西遠寺考

作:山稜

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 だぁ!だぁ!だぁ!の舞台になる、郊外の都市。
 この市内の少し外れ、閑静な住宅街の高台の土地に、主人公・未夢が居候する彷徨の家、西遠寺があります。
 当然ながら、彼女・彼等のお話に大きく関わってくるわけですが、この寺をよくよく掘り下げて考えると、いろいろなことが想像できるのです。

 ここでは、一時期流行った「謎本」のようなことを書いてみたいと思います。
 ちょっと文字ばかりで見づらいかもしれませんが…。


西遠寺の沿革

 原作とアニメでは若干違うところもあるのですが、アニメでも建物の配置や内部構造などがあまり確定して制作されているわけではなさそうですし、ここでは原作に描かれている事柄から推察してみます。

 西遠寺の境内には、中心に本堂があり、すぐ脇に住居である僧房、手前に鐘楼があります。
 ここに仏塔がないことから、この寺は少なくとも鎌倉時代以降に建立されたことがわかります。それ以前の寺院では、伽藍には必ず仏塔がありました(京都・教王護国寺[通称・東寺]の五重の塔などは有名ですね)。
 飛鳥時代、仏教寺院の象徴であった仏塔は、時代の変遷とともに脇に追いやられ、鎌倉仏教ではもはや全く重要視されなくなります。では、鎌倉時代以降のいつ頃なのでしょうか。

 6巻のお化け退治の話には、西遠寺の建物が部分的に描かれていますが、その中で興味深いのは「本堂その他の梁周辺は斗拱(ときょう)が無視できるほどシンプルな構造である」ということです。
 あまりにもシンプルな構造であることから、これは鎌倉時代よりもずっと後の建築であると思われます。鎌倉時代に禅宗を中心に流行した禅宗様でも、斗拱はもっと複雑ですから、これは折衷様と言われる様式のものといえます。それでも、室町時代にはもっと複雑な様式ですから、もっと時代は下るはずです。

 これだけでは西遠寺が建立されたのがもっと後の時代なのか、あるいはいずれかの時代に全焼してしまい立て直したのか、ということは明確ではありませんが、全焼したとしても以前の様式で建て直す場合がほとんどですから、建立自体が安土桃山時代以降だと考えるのが妥当でしょう。

 さて、4巻収録の100人増殖の話に、全巻(発売予定の9巻を含む)通じて唯一描かれている仏像があります。前述のお化け退治の話でも、シルエットだけが出てきますが、同じシルエットですから同一の仏像と考えてよいでしょう。また、これ以外の仏像が見当たらないことから、この仏像が本尊であると考えられるのですが、実はこれが重要なポイントなのです。

 この仏像は「毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)」といい、全国でもあまり作例がありません。最も有名なのは、奈良・東大寺の大仏です。また、この毘盧舎那仏を本尊とする宗派は、日本仏教では華厳宗しかありません。従って、西遠寺は華厳宗に所属する1寺であることがわかります。

 ちなみに、華厳宗は鎌倉時代以降はあまり大きな勢力をもつことがありませんでした。この宗派の寺院が関東地方にある、というのは、安土桃山時代の大名のいずれかが華厳宗か、あるいは華厳宗の僧侶かを庇護していて、そこに寺院を与えたのだという考え方ができます。

 江戸時代になるとそういったことはできにくいでしょうから、この点をして西遠寺の建立は安土桃山時代、と考えられなくも無いでしょう。安土時代には信長の仏教排斥がありましたから、桃山時代と考える方が妥当ですね。

西遠寺の現状

 ところで、現在の西遠寺でポイントとして押さえておきたいことがあります。「一般の参拝に対して抵抗が無いわりに、お守りなどが売られている様子がない」ことです。

 一般の参拝を対象に観光収入を当てにしている寺院の場合だと、お加持の受付、お守りやお札の販売などのために、寺男と呼ばれる事務・雑用係の人がいるの普通です。ところが西遠寺の場合、そのような人が出入りする様子もありませんし、未夢・彷徨の級友がお参りなどで何度も来たことがあるなど、気軽に参拝しに来るわりには、お守りなどが売られている様子もありません。これは収入を別の要素に求めていることを示しています。

 そこで関連してくるのは「住職である宝晶が突然旅立っても、彷徨以外は誰も文句を言っていない」という事実です。

 江戸時代の檀家制度の導入によって、各寺院は檀家を抱えることになったはずですが、宝晶がいつ帰ってくるかわからない修行に突然出かけ、さらに代わりに仏事・法事を取り仕切る僧がいそうにない西遠寺に、誰も文句や相談を持ち掛けて来ない、さらには残された彷徨が何のフォローをしなくても、彷徨や未夢、ルゥ、ワンニャーの生活費に困らない―さすがにぺポの大食には不安を隠せない様子でしたが―ということから考えると、檀家の仏事・法事での収入に頼らない収益構造ができているものと言えるでしょう。境内にある墓地の規模が小さいことも、この裏づけと言えます。

