字典のある日

作:山稜


Web拍手のお礼画面に入れていたものです


 辞書を、めくる。
 うすいページが、ひらりと舞う。

 ずっと、疑問がのこってる。
 「彷徨」という字は、「さまよう」と書く。

 ぎょうにんべん、の部。

4【彷】さまようようす。
8【徨】さまよう。

 どっちもにたような、意味。
 どうしてわざわざこんな字を?

「へー、めずらしーじゃん…おまえが漢和辞典ながめてる、なんて」
 その字の持ち主、横からくちばし。
「うるさいわねぇっ、わたしだってちょっと字をしらべたくなることぐらい、あるわよっ」
「どーせ『まんじゅう』とか『ようかん』とかだろ…」
 いつものとおり、舌先、ぺろり。

 どうしても、言いかえしたくて、
「『まんじゅう』とか『ようかん』とかが、どーして『ぎょうにんべんの部』なわけっ!?」
 どこ、しらべてるか、ひらいて見せて。

「…で…なんでおれの名前の字んトコに、シャーペンでマルしてるわけ?」

 ぐっ。
 自分で、ばらしちゃった。

 彷徨は息を、ふぅっと、はいた。
「どーせおまえのことだから、おれの名前がなんでこんな変わってんのか考えてたんだろ」

 頭のてっぺんに、おっきな星型がふってくる。
 ここまできたら、だまっててもいっしょ。

「ねぇ…」
「ん?」
「…どーして彷徨は彷徨なの?」

「あのなぁ…」
 次のことばを、つい待って。
「シェイクスピアじゃねーんだから、もっとマシなきき方、ねーのかよ」

「だ〜か〜らっ!」
「はいはい…」
「彷徨ってどーして、こんな『さまよう』って字なのってコトっ!」

 なんでこれだけのことで、こんなにゼーハーいわなきゃならないのっ。
 そうクチにすると、また言いかえされそうでやめておく。

「…それ、本名じゃないから」

 は?

 頭の上のカラスが行くと、彷徨がすこし、くちもと、ゆるめた。
「おまえ、人名漢字ってしってるよな?」
「しってるわよっ、役所で人名に受け付けてくれる漢字でしょっ」
「おれの字、どっちも人名漢字じゃねーんだ」

 へ?

「ウソだと思ったら、しらべてみろよ…たいてい巻末に、書いてんだろ」

 え〜と…。
 …。
 ホントだ、ない…。

「もともと『かなた』ってコトバの名前にしようって言い出したのは、おふくろらしいんだけどな…。
 かなたの夢に向かっていくよーに、って…。
 ことばをおふくろが決めたから、オヤジが字をきめることになったらしくてさ。
 でもオヤジも坊主だから、おれの戒名をもう、きめてて」

 ひっかかる。
「戒名?」
「そうだよ」
「それって、お葬式のときにもらうんじゃないの?」

「フツーはそうだろうな、しぬまで仏道修行なんかしないし…でも葬式の法要って『仏事』だから、仏門にはいってる人を相手にしかできない。だから、しんでから戒名もらうんだ。生きてるうちから仏門にはいってたら、はいったときから戒名がつくから」

 ポン、と手をたたいた。
「あ、芸名みたいなもんだっ!」
 がくっと彷徨の肩、おちた。

 おちた肩のあいだから、話はつづいてた。
「で…あちこちさまよって、しっかり修行するよーにってゆーんで、『彷徨う』って字がついたらしい…」

「ふ〜ん、なるほど…おじさん、さすが…」
「さすが、じゃねーよ…戸籍とか住民票とか、通称とちがうから、いろいろ苦労すんだぜこれでも」

 また彷徨、ため息で。
 まゆが「へ」の字に、まがってて。
 そーゆーのは、あんまり。

「でも…ねっ」
「ん?」
「あちこちさまよって修行して、ユメにたどりつくんなら…いー名前じゃない…っ」

 ちょっとだけ、目を丸くして。
 くちもと、ふわり、ほころんで。

「そう…だな…っ」

 …よかった…。

 安心したら、ちょっと言ってみたくなる。
「そんないー名前なんだから、しっかり修行して、ちゃんとユメにたどりつかないとねーっ」

「…もーいーぜ、それは」
「なに言ってんのよっ、まだまだ人生長い…」

「いや、おれはもう『ユメ』にはたどりついたから」

 それだけいって、彷徨は立った。
 さっさと台所、さっさと自分の部屋。

「ちょっと、ねぇ…っ」

 よびとめたって、ぬけていく風。
 漢和辞典が、ふかれて、ひらり。
 くさかんむり、の部の10画。


【夢】(一)睡眠中に,体験しているかのように感じる現象。(二)(将来の)理想、希望。


結構ながいこと、Web拍手のお礼画面に入れてたやつです。書棚に載せるに当たって、多少「てにおは」の部分は変えてますけれども。
もとはと言えば、チャットでのちーこしゃんの疑問をミニ小説にした品物です。さんくす>ちーこしゃん
兄夫婦が言ってましたからねぇ、「彷徨」って名づけようと思ってもできん!って。

たぶんまだ続編があります。きっと(^^;


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