最初からスランプ気味で右往左往しておりましたので、文書自体も気に入ったものではありません。ギリギリの中での投稿となってしまいました。最後までお付き合い下さった皆さん、本当にありがとうございました。感想など頂ければ幸いです。ちなみにタイトルの元ネタ分かった方はすごい。
ではでは。
BGM NECESSARY song by okui,masami
私だけのヒーロー song by Yosizumi,Wataru