 現代の寺院運営で、檀家の仏事・法事に拠らず、さりとて観光収入にも拠らない収益構造といえば、あと考えられることと言えば事業収入です。事業収入と言ってもいろいろありますが、宝晶が出版物を発行していたりしている姿は見かけられません。では、一体何から収益を得ているのでしょうか。

 宝晶が突然旅立った後、彷徨が何もしなくても生活費に困らない、また、フォローをしなくても後々の心配がない、ということから考えると、普段あまり何もしなくてもお金が入ってくるような事業でなくてはいけません。
 西遠寺は高台にあります。高台、といっていますが、言い換えれば西遠寺の裏は低い山、といえなくもありません。この山周辺が西遠寺の敷地ならば、この土地を貸し、賃借料を収入として得ていても不思議ではありません。税務署がうるさそうですね…。

住職・宝晶は本当に楽天家か

 「男手ひとつで彷徨を育てた彷徨のパパ。楽天家で深く物事をかんがえない。そのためか、未夢が引っ越してきたその日に修行に行ってしまった(インドへ)…。」と、作者に解説されてしまっている、現住職の宝晶。しかし、彼は本当に楽天家なのでしょうか。

 6巻収録のやはりお化け退治の話ですが、十数年前、宝晶は友達の僧と一緒に境内に現れるお化けを封印したとされています。さらに、息子・彷徨はお札を使って大蛇に大きなダメージを与えるなど、強力な法力を発動しています。
 彷徨は「お経はちいさいころおぼえたし」と言っていますが、いくら彷徨が頭がいいと言っても、小さい頃に憶えるには誰かがやっているのを見ていないことには難しいでしょう。それをやっていたのは誰か…お化け退治をした実績があり、また彷徨の父である宝晶がそう、と考えるのが最も自然です。

 前述の「西遠寺の沿革」の中で、西遠寺は華厳宗としました。華厳宗は奈良時代の南都六宗に数えられる、仏教理念を追求する集団として成立したのですが、その発展過程で密教を積極的に(他と比べてですが)取り入れたようです。ですから、宝晶が密教めいた加持祈祷ができるのは不思議ではありません。しかし、化け物退治ができるほど強力な法力を発動できるとなると話は別です。

 調べてみると、華厳宗で密教と関わりの深い人がいました。鎌倉時代の高僧、明恵上人(みょうえしょうにん、1173−1232)です。

 彼は8〜9歳ごろに父母と死別し、高尾神護寺に引き取られた後、16歳で僧侶となり、18歳の時には密教の秘法を授けられます。その後、19歳から60歳まで「夢記」という書物に自分の夢を書き記したそうです。密教の場合は夢を見ること自体が、観想や観法という意味合いでひとつの修行です。そのせいか、透視などの法力が使えたようです。

 また、明恵上人は座禅瞑想の修行をするなど、華厳宗でありながら禅宗に近かった人です。一個人として、あるいは一僧侶として、自分の道を探求していった明恵上人は、人間的に道元とよく似ているとか、栄西から後継を頼まれたとか言われています。

 明恵上人は釈迦が残したといわれる「遺教経」を特に大事にしていて、仏教に数多く宗派はあっても元々は釈迦よりのものという考えだったそうですから、宗派間の交流には積極的だったと考えられます。
 さらに明恵上人は、生涯に何度もインドへ行く計画を立てたそうですが、結局それは果たせなかったそうです。

 おそらくは、宝晶はこの明恵上人の話を幼い頃に聞いたのでしょう。自分の父親である先代の住職からか、あるいは華厳宗少年会みたいなものがあって、そこから聞いたのかもしれません。いずれにせよ、幼い頃に明恵上人に対する憧れを持ち、上人が果たせなかった「インドでの修行」の夢を抱き続けたのでしょう。

 そして、上人に近づくべく、密教・加持祈祷を研究し、現在のような強力な法力を体得。いつの日にか、インドでの修行を果たすべく、その日が来るのを心待ちにしていたに違いありません。ですから、インドでの修行に他の事を全て放り出してでも出かける姿、というのは、宝晶の宗教者としての情熱の現れだと言えます。

 修行の成果として、彷徨に「瞬間爆睡」などという傍から見たらバカバカしい術を自慢げに披露しているのは、いつでも夢の世界に入って修行ができることを成果として表したかったからかもしれません。

―とりあえず、続く―


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